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精神分析と映画をめぐる読書案内

精神分析とスピリチュアルなもの

* Jean Allouch : La psychanalyse est-elle un exercice spirituel? (EPEL, 2007)

 今月を以てラカン没後ちょうど30年。1971〜72年の講義録 ... ou pire、講演録 Je parle aux mursをはじめ、ジャック=アラン・ミレール Vie de
Lacan、エリザベート・ルディネスコ Lacan, envers et contre tout、ジャン=クロード・ミルネール Clarté de tout: De Lacan à Marx, d'Aristote à Mao など、先月末からラカンをめぐる新刊書の刊行がちらほら。これらはこの場でも順を追ってとりあげる予定。おたのしみに。



 さて……

 精神分析は現在、精神分析のステータスが何であるか、精神分析の扱う人間のこころというものが何であるかを再定義するのっぴきならない必要性にせまられているというのが前回の結論であった。

 精神分析にとっての曲がり角。いうまでもなく、危機は再生へのチャンスでもあるわけだ。

 ところで、おりしも、精神分析における“スピリテュアリティ”がテーマとして浮上している。(このことは、『思想』2010年6月号の座談会で十川幸司氏も指摘されている。)

 わたしの手元にも、たとえば、ジャン・アルーシュ『精神分析スピリチュアルな訓練か?』(2007)、フィリップ・ジュリアン『精神分析宗教
(08)、ピエール・ダヴィオ『ジャック・ラカン宗教的感情』(06) 、雑誌 Champ lacanien の特集「精神分析宗教」(10年3月)などがある。もちろん、ラカンの講演録『父の複数の名』(05)『宗教の勝利』(04)も、それと無関係ではないだろう。
 

 わたしとしては、この現象を、精神分析を早急に定義し直さなければならないという、精神分析家や研究者たちが共有する思いのひとつの現れと解釈したい。


 というわけで、これからしばらく精神分析スピリチュアルなものというテーマについて少しずつ考えてみることにした。

 今回は、ジャン・アルーシュの『精神分析スピリチュアルな訓練か?』をとりあげる。

 アルーシュはラカン精神分析を受けていた人で、すでに何冊もラカンについての本を書いている。論争性とユーモアにみちたエッセイがこの著者の持ち味。

 今回とりあげる本におけるアルーシュの狙いは、晩年のミシェル・フーコーが提出したある大胆な仮説を、フロイトおよびラカンのテクストをとおして検証しようとすることだ。

 その仮説とは、精神分析、とくにラカン精神分析が、古代ギリシャローマにおける自己陶冶の鍛錬(“自己への配慮”)を継承するスピリチュアルな実践であるとするものである。
 
 よく知られているように、晩年のフーコーは古代人が性の営みをとおして実践していた「自己のテクノロジー」を探求していた。ラカンの死の4ヶ月後の講義でフーコーは述べている。

 フーコーによれば、マルクス主義精神分析の核心には、つぎのような二つの問いがある。まず、

  “主体の存在とは何か?”

 そして、この第一の問いから出てくる二つめの問い。

  “真理に到達することで主体のなかで変化しうるものは何か?”


 「真理」に到達することによって、「主体」はある変容をこうむる。この変容を、フーコースピリチュアルプロセスと捉える。

 ラカンフロイト以降ただひとり、精神分析の問題をまさに主体と真理のあいだの関係の問題にあらためて集約しようとしたひとであったのではないか[…]。つまりソクラテスであれニュッサのグレゴリオスであれ、こうした霊性の歴史的な伝統やその仲介者たちとはもちろんまったく無縁なかたちで、分析知そのものに属するようなかたちで、ラカンは歴史的にみれば本来霊性にかかわる問題を提起しようとしたのです。それは、真実を語るために支払わなくてはならない対価の問題と、主体が自身について、真実を語ることができ、そして語ったということが主体に及ぼす効果の問題です。この問題をふたたび出現させることで、ラカン精神分析の内部に、霊性の最も一般的な姿であったあの<自己への配慮>をめぐる最古の伝統を、最古の問いかけを、最古の不安を実際に再出現させたのだと私は考えます。
廣瀬浩司原和之訳『主体の解釈学』筑摩書房

 フロイトにもラカンにも「主体化」subjectivation という概念がある。この概念は、精神分析をとおして患者がなんからのかたちで変容するということを含意している。アルーシュは、この変容をスピリチュアルな変容あるいはイニシエーションとして捉えようとしている。

 一方で、「主体」および「真理」という術語は、ラカンにはあるが、フロイトにはない。それゆえ、ラカンフロイトにもましてこの伝統に回帰したのだとアルーシュは考える。フロイト心理学に近づけようとした精神分析を、ラカン霊性のほうに引き戻そうとしたのだと。

 ラカンは、「精神医学とか心理学とは袂を分かち、たんに精神分析家であろうとした」(フーコー精神分析の『解放者』、ラカン」)。つまり、ラカンはそのぶんだけ精神分析を純粋化して、スピリチュアルな実践としての本質をつきつめようとしたのだ。ラカン精神分析の術語を一新しようと試みたのも、アルーシュによれば、精神分析精神医学心理学から引き離すためであるということになる。


 アルーシュは、いくつかの観点から、古代におけるスピリチュアルな実践と精神分析の共通点を挙げてみせる。

 たとえば、主体の変容が「他者」をつうじて実現されること。「自己への配慮」といっても、それは孤独に内面に向き合うということを意味せず、かならず他者を媒介として必要とすること(ガレノスによれば、人はおのれを愛し過ぎていて、自身の医者になることができない)。

 また、「自己への配慮」が「真実を語る」という実践と結びついていること。最晩年のフーコーは、「真理を語る」という意味のパレーシアという概念を探求しようとしていたのだった。

 あるいは、制度の存在。分析家の養成、学派といった精神分析の制度は、ふつうはその社会的機能においてとらえられることが多いが、実は本質的に霊的なイニシエーションにかかわるものだという。日常的には社会的機能が霊性というその本質を隠しているのだ。「パス」とか「カルテル」というラカン派に特有の分析家養成制度にそういう側面がみられることをアルーシュはほのめかす。

 アルーシュはそのほかに「金」(経済的・時間的「対価」)、「救済」、「カタルシス」、「自由連想」という観点から両者の共通点を考察しているが、いずれもおおざっぱなもので、アナロジーの枠を出ていない。


 アルーシュは、神経症においても、精神病においても、ラカンが見出していたのは、心理的な問題ではなく、スピリチュアルなレベルでの問題であるとしている。精神分析が癒すのは、スピリチュアルな問題なのである。

 その論拠としてアルーシュが引いてくるのは、たとえば、つぎのようなくだりである。

 たしかに、シュレーバーが女性への変容をなしとげたとき、神聖な受胎が起こるのだが、それについて、神が諸器官をつうじてのある謎めいた前進に関与する力がないことはあきらかである。……それゆえシュレーバーは、ある霊的な操作[une opération spirituelle ]によって、みずからのうちに、発病した頃にすでにそのきざしが知られていた萌芽状態の芽が目覚めるのを感じるだろう。
 おそらく、シュレーバーの創造物たちの新たな霊的な人類が、すべからく彼の胎内から産み落とされることで、現代の腐敗して呪われた人類が再生することになるのだ。
(「精神病のいかなる可能な治療においても前提となる一つの問題について」)

 ここで注目すべきは、シュレーバーの妄想が一種の霊的な世界の描写をその内容としていることではなく、原語の Geistige [Tätigkeiten]を、シュレーバー『回想録』の仏訳者が intellectuel などと訳しているのに対し、ラカンが spirituelと訳している事実だ。なお、ラカンは名高い「ローマ講演」においても、シュレーバーが苦しんでいた「霊的な厄介ごと(破局)」catastrophe spirituelle に言及している。そして、ほかならぬシュレーバー症例を考察する過程で練り上げられた概念「父の名」が、すぐれてスピリチュアルな含意をもっていることは指摘するまでもないであろう。


 あるいは、フロイトの『夢解釈』における「美人の肉屋の女房」について触れた一節。

 というのも、われわれの霊的なヒステリー患者[notre spirituelle hystérique](このように形容しているのはフロイトである)のこうした欲望、つまり、彼女が目覚めているときに抱くキャビアへの欲望のことであるが、この欲望は、満たされているのに、満たされていることを望まない女性の抱く欲望である。
(「治療の指針とその影響力の諸原則」)

 ヒステリー者が身を委ねる「満たされない欲望」は、宗教的な禁欲や殉教を思わせるところがあるが、ここでいう「霊的」なる形容詞が修辞にすぎないのか、あるいは、数行後に「肉屋の女房であってもなくても、世界中のあらゆる霊的なヒステリー者たち」という言い回しがあるところから、ラカンヒステリーそのものを霊的な実体と見なしていると解釈すべきなのか、とアルーシュは問いかけている。


 こんな引用もある。ここでは、「霊的」という形容が、一見、否定的に使われているように読める。

 ここで確実に言えることは、フロイトは、行動主義とのこのような共謀をとりわけ見越して、みずからの道[voie]と正反対のものであると告発したことだ。分析にとって、分析がコミットしているように見える特殊な霊的な体制[la singulière régie spirituelle]からの出口がどうあるべきかは別として。
(「1956年における精神分析および精神分析家の養成の現状」)

 アルーシュによれば、ここでは「霊的」であることじたいが批判されているのではなく、霊的であることのありかたがまちがっていると言われているそうだ。ここで言われている「霊的な体制」は、数ある「霊的な体制」のなかのひとつにすぎないという。

 本書にはこのようなこじつけめいたテクスト解釈が散見されるが、なかなか刺激的な仮説ではある。

 ちなみに、いまの引用のなかの「道」という言葉(ラカンはこれを多用している)の霊的な意味あいにもアルーシュは注意を促す。


 そのほか、『モーゼと一神教』でフロイトが探求しているのが、ユダヤ性ではなく、霊性一般であるという仮説も興味深い。フロイトは事実上の遺作で精神分析の本質に立ち戻ったのだ。またこうした観点から、『モーゼと一神教』の仏訳者が Geistige を文字どおりに「霊的」と訳さず、「精神の生活」と意訳していることにアルーシュは疑義を呈している。


 フーコーによれば、20世紀において、真理(と主体)の問題を提起したのは、ラカンハイデガーだけであるが、ラカンにおける「真理」という概念は、見方によってはあまりに仰々しく、時代がかっているので、まじめに受け取られることがなく、一種の比喩と見なされること多かったのではないか。アルーシュは、これをスピリチュアルな文脈における真理として文字通りにとるべきだと言いたいのだろう。

 精神分析スピリチュアルな修行に見立てることじたいは、実はありふれたことである。とくにラカンは、その禅問答のような晦渋な文章のせいもあり、しばしば禅僧にたとえられてきた(シュナイダーマンという人の書いた『ラカンの<死>』なる本の原題は、たしか『ラカン、禅の師匠?』であった)。とはいえ、それはあくまで見立てであり、イメージであり、たとえである。フーコー=アルーシュによれば、精神分析は、古代における「自己への配慮」の衣鉢を継ぐ文字通りのスピリチュアルな修行なのだ。


 フーコーは、ラカンを追悼するにあたって、たまたま講義のテーマになっていたスピリチュアルな実践とラカン精神分析を結びつけてみせただけなのだろうか? とはいえ、ラカンは、古代をたびたび参照しているし、ストア派に対するシンパシーをくりかえし表明したりしている。フーコー=アルーシュの仮説は、それなりの信憑性を予感させてあまりある。

 
 さて、フーコーによれば、霊性の探求はマルクス主義にも共通する課題であった。この指摘も刺激的ではないか。近いうち、この場でラカンマルクスの関係というテーマを扱うつもりゆえ、その際にぜひこの問題に立ち戻るとしよう。