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精神分析と映画をめぐる読書案内

精神分析はヒューマニズムか?(その2)

 『精神分析黒書』が、精神分析を科学でもなければ精神療法でもないとしたのに対し、『反黒書』は、『黒書』の著者たち(の一部)が提唱するTCCこそ、科学でもなく、精神療法でもないと切り返す。

 精神分析は、患者を自由連想に委ね、患者自身の言葉から患者の心のありようを探っていくが、TCCは患者の話に耳を傾けることをせず、三択式のアンケートに回答させ、その結果をフィードバックすることで患者の心のありようを統計学的に判断する。人間のこころを数値化可能とみなし、「評価」と「操作(management)」の対象にしようとするのだ。こうした物質主義的なこころの捉え方は、こころの苦しみを脳の特定部位の損傷に還元する当節流行の脳科学や精神外科と結託し、向精神薬市場によって支えられていると『反黒書』は言い立てる。

 認知行動療法は、機能不全に陥った精神的部位の表象IRM画像]にはたらきかけることが可能な理性的方法によって患者の苦しみを癒すことを提唱している。こうした認知行動療法と結びついた脳科学の昨今の流行は、[人間の]主体性を純粋に唯物論的かつ機械論的に捉えるものの見方の延長線上にある。……こころや精神は、IRMの画面上に観察できるようなものではない。みずからを感じ取らせ、みずからを訴えるものである。あるいは、みずからを聞き取らせるものである。患者(主体)自身がみずからの言葉によってつくりだすものであり、科学が知によってつくりだすものではない。

 TCCの誇る科学性なるものの内実は、このような「科学万能主義」にほかならならず、患者を「被験者」とみなし、人間を動物や機械と同一視するものである。
 
 唐突な気もするが、『反黒書』によれば、人間のこころを「科学的に」操作可能と考えるTCCの思想には、「サイエントロジー的な側面」さえ見出せるという。
 

  社会的および個体ダーウィニズムへのTCCによるたえざる参照が意味しているのは、次のことである。TCCが事とするのは、「認知科学」の応用でも、行動および心の観察でもなく、心理学的および社会的なレベルでの「新人類」を創造することのできるような技術を作りだすことである。


 また、TCCは、症状を社会的な規範からの逸脱と見なして、患者にとって「残酷な超自我」のようにふるまい、「患者を方法的にこわがらせる」ことによって、社会的規範(=「環境」)への適合を促す懲罰療法を事としている。(このプロセスを“科学的に”言い換えれば、“不適切な条件づけを適切な条件づけに変える”ということになるだろう)。

 『黒書』の中心人物であり、TCCの主導者の一人であるジャン・コトロー自身、19世紀の精神科医フランソワ・ルーレをTCCのルーツに位置づけているが、ルーレという人は、患者を水攻めにしたり、焼きごてをあてたりして(電気ショック療法のようなものだろう)患者のいやがる刺激をあたえ、妄想の世界に引きこもる患者を、脅迫づくで現実の世界に連れ戻そうとするような前近代的な治療法を実践していた。

 『反黒書』によれば、TCCは、「症状」を(社会生活上の)「問題」に還元し、それによって、治療の目標を「治癒」から「健康」ないし「満足 (幸福、bien-être)」にすりかえるが、この場合の「健康」ないし「満足」とは「社会の支配的な価値観への適合」の同義語にほかならない。療法家は患者に対し、「前向きになりなさい。不幸なときも明るい気持ちでいなさい」と一方的に教え諭し、あるいは、「つべこべ言わずにがまんすること」というエピクテトス的な「奴隷の知恵」を教示して、「現実への適応」をひたすら促す。

 というわけで、TCCは「社会復帰訓練と条件づけの実践であり、厳密には精神療法ではない」。


 興味深い症例がいくつか紹介されている。たとえば、

 治安の悪い地区でバスの運転手をしている女性。日頃から地区の若者たちによる度重なる罵倒と暴力行為の犠牲になっていたが、あるとき、乗客の一人が、人差し指で自分の喉をかき切るような仕種をしながら、彼女を殺すと脅したことをきっかけに、仕事に行けなくなる。不眠、湿疹、肥満症を来たし、TCCの治療を受ける。療法家は、脅されたときの状況をくりかえし思い出させ、「自分は無事だった。これは何でもない」と念じさせた。さらに療法家は、ペーパーナイフを自分の喉元につきつけて、脅迫の場面を再演してみせることまであった。こうした訓練を続けるうち、恐怖は徐々に軽減し、仕事に戻ることができたが、同じような暴力に遭い続け、症状を再発。この再発は当然、予想されるものであったが、療法家は患者の職場復帰をもって「社会的適応」が達成されたと見なし、治癒の診断を下していた。


 あるいは、

 TOC(強迫性の障害)の母親。自分のせいで子どもが不幸になるのではないかとの強迫的な考えにつきまとわれている。療法家は、患者の頭に浮かんでくる子どもの不幸を逐一、ノートに記録させた。子どもが怪我をすることからはじまって、受験に失敗し、離婚し、失業し、失明し、不治の病に罹り……と徐々にエスカレートしていく連想をすべて書き出すことで、患者は一定の精神的安定を得ることができたが、これを続けていくうちに、ついにはわが子の痛ましい不幸を想像し、そのすべてを事細かに記録しないうちは精神の安定が得られなくなってしまった。

 これに対する『反黒書』のコメント。

 フロイト以来、否定された真実は口にされた真実と同じ価値をもつということをわれわれは知っている。この患者は、治癒したということにされたものの、代理の儀式に頼ることになっただけだ。彼女の強迫的な症状は、呪いのノートに閉じ込められ、権威的な治療者の命令するままに、見えなくなった。ところで、……象徴界から追い立てられ、排除され、締め出され、追放されたものが、なんらかの形をとって、現実界に回帰することは避けられない。この場合、愛情と不幸な考えの対象となっている子どもが、このうえなく不吉な運命の回帰に対してもっとも無防備な立場に置かれているのではないだろうか。

 さらに、

 愛犬が死ぬ夢に悩まされる幼児。愛犬一匹一匹の悪いところを数え上げることで(ところかまわずおしっこをする、人の耳を噛む……)、愛犬の死への不安は軽減し、夢のなかで犬が死ぬことはなくなったが、その代わり、今度は自分が死ぬ夢を見るようになった。


 次は、もっとも痛ましい症例。

 職場で上司からハラスメントを受け、職を失ったあげく、不安に悩まされるようになった女性。療法家は端から彼女の話に耳を傾けようとせず、休暇中に緊急の治療を引き受けることも拒否。休暇が終わるまで二ヶ月もの間、放っておかれた彼女は、そのために身体的変調を来すようになり、「身体が助けを求めている」と自覚するようになるが、再就職できたことをもって治癒と見なされた。

 たまたま悪質な療法家であったということもあろうが、この療法家に言わせれば、患者の聴取を治療の材料としないのがTCCの治療の原則であり、自分はその原則に忠実にふるまったということなのかもしれない。


 最後に、もっとも奇想天外な症例。

 「色情狂」の女子学生に誘惑され、関係をもってしまった教師が、療法家に相談。療法家が女子学生に別の男性(この教師の友人)を紹介すると、思惑どおり、女子学生はこの餌に飛びつき、教師は難を逃れる。女子学生の症状そのものは治癒しなかったが、相談者が平穏な生活を取りもどせたことをもって、任務完了ということになった。のみならず、療法家は「色情狂は運命的である」(治癒することはなく、永久に相手を替え続ける)というクレランボーの言葉を都合よく曲解して引用し、自分の治療を正当化した。


 いずれの事例においても、一度消えた症状が同じかたちでぶり返したり、別のかたちで再発したり、別の場所に現れたりしているのがわかる。心の苦しみの一時的な軽減が、その見返りに現実生活のなかに、予期せぬかたちで多大な押し寄せをもたらしている。ラカンの言い方を借りれば、「抑圧されたものが現実界に回帰する」ということになろう。ラカンによれば、症状とは「人間の現実に固有な本質」である。言い換えれば、治療によって完全に消滅してしまうことはあり得ず、人間が生きているかぎり抱え込んでいるものであるから、一度消えた症状はかならずなんらかの場所に、なんらかのかたちで生き永らえている(しかも、「現実界には法則がない」ので、往々にして、もっとも予期せぬ場所に、もっとも思いがけないかたちをとって顔を出す)。一方、TCCは症状をたんなる矯正可能な悪、あるいは一時的な神経衰弱と見なして、対症療法しかとらないので、症状が構造的なものであることが見抜けない。生活上の問題が表向き解決したことをもって治癒と見なすのだ。実際には、症状をその場しのぎで押さえつけ、本質的な問題の解決を永久に先送りにしているにすぎない。『反黒書』によれば、これこそがTCCの謳う安価で短期的な効果なるものの実体なのだ。「TCCには心的因果性の理論がないので、治癒の理論もない」。



 先に『黒書』の精神分析批判に新味がないと述べたけれども、一方の『反黒書』のTCC批判も、基本的に従来の行動療法認知療法脳科学批判に基づく論の立て方に終始していると言ってよい。しかも、『黒書』の精神分析批判に対する直接的な反論はほとんどなく、むしろ、『反黒書』が『黒書』をそのプロパガンダとみなすTCCを、『黒書』の精神分析批判と同じ、誇張と単純化に満ちた論法で攻撃することにほとんどの頁を費やしている。
 これらの点は、『黒書』新版の序論でも指摘されていることで、TCCの関係者は『黒書』の著者たちのうちの一部にすぎないとし、『黒書』がTCCの「トロイの木馬」ではないと弁明している。

 先にわたしは、『黒書』が精神分析の啓蒙書としても役立ち得ると述べたが、『反黒書』は、少なくとも認知行動療法の啓蒙書としては、あまり役立ちそうにない(『黒書』にあふれているサービス精神を欠いているという理由もあろうが、ひょっとしたら、批判されている対象そのものが、精神分析ほどの魅力と豊かさをもっていないせいかもしれない……)。
 むしろ逆に、『反黒書』がなんらかの啓蒙書として役立つとしたら、それはほかならぬ精神分析の啓蒙書としてだろう。わたしが『反黒書』をおもしろいと思うのは、『反黒書』が、攻撃対象のTCCをいわば鏡として、精神分析じしんの自画像を描いてみせていることである。しかも、TCCを誇張化あるいは単純化して捉えれば捉えるだけ、精神分析のほうも、それだけ輪郭のくっきりした姿で鏡のなかに映し出されるのである。

 その自画像を一言で要約すれば、ヒューマニズムとしての精神分析ということになる。

 これは、とくに先述したTCCの「科学万能主義」に対する激しい反発において明らかだ。TCCの方法を「科学万能主義」とその非人間性という一点に還元すればするほど、精神分析は、ヒューマニズム的な価値観に自らを基づけることになる。

 TCCが疎かにするものとして、『反黒書』が挙げているものは、「主体」「主体性」「無意識」「欲望」「現実界」「症状」といったものだ。 
 たとえば、次のようなフレーズが『反黒書』中の随所にみつかる。

 このような科学万能主義は、主体(患者)およびこの主体(患者)に関わる現実界を締め出している。

 あるいは、

 TCC療法家は、主体の構造[=無意識]を考慮に入れていない。

 さらに、

 TCCマニュアルの適用は、欲望と主体性を無視することになる。

 ‥‥などなど。これらラカン的な概念は、もともと、人間のヒューマニズム的な捉え方からの脱却によって注目された概念である。いまや、ラカン派みずからが、これらの概念にヒューマニズム的な意味あいをまとわせてしまっているのは、皮肉といえば皮肉であるが、わたしとしては、この方向性をポジティブにとらえたいと思っている。従来、こうした側面をラカン派は「倫理」というあいまいなことばで言い表してきたわけだが、精神療法の現場で人間の尊厳が危機に瀕しているいま、精神分析ヒューマニズムであることをみずから宣言すべきなのかもしれない。

 『反黒書』が『黒書』をTCCと同一視していることが正しいのか、誤認なのかは、むしろどうでもよい。誤認であった場合、それは『反黒書』のいわば症状をはからずも陽のもとにさらしていることになるのかもしれず、それはそれで興味深い事実だが、その場合にも、わたしはこの誤認にあくまでポジティブな意味を見出したい。

 『黒書』と『反黒書』は合わせて読まれる必要があるし、そうしないとまったくおもしろくないだろう。いずれの立場に与するか、あるいはいずれの立場にも与せず野次馬を決め込むのかはともかく、この一件によって、精神分析の存在理由があらためて問われたことが『黒書』の引き起こした論争の大きな価値である。
 すでにその数年前に、精神療法家の資格の法制化を提案する「アコワイエ修正法案」がフランスの psy業界、とくに独自の分析家養成制度をもつラカン派を大いに揺さぶっていた状況を背景に、はからずもその余波として起こった出来事をきっかけに、ここへきて精神分析はみずからを、そしてみずからの対象とする人間のこころというものを、またあらたに、そしていままで以上にはっきりと、決然と、定義し直すことをせまられているのだ。