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精神分析と映画をめぐる読書案内

ドミニク・ラファンという女優:クレマンティーヌ・オータン『愛していると伝えて』

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*Clémentine Autain : Dites-lui que je l'aime (Grasset, 2019)

 

 1970年代後半から80年代前半にかけて繊細で独特の美貌と強烈な存在感を放ちつつスクリーンの世界を駆け抜け、三十三歳で謎の死を遂げた女優ドミニク・ラファンは、ある世代の若者たち(筆者もそのうちもっとも年少のものらのひとりである)の熱狂的な崇拝の対象となってきた。

 

 『愛していると伝えて』は、極左指導者ジャン=リュック・メランションに近い代議士であり、フェミニスト活動家であるクレマンティーヌ・オータンが母親であるラファンとの関係を回想した書。

 

 本書は二人称による母親への呼びかけというかたちをとった、時間軸にとらわれずに並べられたいくつもの断章からなっている。

 

 役柄に全身全霊を投影する演技スタイルを持ち味としたラファンは、いわゆる破滅型の表現者に分類されよう。

 

 料理や家事はほとんどまったくせず、アルコールに溺れ、子供を育てる能力は欠如していた。親友の一人によれば「ドミニクは現実世界に錨を下ろす能力をもちあわせていなかった」。

 

 「役柄が娘の存在の先に立ち、出演作が母娘の時間を奪ってしまった」と言う人もいる。かのじょはつねに繊細さを要求する役柄を振られていた。「映画という職業があなたを見捨てたのだ。生の怒りを演じつづけ、三十五歳で自殺したパトリック・ドゥヴェールがそうであったように」。

 

 「ドミニク・ラファンのなかにわたしはいつもじぶんの母親を見てきた。でも母親役はあなたの最高の役柄ではなかった」。

 

 ある日、母親は幼い著者を残して忽然と姿を消す。

 

 「子供用のベッドで、わたしは物音で眠れないでいる。時間がどのくらい経過したのかはわからなかったが、ふと気づくと、何も聞こえなくなっている。あるいはむしろ、不穏な静寂がみなぎりわたるのが聞こえている。わたしは起き上がり、廊下へ通じるドアを開ける。誰もいない。しのび足であなたの寝室に入る。誰もいない。あなたにみつかるのをおそれて、あるいはあなたをおどろかせるのをおそれて、わたしはそっと歩く。灯りがつけっぱなしの居間のドアを押す。誰もいない。キッチンへ走る。誰もいない。あとは浴室だけ。誰もいない。私は七歳か八歳。時刻は九時か十時。わたしは家に一人きりであることを知る。窓の外を意味もなく眺めてみる。誰もいない。わたしは猛烈にこわくなる」。

 

 この場面が著者のトラウマとなる。大人になってからも、このときのことを悪夢にみて汗びっしょりで飛び起きることがあったという。「わたしは泣かない。泣いてはいけないと教えられていたから」。

 

 この出来事によって娘は母親への信頼を失い、母娘の絆は断ち切られる。

 

 母親の死を知った時、十二歳の著者は鏡のまえに何時間も座り、際限なく「ママ」と呼びつづけた。『夜霧の恋人たち』のアントワーヌ・ドワネルが同じようにして思いびとの名を何度も呼んでいたように。

 

 十代の頃、母の不在はなお著者に取り憑いていた。一緒に暮らしたアパルトマンのドアの前に佇んでみたり、母親の匂いをもっともっとかぎたいと同じ香水を買いつづけたり、モンマルトルにある墓のまわりをうろついたり……。相手が不在であるために怒りのやり場はどこにもなかった。時が経つにつれ、怒りは消えていった。

 

 別れて暮らしていたあいだ、ラファンは親しい友人に娘に会えないことの苦しさをつねづね吐露していた。娘はこれを「愛していると伝えて」というじぶんへのメッセージとしてうけとる。いうまでもなく「愛していると伝えて」はクロード・ミレールの演出したラファンの出世作のタイトルである。

 

 離れ離れになっているあいだ、母親はいろいろなものを娘に送ってきた。雪景色のヴェネツィアを閉じ込めたガラス玉を著者は長いこと自室に飾っていた。さながら著者にとっての“ローズバッド”であったということか?

 

 観ることを周囲から強く勧められていた『泣く女』をはじめてみたとき、著者はリセの最終学年に進級していた。『泣く女』でラファンが演じた女性ドミニクには著者と同じ年かっこうの娘がいる。

 

 『泣く女』はスターを迎えた作品として企画されたが、ドヌーヴにもミウミウにもオファーを蹴られた結果、ドワイヨンは恋人のラファンを起用し、みずからその相手役を演じ、自宅で撮影する低予算作品として撮ることを決意する。ドワイヨンは、ラファンと著者の関係が良好でないと判断して、娘役にはじぶんの娘ローラを起用。

 

 著者はドワイヨンとラファンとローラがベッドにいるシーンの撮影を眺めながら、あそこにいるのがなぜ自分ではないのかと自問し、これが思い出すごとに強い不安をかきたてる思い出となった。撮影中、ドワイヨンとラファンの関係は物語中のカップルどうよう破局を迎える。

 

 著者は学生時代に性的暴行を受けた経験によって卒論のテーマを変え、女性解放運動に生涯を捧げることを決意する。その際、指針となったのが、まさに女性解放運動の幕開けの時代に、自由で自立した女性のイメージをスクリーン上で体現していた母親にほかならなかった。

 

 「あなたたちは喧しく議論しながら夢を語り、危険を覚悟で『否』を突きつけた楽しげな世代に属している。わたしたちは、慎重なあしどりで、危険を冒さずにいかに『諾』というかを模索する意気消沈した世代に属している。このようなシナリオのなかで、わたしたちはあなたたちに先陣を切ってもらったと恩義をかんじている。そしてわたしは自由への志向をあなたに負っているとおもっている」。

 

 著者がもっとも親近感を覚える母親の映像は、Les Petits Calîns (1978) のなかでのもの。「葉巻をくわえ革ジャンすがたでバイクにまたがったあなたは、素敵な王子様がくるのを待つのではなく自由意志で選択することを欲する自立した女性を体現している」。スチールのなかのラファンは美容整形(男性的な価値観への服従?)以前のかたちのよくない鼻をしている。母親の秀でた頬骨をみて著者は母親とじぶんの繋がりをはっきりと意識する。

 

 「性的なオブジェとして受け取られていることを知りながら、あなたはじぶんのことをまじめにうけとってほしい、一人前の表現者として認めてほしいと願っていた」。

 

 パーティーの席で女性差別的な言辞を吐いたアラン・ドロンの顔に酒入りのグラスを投げつけたこともあった。「このようなふるまい、このような無礼はすべきものとはされていなかったが、あなたはそれをした」。

 

 ラファンはどの政党にも与していなかったが、アンガジェした女優であった。親友のひとりはかのじょをアナーキストと形容する。著者によれば、むしろ「トロツキスト」であり、なによりもフェミニストであった。

 

 ラファンの父親はジャン=マリ・ルペンとともに国民戦線を創設したブルジョワ政治家であった(著者はこの血縁者にたいして至極冷淡である)。ラファンは父親に押し付けられたカトリック教育に反発しつづけた。

 

 「あなたはブルジョワジーをきらっていた。ブルジョワの作法、ブルジョワの規範、そしてなによりブルジョワの軽蔑を」。

 

 かくして娘は母親のうちに政治活動家としての理想を見出す。この和解を著者は「内的な革命」として経験する。

 

 ドミニク・ラファンの死因は自殺あるいは心臓発作によるものとされているが、かのじょをよく知る人たちはいちように自殺説を強く否定している。

 

 著者はたまたまテレビで放映されていたマリリン・モンローのドキュメンタリーでマリリンの死が「偶然的自殺」(suicide accidentel)という言葉によって説明されているのを聞いて、この言葉が母親との葛藤からの出口になるのをかんじる。このようなオクシモロンによってはじめて母親との逆説的な関係を理解したきもちになった。

 

 ラファンの死を知ったとき、著者の祖母はこういった。「ふしぎね。かのじょが年老いたところを想像することができなかったの」。ラファンじしん、じぶんが若死にする予感を口にしたことがあった。

 

 アルコールに溺れる母親を見ていた著者はながいこと酒をたしなめなかった。あるときアペリティフを口にしていると、娘に「飲みすぎは毒よ」とたしなめられた。「娘にはすでにわかっているのだ。しかし娘は、このグラスがわたしにとっては当初の規律の転覆であり、あなたの裏面であることを知らない。いまではグラスを口にはこぶことができる。逆説的なことながら、これは新たな自由なのだ。わたしはもうこわくない」。

 

 ドミニク・ラファンはいまや忘れられた女優である。著者は母親についての調査でシネマテーク・フランセーズのアーカイヴを訪れるが、ドミニク・ラファンについての資料はいっさい保管されていなかった。「あなたの記憶を消してしまったのはわたしだけではないということだ」。

 

 ロラン・ペランがラファンに捧げたドキュメンタリーを著者はようやく観る気になる。そこでラファンについて語られる数多くの証言の抜粋が本書の掉尾を飾っている。 そこには母親の負の面しか知らない著者がはじめて知るラファンのもうひとつの顔があった。

 

 ドミニク・ラファンの遺体がベッドで発見されたとき、その枕元には睡眠薬の瓶と、ほぼ同世代といってよい女優パスカル・オジェの二十五歳での死を伝える雑誌の頁が開かれたままになっていたという。

 

 パスカル・オジェについては、その妹エメロード・ニコラが親友ジム・ジャームッシュオリヴィエ・アサイヤスらを含む数々の知人から聞き出した証言とプライヴェートなものをふくむたくさんの本人および遺品の写真と記事で構成した『パスカル・オジェ わが姉』(Filigranes Editions, 2018)が刊行されている。これほど愛に溢れた美しい書物はめったにあるものではない。『満月の夜』のセットデザインをはじめ、パスカル・オジェもまた女優という枠にとどまらぬ稀有な表現者のひとりであった。

 

 いずれの書物もfamille recomposée といういかにもフランスらしい家族形態の産物であることを付け加えておこう。

 

 

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