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精神分析と映画をめぐる読書案内

ジャック・リヴェットの映画批評集成(その5)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.


「アジェジラスの後に(演出)」
 「カイエ・デュ・シネマ」1955年12月号掲載の『ピラミッド』評。作家主義の別名であるヒッチコック=ホークス主義が名前を戴くヒッチコックは評価が進んでいるが、いっぽうのホークスはというといまだに「呪われた映画作家」たりつづけている。とはいえヒッチコックについても脚本のレベルでの批評が大多数で、「映画の本質、つまりスクリーンに映っているもの」言い換えれば「演出」はないがしろにされている。なぜか?「音楽愛好家のおおくが室内楽よりも交響曲交響詩をこのむのとおなじく、映画の愛好家は映画作家のわざ[art]よりもそれをとりまき、それをおおいかくし、それを飾り立てる外見的なことに反応するからだ」。ホークスの新作についても、古代史スペクタクル映画(「ハリウッドで最悪のジャンル」)という「外見」に惑わされる危険にみちている。ましてやジャンルのルールにさからうことをせず、そのルールにできるかぎり忠実にしたがうことで、いまや形骸化してしまったそのジャンルがもともともっていた存在意義[nécessité]を再発見するという行き方をホークスは常としている(この見解はロメールに負っている)。こうしたいみでの伝統への忠実さに「個人的な主題」を織り込んで撮られているのがホークス映画のとくちょうだ。感傷や説教に堕してしまうのがおきまりの古代史スペクタクルという枠組みのなかで「神=専制君主および人間の天才が挑んだもっとも壮大な事業のはじまり」という例外的な主題を扱う『ピラミッド』は「デミル式の罠」を逃れている。それを可能にしたのは西部劇への参照である(ちょうど『大いなる蒼空』が古代史劇を参照しているのと対をなす)。『赤い河』との類似が指摘される。どんなジャンルであれ、ホークスの主人公は「高貴さ、大胆不敵さ、機転、知性」といった古典的(「コルネーユ的」)美徳をそなえている。コルネーユとのアナロジーはときとして喜劇をも手がける偉大な悲劇作家というとくちょうによっても裏付けられる。


「ある革命についての覚書」
 同11月号の特集「アメリカ映画の現状」に寄せた記事。
 「ふたつのアメリカ映画が存在する。ハリウッドのアメリカ映画とハリウッドのアメリカ映画だ」。二つのハリウッドがある。「数字」のハリウッドと「個人」のハリウッドだ。アメリカ映画の第一の時代は俳優の時代であり、第二の時代は製作者の時代であった。そしていまや「作家」の時代が到来した。先陣を切るのはレイ、ブルックス、マン、アルドリッチの四人。そのあとにはウルマー、ロージー、フライシャー、フラー、さらに予備軍として[結局大成しなかった]ジョシュア・ローガン、ガード・オズワルド、ドン・タラダッシュも控える。四人はともに若さの美徳をそなえている。その最たるものは「暴力」だ。これは心の奥底から発する「男性的な怒り」であり、脚本や素材にではなく物語話法のトーンや演出の技術においてあらわれる。暴力は目的ではない。もっとも有効な手段である。「慣習の残骸を吹き飛ばし、突破口をひらき、最短距離を確保するためのダイナマイトだ」。そしてありきたりのデクパージュを拒否する「非連続的で不調和なテクニック」。そしてコクトーのいう「尊大な不器用さ」。かれらはみな「エゴセントリックな演出家」というありかたを最初に認めさせたオーソン・ウェルズの息子である(「ウェルズ的クーデタ」)。マンキウィツ、ダッシン、プレミンジャーがこれにつづいた。暴力は単独では生き残れない。「省察」がいまひとつの極となる。暴力が切り開いた政治的空位において英雄たちはみずからの運命を問い、深めるのだ。かれらの映画に挿入される長い空白や後戻りはそのためにある。かくして効率性と観想の弁証法が演出の原理となる。あらゆる革命がそうであるように、この革命は各人が内に秘めた野心の共通性によってではなく各人が反抗する敵の共通性によって四人を集結させた。四人がともども現代的な映画を撮る意志をもっていることだけで結集の口実たりえた。四人はそれぞれ別々のやりかたで現代世界の見取り図を提示している。ニコラス・レイは四人のうちでもっとも謎めき[secret]もっとも偉大で生まれながらの詩人である。黄昏、孤独、人間関係の困難への強迫観念がその全作品を貫く。怯懦と怖れからの人間性の奪回を説くブルックス、努力の価値を顕揚するマンはともどもホークスの末裔である。アルドリッチは退廃した世界の明晰で叙情的な描写によって正確な不協和音を鳴らすことで四人の調和を完成する。ほかの三人の伝統的なモラルにたいしてかれは否定的なモラルを提示するがじつは「帰謬法によって」前者を諾っている。この「革命」は工場製規格品への長きにわたる従属を脱してグリフィスとトライアングル社の伝統と手を結ぶ。ウォルシュ、ヴィダー、ドワン、ホークスらがその樹液によってこの革命をひそかに育みつづけてきたのである。四人組の映画をとくちょうづけるあるしゅの身振りの豊かさとストレートな感情の表出はかれら先人の叙情とメロドラマが準備していた。ことほどさように「素朴さ」(しかり四人は素朴派である)は「洞察」の同義語であり、ともどもハリウッドの職業的脚本家らの狡猾さの対極にある。かれらの送ってくる息吹はロッセリーニによる革新と手を結ぶ。
 同号にはトリュフォーと共同でのマックス・オフュルスへのインタヴューも掲載。


ロバート・ワイズの『へレンのトロイ』」
 「アール」2月8日ー14日号掲載。本家ホメロスお家芸でありホークスの『ピラミッド』にもあった「親しみのあるものと偉大さの混交」は、本作においては安易な下品さととりすました味気なさとの野合におわっている。


シネマテークで毎晩開催中:ドイツ映画の黄金時代」
 同2月15日ー21日号掲載。「ドイツ表現主義はそのぜんたいが演出についてのひとつの形而上学に基づいており、そこでは倫理と美学が不可分である。映画的創造の中心にある根本問題がはじめて正面から問われると同時にほぼ完全に解決された」。絵画史でいうならクワトロチェントに相当するムーヴメントだ。


フリッツ・ラングの『ニーベルンゲン』」
 「カイエ・デュ・シネマ」1956年3月号掲載。「ラングが真に天才的な映画作家になったのは『クリームヒルトの復讐』によってである」。


フリッツ・ラングの『月世界の女』」
 同号掲載。『月世界の女』が『ファウスト』『サンライズ』と並ぶ表現主義的探求の総決算的作品と位置づけられる。


フェデリコ・フェリーニの『崖』」
 「アール」2月29日ー3月6日号掲載。小説的伝統の遺産を型にはまった脚本で置き換えようとする「映画界の新傾向」があるが、『崖』のフェリーニは小説家のように仕事をしている。たとえば二部構成とか新たな人物の登場のさせ方など。「この映画はそれがじっさいに見せているものによってよりも、たんに前提しているものによって、また、じっさいに使っている気の利いたアイディアよりも、安易なアイディアの使用を拒否していることによって、観る者の胸を打つようにおもわれる。これは描写の才能というよりも暗示の才能の証拠であり、この点で師のロッセリーニとは対照的である」。リスクのある主題であるがその罠を前作『道』以上にうまく回避している。後半の悲劇的な美は型にはまった運命の表現にたよるのではなくもっぱら俳優の顔から生まれている。「純粋な仲介者[俳優 interprète]、魂を探し求めてさまようたんなる身体」と化したかのようなブロデリック・クロフォードは完璧なネオレアリズモ俳優である。「脚本と俳優が完全に融合している」。「議論の余地なく『崖』はフェリーニの代表作である」。


リチャード・フライシャーの『恐怖の土曜日』」
 同3月7ー13日号掲載。ユナニミスム(文学上のいっしゅの群像劇のムーヴメント)の通俗版であり、登場人物はどれも類型のきわみという大方の批評にたいして脚本家シドニー・ボームと監督フライシャーの「脚色の才能」に目を向けさせている。ほんのいくつかの台詞だけでキャラクターを息づかせ血をかよわせる台詞作家の技倆。場面移行の滑らかさは露も不自然さを感じさせず、思いがけないどころかこちらの期待を快く裏切ってくれて飽きさせない。フライシャーの演出の「流麗さ、そのつど別の場所で別の人物がたえまなく引き起こすありとあらゆる問題をいとも容易に片付けていく手腕、ほんのいくつかのショットでおもいもかけなかったドラマティックな状況をたちまちのうちに組み立ててみせる早業」。すべての登場人物に平等な重みがもたされ、全体がひとつのアンサンブルに溶け込んでいるが、かといってひとりひとりの輪郭がかすんでしまうということがない。それによってお気に入りの人物から関心のない人物へのたえざる往復によって観客が飽きてしまうということもない。ジャンルの約束事をリアリズム表現に巧妙に活用している。というわけで、群像劇のジャンルにつきもののあらゆる罠が回避されている。


「ジョゼフ・フォン・スタンバーグの『アナタハン』」
 同3月14日ー20日号。「『アナタハン』は映画の中の映画[Le Film]である(ケイコがすぐさま女性なるものの化身[La Femme]になるように)」。本作はスタンバーグの総決算的作品であり、三十年代の作品に潜在していた世界観と人間哲学が要約されている。情念と本能が運命の役割をはたし、その操り人形となる男たちを破滅に導くという根本的に悲観主義的な哲学である。スタンバーグじしんによるナレーションはたんなる事実の提示にとどまらず、こうした観点からのモラリスト的なコメントになっている。起こることがナレーションによってあらかじめ伝えられるので、観る者は永遠の[=超時間的な]観点からこの「人間的マグマ」を眺めることになる。半亡命者的な身分ゆえにそれまで表立って言えなかったことがはっきりと口にされている。ルノワールの『河』やムルナウの『タブウ』がそうであったように。エキゾチシズムはじぶんじしんを白日のもとにさらし、じぶんたちの経験をより古い文明の試練にかける手立てとなる。低予算という条件は夾雑物の排除を強いる。「魔法は簡潔な身振りから生まれることで効果を増す」。『アナタハン』は「最高の日本映画」でもある。
 『アナタハン』は「カイエ」同人のカノン的作品のひとつだが、わりと常識的なことしか書かれていない。リヴェットらしさが感じられない文章。


ロバート・シオドマクの『鼠』」
 同3月21ー27日号掲載。メロドラマにあっては登場人物は行為の果てまでつきすすみ、完結させられずにおわるものはなにひとつ含まれていない。『鼠』はメロドラマのこうした「力」を糧にしている。二十年間の亡命からドイツに帰還したシオドマクの新作には三十年代のドイツ映画への郷愁がみちており、当時のドイツ映画のスタイルに新たな息吹をあたえている。


エイゼンシュテインの事例」
 同3月28日ー4月5日号。ジャン・ミトリによる研究書の書評。「エイゼンシュテインの天才は本質的に造形的なそれである」。「造形的ということばのいみをもっとも高められた意味で理解しなければならない。すなわち幾何学的な強迫観念、遠近法の体系的な歪曲、身振りの増幅ないし様式化。これらの方法はたいていの映画作家にあっては気取りとか難題を覆い隠すものでしかないが、エイゼンシュテインにあってはもじどおり演出の『目的』なのだ。マルローを引くまでもなく形而上学の領分と表現の領分とを切り離すことは不可能だ。エイゼンシュテインの偉大さはまさにこの結合にある。映画作家のうちでももっとも形式主義的な人がもっとも聖性に取り憑かれた人でもあるのだ」。エイゼンシュテインにあっては「美学が神秘主義の代わりをしている。エイゼンシュテインの野心は秘教的なレベルにある」。「『大地』や『母』が数年間でその威光を完全に失ってしまったのはその作者が秘密[秘訣]をもっておらず、たんに技法しかもっていなかったからだ。エイゼンシュテインははんたいに秘密に賭けた」。「その秘密が何であるかはつまるところどうでもよい問題だ。エイゼンシュテインの秘密はムルナウルノワールのそれとはちがう。マラルメの秘密がバルザックのそれとはちがっていたように。重要なのは秘密が存在するということだ」。

 
ウィリアム・ワイラーの『必死の逃亡者』
 同号掲載。「『必死の逃亡者』はブルジョワ的な犯罪映画である。それゆえおぞましい(abjet)。なんとなれば矛盾しているから。この映画ではヒロイズムはもはや計算高さでしかなく、知性は下品な狡猾さでしかないのだ」。本作の「トーンの信じがたい仰々しさ」は<善>と<悪>の葛藤を表現しているのだと言われている。ところが善人の「スーパーポリス」は苦虫を噛み潰したような面相をしており、悪人のボガートはといえば「聡明な悲しみ」をたたえた眼差しをしている。「一言でいうならワイラーにとって善と悪の闘争はブルジョワ的な世間体とお行儀の悪さとの 対立に帰されるのだ」。『素晴らしき放浪者』から笑いを取り除いたような映画だ。 
 知られるように、abjet はのちの『ゼロ地帯』論のキーワード。


「ハンス・リヒターの『金で買える夢』」
 同号掲載。「読者は私がこの手の実験になんの熱狂も感じていないことを行間に読み取ってくれることだろう」。


アンドレ・ミシェルの『野生の誘惑』」
 同4月11日ー17日号掲載。「この『魔女』[原題]はわれわれをまったく魔法にかけてくれない」。マリナ・ブラディはその役柄に脚本には読みとれない一貫性と存在感をあたえて演技力を証明した。


「ハリーを火刑に処すべきか」
 「カイエ・デュ・シネマ」1956年2月号でジャック・ベッケルおよびトリュフォーと共同によるハワード・ホークスへのインタヴューを行なったあと、同誌4月号に掲載された『ハリーの災難』評。寓話という共通項によってヒッチコックカフカが結びつけられる。たとえば法廷への強迫観念。ヒッチコックには「秘密のセンス」(ポーラン)がある。ヒッチコック作品は二重底であり、秘密の底にもうひとつの秘密がある。『裏窓』以来の作品ではこのもうひとつの秘密がクローズアップされている。「この人物は善人か悪人か」という問いは「この世界は善か悪か」といういまひとつの問い(悪の全能性についてのそれ)にすぐさまとって代わられる。『ハリーの災難』においては典型的に人物の善悪が不明である。紅葉は世界の腐敗への暗示かもしれない。
 このあと同12月号にはシャルル・ビッチと共同でのジョシュア・ローガンへのインタヴューが掲載されている。


「英国人ども[Godons]を待ちながら」
 『王手飛車取り』撮影のため一年の休筆をはさんでの「カイエ」復帰(1957年7月号)となる『聖女ジャンヌ』評。「ジーン・セバーグはジャンヌではない。かのじょはジャンヌを演じているだけだ」。しかるに理想的な演技とは、いっさいの演劇的な道具だてが舞台上に“ジャンヌそのひと”を顕現させるための「仮面」として機能するようなそれではあるまいか。本作では[有名な撮影事故のおかげではからずも]それが実現している。セバーグが身に降りかかる火の粉を払いのけるただひとつのショットが本作でのかのじょの素人演技のいっさいを正当化する……。
 『聖女ジャンヌ』には文章の末尾で触れられているだけで、本論のほとんどは映画界の現状回顧に費やされている。アメリカ映画の「崩壊」にはフランス映画の悪影響も与っており、両者の「失墜」は連動している。ブレッソンヒッチコックの近作への皮肉たっぷりの言及があり、『大運河』のロジェ・ヴァディムおよび「もはや脚本をひつようとしないほど」アイディアが豊富なフランク・タシュリンへの賛辞が捧げられる。
 これに先立ち同5月号ではバザン、ドニオル=ヴァルクローズ、カスト、レーナルト、ロメールとのフランス映画をめぐる共同討議に参加し、つづく6月号にはトリュフォーとのマックス・オフュルスへのインタヴュー(およびフィルモグラフィー)が掲載されている。