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精神分析と映画をめぐる読書案内

精神分析はヒューマニズムか?(その1)

* Catherine Meyer (éd.) Le Livre noir de la psychanalyse (Edition des arènes, 2005, nouvelle édition 2010)

 Jacques-Alain Miller (éd.) L'Anti-livre noir de la psychanalyse (Seuil, 2006)


 もはや旧聞に属することであると思われるが、2005年9月、フランスで『精神分析黒書』Le Livre noir de la psychanalyse という大々的な精神分析批判の本が刊行されてベストセラーになり、psy の業界でもたいへんな物議をかもした。認知行動療法TCC)の主導者の一人ジャン・コトロー、ラカン派出身の哲学者ミケル・ボルク=ジャコブセンらがメインで執筆し、精神分析陣営からの転向組を含む精神療法家、歴史家、科学哲学者らが協力している。半年後には、この本の主な標的になっているラカン派(L'Ecole de la cause freudienne)の分析家たちが、ただちに反論の書『反精神分析黒書』L'Anti-livre noir de la psychanalyse を出版して応酬した。
 
 論争はまず、2004年に、“患者および親族のはたらきかけで”INSERM(健康と医学研究の全国機関)が政府に提出した報告書(『心理療法:三つのアプローチの評価』)をめぐっている。この報告書の内容が精神分析にとって不利であったことから、ラカン派が圧力をかけ、時の保健相フィリップ・ドゥスト=ブラジが保健省のウェッブサイトから報告書のデータを削除したという一件である。『反黒書』が伝えるところによれば、患者の団体および親族の団体には特定の療法を批判する意図はなく、図らずもINSERMの権威づけに利用されたというのが真相に近いらしい。

 INSERMレポートは、精神分析、家族療法、認知行動療法(以下、TCC)という3つの精神療法の効果を「あらゆる療法の専門家を交えて」「厳密に科学的に」比較したもので、16項目(診断マニュアルDSM-IIIにおける分類法に倣っているものと思われる)の症状のうち、TCCは15項目において効果があったのに対し、家族療法は5項目、精神分析は1項目(不安性人格障害)だけであったという。ちなみにこの1項目についてはTCCの効果も実証されているとのことだから、それこそ精神療法としての精神分析の存在意義をほぼ全否定するようなデータを提出しているわけだ。


 一方で、『黒書』における精神分析批判の論点そのものにとりわけて目新しいところはない。むしろ、最新のフロイト研究の知見にも目配りしつつ、昔からくりかえされてきたフロイト批判・精神分析批判の論点が(網羅的ではおよそないものの)要領よく整理されていて、読みやすく便利な本だという印象をもった。精神分析フロイトについてあるていど勉強している人にとっての再入門書としても役立つのではないだろうか。このへんは、編集のプロである編者メイエという人の貢献も大きいのだろう。


 『黒書』は、大きく分けて次の3つの観点から精神分析批判を展開している。

 (1)精神分析の創設神話の内実(2)精神分析の科学性
 (3)精神療法としての有効性


 ひとつひとつ順に、その内容を見ていこう。



(1)精神分析の創設神話

 さて、本書が一貫して主張するのは、フロイトの言ったことが、たんに間違っていただけではなく、みずから間違っていると知りつつ知らないふりをした、ひいては、もっと積極的に、間違っていないかのように偽装して、正しいと信じ込ませたというものである。

 『ラカンは間違っている』という邦題のついた本もあったけど、『黒書』によれば、フロイトは、たんに無知とか不注意ゆえに間違いに気づかなかった、あるいは間違いを放置した、という無邪気なレベルにとどまってはいないわけだ。

 たとえば、一般にフロイトの発見になるとされている無意識とか幼児性欲の観念。

 しかし、無意識という概念は、もとをたどればいくらでも昔にさかのぼれるし、幼児性欲もフロイトの発見ではなく、相棒の医師フリースやクラフト=エビングといった同時代の性科学者がすでに説いていたことであり、フロイトはこれを借用しているにすぎない。しかも、さらに悪いことには、フロイトは他人の説をあたかも自分の説であるかのように巧妙に偽装している。

 精神分析の創設はフロイトの「自己分析」にはじまるとされる。これをきっかけにフロイトエディプス・コンプレックスを発見し、ひいてはそれまでの自説「誘惑理論」を放棄したことになっているが、誘惑理論の誤謬は、フリースや性科学者たちの説によってすでに明らかになっていた。フロイトが「自己分析」を通じて自分の無意識のなかに読みとったと言い張っているものは、実は本で読んだ他人の説の受け売りである。これが精神分析の創設神話の実体であるが、こうして捏造された「起源の神話」を確固たるものにすべく、フロイト精神分析協会を結成して、会員たちに語り継がせ、事実として流通させた。

 さらに、フロイトの報告している症例もこのような悪意ある書き換えに満ちている。「医学上の秘守義務」を盾に、治療のデータを都合よく改竄し、自分の仮説にとって都合の悪い事実は見て見ぬふりをしたうえで(たとえばシュレーバーの父親をめぐる事実)、患者の「観察」から導きだされた説であるかのように発表した。そもそもフロイトの報告している症例で治癒した例はほとんど皆無なのであり、治癒していない患者を、それと知りつつ、治癒したと発表した。あるいは、治癒が精神分析的方法によるものでないことがはっきりしているのにもかかわらず、精神分析的方法によって治癒したと言い張って(精神分析的方法の創設的症例とされるアンナ・Oの症例がほかならぬそのケース)、精神分析の宣伝に利用した。

 また、アーネスト・ジョーンズによる伝記が流布した伝説とはちがい、フロイトという人は、支配欲が強く(自分の治療法がひろまるだけでは満足できず、つねにそれを自分がコントロールしていなければ気が済まず、「素人の精神分析」を制度化しようとしたりした)、金銭欲のかたまりで、女性関係にもだらしがなかった(義妹との不倫関係)。

 フロイトをあからさまに犯罪者(剽窃、データ改竄、偽医者……)もしくは宗教上の罪人(貪欲、淫乱……)に仕立てるレトリックは、アグレッシブで、毒に満ち満ちているものの、ギャグとして読める部分もあり、陰湿というよりはからっとした印象だ。基本的に昔ながらの精神分析批判の焼き直しなので、下手に生々しくないせいもあるだろう(皮肉ではなく)。

 言うまでもなく、精神分析は、創始者の存在がほかの「科学」以上に特殊な位置を占め、創設の神話が重要な役割を果たしている。それだけに、精神分析批判が、精神分析の誕生そのものに遡って行われることは、理に適っている。いわば、「精神分析は実は誕生してさえいない」ということを証し立て、精神分析の存在そのものを否定し去ろうとする戦略に訴えていると言えばよいだろうか。そのために、フロイトをめぐる細かな伝記的事実にまで踏み込み、そのかなりの頁がフロイト自身の批判に費やされている結果、アクチュアルな論争の書である『黒書』が一種の歴史書のような観を呈しているのは、しかたのないところではあるのだろう。しかし一方で、精神分析の今日的な事例について踏み込んだ記述がほとんど見当たらないことが、かなり不自然な印象をあたえるのも事実である(『反黒書』の方は具体的な症例をとりあげてTCCを批判しているだけになおのこと)。


(2)精神分析の科学性

 このような欺瞞のうえに構築された精神分析は、科学とは言えない。

 ところで、精神分析の科学性は、かつていろいろなかたちで問いに付されてきた。

 まず、カール・ポパーによる有名な指摘で、精神分析理論は「反証不可能性」ゆえに科学ではないとするもの。

 一方で、アドルフ・グリュンバウムらによる、反証は可能だが、単にその反証に耐えないとする指摘。

 本書の見解はそのどちらともちがう。科学として単に間違っているならともかく、精神分析は悪意に基づいて科学性を巧妙に装われた疑似科学であるというのがそれである。

 精神分析は、反証不可能な仮説を検証済み(つまり、正しいという説得的な証拠を提出した)と言い張り、反証可能な仮説のうち、実際には検証していない仮説をも検証済みと言い張る詭弁に立脚している。

 また、精神分析の世界では、フロイトはきわめて重大な真実を述べているので、たとえ偽りを述べることがあったとしても、その真実の価値は揺るがないとしたり、フロイトは一般的な真理を超越した別の真理を探究していたとして科学的真理を相対化する見解がまかりとおっている。ラカンは、科学の言説そのものが神経症的な構造に基づくとし、科学性は精神分析をはかりにかけるものであるどころか、逆に精神分析の対象となるべきものであるとさえ述べている。


(3)精神療法としての有効性

 精神分析は、科学でないばかりでなく、精神療法でもない。

 心の「深層」にまではたらきかけて苦しみの「原因」を探り出すという名目で、短期的な効果のなさをごまかし、他の精神療法とは段違いに高額な治療費を、長期間にわたって受け取り続ける口実としている。“人間はすべからく神経症的である”と逃げを打つことで、症状が最終的に消滅することはないと開き直り(「終わりなき分析」というレトリック)、症状をなくすのではなく、それを受け入れ、それと折り合いをつけ、共存していく態度を身につけさせることに分析の効果はあると言い放つ。

 つまり、精神分析は治療を最終目的とするものではないと自ら任じているわけで、治癒は「おまけの利得」(ラカン)にすぎないとうそぶいたり、ひいては「治癒への逃避」ということさえ口にされる。フロイト自身、みずからを科学者あるいは精神療法家というよりは、魂の探求者と見なし、精神分析を自己認識の手段と見なしていたふしがある。

 また、精神分析は治療を促進するどころか、その妨げとなり、さらには人命を危険にさらすことさえある。

 たとえば、麻薬依存症の患者にとって、精神分析的な治療法は有害なだけである。そもそもが、すがることのできる対象を求めている患者にとって、分析家の「中立性」の原則は治療への不信を増すだけであるし、即効性のない精神分析は、急速に脳の機能が破壊される麻薬依存症には向いていない。ところが、メタドンによる代替療法の導入が遅れたために、その間にオーバードーズエイズのために多くの患者が命を落とした。

 以上のことを考えれば、現在、精神分析が社会的な信用を失い、精神療法として需要を減少させていることは、当然すぎるほど当然である。フランスアルゼンチンを特殊な例外として、精神分析は世界的にとうのむかしに廃れてしまっている。精神分析がどこよりも早く普及し、1970年には3人に2人の精神科医によって実践されていたアメリカでさえ、現在では、わずかに全体の1割強の精神療法家によって採用されているだけである。

 これにあずかって大きいのは、精神薬物療法の飛躍的な発達である。世界的にもっとも権威があるとされている診療マニュアルDSMは、従来、精神分析の理論的枠組みに大いに依拠していたが、1980年に刊行された第3版では、一転して、精神分析的な枠組みをほとんど採用していない。これは、病因の解明よりも、症状の詳細な記述を重視する編集方針への転換によるものであるが、その背景には、明らかに、短期的な効果のない精神分析に対する社会的な需要の減少という事実がある。


 ついでに、批判点をもう一つ追加しておくと、

(4)精神分析は政治的にも正しくない。

 精神分析は、とかく患者の母親を、子どもの心の病を引き起こした犯人に仕立て上げようとする。

 たとえば、母親が仕事をもっていれば、子どもをネグレクトして心の病に導いたと責められ、逆に仕事をもっていなければ、過度の愛情を注いで依存症にし、やはり子どもの心の病の原因を作ったと責められる!(一方で、父親はこうした母親から子どもを救済するという得な役割を振られることが多い。)

 こうした傾向は、ジェンダー的な観点からも容認しがたいのではあるまいか。


 さて、以上のような『黒書』の精神分析批判に対して、『反黒書』はどのように反論しているのかと言うと……


 この項つづく