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精神分析と映画をめぐる読書案内

ジャック・リヴェットの映画批評集成(その6)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.


「手」
 「カイエ・デュ・シネマ」1957年11月号掲載の『条理なき疑いの彼方に』評。かつての筋骨隆々できびきびしたスタイルに比べると骸骨どうぜんでぎこちないスタイルに変貌したラングの新作への驚きと、この作品が『ストロンボリ』『イタリア旅行』『奇跡』『間違えられた男』『抵抗』といった「最近のあらゆる偉大な映画」と“どんでん返し”という趣向を共有していることの発見とを結びつけた野心的な論考であるが、ヘーゲル哲学を参照してそこにはたらいているなんらかの弁証法的な契機を見定めようとするその思弁はときに錯綜をきわめ、リヴェットのもっとも晦渋なテクストのひとつになっている。
 リヴェットによれば、『条理なき疑いの彼方に』においては「場面の破壊」がある。「どの場面も場面そのものとして扱われてはおらず、純然たる瞬間の継起」「具体性を欠いたたんなる時空間的な目印」に還元される。くわえて「登場人物の破壊」がある。「登場人物たちはあらゆる個人的な価値を喪失し、もはや人間という概念にすぎないものとなっている。とはいえ結果としてかれらは個性を欠いているぶんだけ人間的なのである」。「ラングは概念の映画作家だ。それがいみするのは抽象化でも様式化でもなく必然ということである(必然はみずからの現実性を失うことなしにみずからに矛盾することができなければならない)。とはいえそれはたとえば映画作家の必然といったような外的な必然ではなく概念の運動そのものから生まれる必然である。観者はもはや登場人物の思考や『動機[モビール]』だけでなく、現象のさまざまな外見だけを出発点として<内面>のこのような運動そのものを引き受けなければならない。その現象の矛盾したもろもろの瞬間[契機]を概念に変容させることができなければならない。つまるところこの映画は何なのか。寓話、譬え話、方程式、図式のいずれかであろうか?どれでもない。これはひとつの『経験』の純然たる描写である」。なお、翌月号のルノワール論には「経験」が「個別から一般へ」というベクトルによって定義されている。
 『条理なき疑いの彼方に』の主題は「裁きの虚しさ」に還元できない。映画の結末はむしろ「あらゆる人間がつみびとである」というテーゼに導く(それゆえ「偽りの有罪者」[『間違えられた男』の仏題]というヒッチコック的観念は退けられる)。ここでわれわれは「無常の世界」に入り込む。そこでは「いっさいが恩寵を否定し、罪悪と刑罰が手のほどこしようもないくらいに結びつき、創造者に可能な唯一の態度は『絶対的な軽蔑』である。とはいえそのような態度をとりつづけることはむずかしい。寛容さがその実行の不可避的な敗北、怨恨、苦渋という危険にさらされているのにたいして、軽蔑は嬉しい驚きに出会うことしかありえず、最終的につぎのことに気づくのである。人間はまったく軽蔑に値しないということではなく(人間はあいかわらず軽蔑すべきものだ)、おそらく人間はそう考えられていたほどには軽蔑すべきものではないということに」。われわれはここでその「彼方」にある「真理の段階」に立ちいたる……。
 『条理なき疑いの彼方に』とそれ以前のラングは対立していない。『激怒』や『暗黒街の弾痕』では無実の人が有罪の見かけをしているのにたいし、『条理なき疑いの彼方』では有罪者が無実の見かけをしているだけだ。「見かけの彼方で有罪および無罪とは何なのか」。[つまり、見かけをとりのぞいてしまったところではすでに有罪とか無罪という観念そのものがいみをなさない。ことほどさように罪の観念は相対的であるということだろう。有罪と無罪はもともとメヴィウスの輪のように繋がっているのであり、くだんの“どんでん返し”はその表現であるというわけだ。]「それゆえひとりひとりがじぶんじしんのためにそのひとだけの真実を創り出さねばならない。それがどんなにありそうもないものであっても[仏題『ありそうもない真実』を踏まえる]」。
 ドゥルーズがラングにみてとる「偽なるものの権能」の概念を先駆ける。


「1957年トゥール。サスペンスなき映画祭。最高賞はアンリ・グリュエルの『モナリザ』に」
 「アール」11月27日-12月3日号掲載の短編映画祭のレポート。リヴェットはこの前年、同映画祭に『王手飛車取り』を出品していた。論の終盤、マクラレン『いたずら椅子』の「根っからのチャップリン的な精神」への好意的な一瞥につづけて、知性優位の映画祭にあってその肉感性において異彩を放っていたトリュフォーの『あこがれ』への賛辞が綴られる。「紋切り型のコーティングをすっかり取り払った幼年時代。スクリーン上の子供たちの顔はほとんどいつでもこうしたコーティングによって醜く歪んでいるのだが」。ヴィゴと[初期]ルノワールの教訓がみてとられる。いわく「自由と独立不覊の精神。じぶんじしんが課す規則いがいのいっさいの規則を受け入れないこと、および美学をつねにモラルの問題にしていること」。五人の「ガキ」[原題 Mistons]が若者のカップルとのあいだで演じているようなかくれんぼをトリュフォーじしんが登場人物および主題とのあいだで演じている。「絶妙のタイミングでつかまえてみせるのだが、相手のゲームの規則を踏みにじることはけっしてしない」。
 リヴェットにしてはめずらしい甘美なタッチ。むしろトリュフォーじしんの文章を彷彿とさせる。

ジャン・ルノワールの人と作品」
 「カイエ・デュ・シネマ」のクリスマス増刊号「ジャン・ルノワール」のためにバザン以下8人の同人が作成したバイオ=フィルモグラフィーの一部。バザン『ジャン・ルノワール』(邦訳フィルムアート社)に再録。なお、同号ではトリュフォーとともにふたたびルノワールへのインタヴューを行なっている。

『騎馬試合』
 「作者唯一の二元論的な映画なるも、悪役の描写にもいくぶんかの同情がこもっている」。歴史を「現在形で」描く試みは『ラ・マルセイエーズ』に十年先駆ける。「ルノワールは決闘の帰結までみとどけることをおそれない」。「真実の瞬間に仮面が剥がれる」。

『ブレッド』
 「全篇アレグレットで進行するなかにいくつかのもっと荘重な音がときどき滑り込むが、ハーモニーを乱すことがない」。

赤ずきん
 「マック・セネットふうの追いかけっこが牧神の世界と混じり合う」。

『トスカ』
 「『トスカ』は現実主義的なオペラであることをやめる。現実がオペラになる」。

浜辺の女
 「悲劇がなんらかの運命の仮借ない進行からではなく、ぎゃくに固定化と不動性から生まれている」点で、みかけとちがって反ラング的な映画。「三人の人物のいずれもがおのれじしんとおのれの欲望のみせかけのイメージにとらわれている」。「いまやルノワールは事実だけを順々に差し出す。そして美がここでは妥協のなさから生まれる。行為の剥き出しの継起いがいにはなにひとつない。ひとつひとつのショットがおのおの出来事となる」。いわく「純粋映画」。

『河』
 「あらゆる偉大な映画は経験の物語だ。つまり個別的なものから一般的なものへと進む。諸々の矛盾なるものをひとつの特殊な葛藤に帰してそこにはまりこませるのではなく、その物語は個人の運命をすぐには手放さず、その運命をもっともはげしい発作の状態にまで押し進める。新たな顔相[figure]があらわれたかとおもうやすぐさま新たな世界に向かって目を開く」。『河』はじぶんじしんを厳密に鏡に映した[反省した]映画の唯一の例である」。そこでは物語上の所与と社会学的描写と形而上学的な諸主題が呼応しあうのみならずあらゆる点で交換可能である」。「隠喩に富むこの作品はつまるところ隠喩そのものを、もしくは絶対的な知識を主題にしている」。

フレンチ・カンカン』。
 「あらゆる身体的な快楽へのこの頌歌の偉大さはまずもってとてつもなく時代遅れであることだ。しかしこの時代遅れは前向きかつ闘争的である」。「あらゆる偉大な映画には恥知らずなところがある」。「センシュアルなものとスピリチュアルなもの、『フレンチ・カンカン』と『黄金の馬車』を切り離すなと教える汎神論。それは苦渋をともなう。とはいえ快楽もまた陽気ではない。かたわれでしかないのにそれじたいの動きによってあたかも<全体>であるかのような幻影を生み出そうとする」。


エイゼンシュテイン万歳」
 同1958年1月号掲載の『メキシコ万歳』評。エイゼンシュテインは「本質的に綜合的な映画作家」であり、そのショットはそれじたいでひとつの全体たることを志向する(「ひとつひとつのショットは拳のようにおのれじしんのなかに閉じる」)。ショットどうしを近づける力は撮影される現実の論理によってではなく、「観念」の論理に依存する。「ショットはショットに対立させられることによってこの対立を破壊するものをよりいっそう肯定し、あらゆるショットを組み立てる媒介にいっそう大きな権限を委ね、この媒介を映画の唯一の真の主題にする。そしてひと塊りの現実と人間の観念との闘争のなかで精神の勝利をより輝かしいものにする。とはいえ重要なのが近づけられた二つのショットではなくてそれらを近づける観念であるとしても、この観念はひきつづき二つのショットの内部に回帰し、結びついて固有の運動となって、至るところに世界の魂を再発見する。この魂は個々の断片の魂のなかに宿っている」(?)。『メキシコ万歳』は「編集不可能」であり、ショットを描写ないし物語の分析的断片とみなして編集版を制作したマリー・シートンは間違っており、ラッシュのまま上映したジェイ・レダのほうが正しい。


「ロッテ・アイスナーの記事『二つのノスフェラトゥの謎』へのあとがき(2)」
 同号所収。アイスナーの記事はシネマテークで上映された『ノスフェラトゥ』の二つのヴァージョンの比較を内容としており、ロメールが「あとがき(1)」を付けている。アイスナーの記事には『愚かなる妻』のヴァージョン違いにも簡略に触れられていて、その詳細をリヴェットが補っている。「アメリカ版も才能豊かな映画作家の作品であるが、イタリア版だけが天才的なクリエーターの作品だ」。


「こちらから見たミゾグシ」
 同3月号掲載。溝口の映画は「演出」という共通言語で物語られている。この言語を溝口ほどに純粋化した者は西洋には例外的にしか存在しない。「溝口がわれわれの気を引くとすれば、それはかれがわれわれの気を引こうとしていないからだ」。「日本の伝統的なレパートリーだけを映画化している唯一の日本人映画作家であるようにおもわれる溝口は、真の普遍性すなわち個人という普遍性を自認し得る唯一の日本人映画作家でもある」。溝口の世界は「とりかえしのつかないもの」の世界である。溝口における運命は「屈服による甘受ではなく、和解への道である。いっさいが永遠の現在という純粋な時間のなかで生じる。いっさいがさまざまな観点からみたはかない現象を克服した者のこころしずかな喜びのなかで終わりを迎える。唯一のサスペンスはなにほどかの忘我の境地へと上昇していく留めがたいベクトルであるが、それは究極的な音色の『照応』、終わりのない微細な和音のそれであり、それは完結することがなく、音楽家の呼吸とともに息づく。いっさいが調和して中心的な場所の探求へと向かうのだが、そこでは外見が、そして『自然』(もしくは羞恥あるいは死)と呼ばれているものが人間と和解する。これはドイツ・ロマン派、リルケ、エリオットにもつうじる探求であり、カメラによる探求でもある。そのカメラはつねに正確な地点にセットされ、ほんのわずかな移動が全空間の配置を変え、世界と神々の密かな顔を一変させる」。いわく「転調の技法」。

 同じ号に「溝口レトロスペクティヴ」のレビューが掲載されている。

『浪華悲歌』
 イマジナリーラインとの戯れ方はラング、オフュルスもかくや。

『武蔵野夫人』
 溝口は作品ごとにショットの色調を変える。『武蔵野夫人』は前作(『雪夫人絵図』)よりも輝きとツヤがなく、より曖昧なグレーの領域を活用している。「被写体のミクロン単位の距離、ヒロインのどれほど低いためいきにも、どれほど小さな心変わりにも反応する」精密なカメラ。


「聖女セシル」
 同4月号掲載の『悲しみよこんにちは』評。プレミンジャーの「職人的知性」は、「素材の善し悪しを正しく見抜くが、月並みな素材をいつも退けるわけではなく、その月並みさの使い道をわきまえたうえで使う術も知っている」。「完璧さを避ける」ことがプレミンジャーの「秘術」だ。「ストーリーラインには忠実であることを条件にすべてを一から創り変えること。新しさと発見と若さとを、そのようなものを欠いている素材に取り戻させてやること」。「演出の技法は絶妙の配置(mise en place)ないしタイミング(mise en temps)だ」。配置とタイミングしだいで「すべてが恩寵」(ベルナノス)になりうるということのようだ。「プレミンジャーは出来の悪い文学の偽りを偉大な映画の真理にとって代える。その真理とは『直線』の技法である」。「『悲しみよこんにちは』のあらゆるショットにはっきりとみてとれる創意はまずもってあるしゅの『短縮』の才覚である」。プレミンジャーは原作小説が覆い隠しているものをストレートに見せる。プレミンジャーがオフュルス、溝口、アストリュックとともに体現する新たな「純粋映画」の定義は「それによって被写体が破壊されるどころかそのあらゆる顔を露わにし、重ね合わせるような鏡の作用」というもの。「ピカソが絵画において到達した地点へとわれわれの技法を高めること」。キュビスム、もしくはドゥルーズ的な「結晶イマージュ」であろうか。そしてそれは「ひとつの絶対的なもののためにすべてを犠牲にすること」なのだとされる。これはプレミンジャー流の「不完全性[未完成]の美点」と矛盾しないらしい。


「グッドバイ」
 同5月号掲載の『サヨナラ』評。「カイエ」が一時期もてはやしていたジョシュア・ローガンにたいして引導が渡される。「『ピクニック』『バス停留所』のいずれにおいてもローガンはたんなる現場の芸術監督、つまりハリウッド的ないみにおける“director”にすぎなかったのであり、われわれが少々早とちりして期待をかけたような『作家』ではなかったのだ」。「サヨナラ、ミスター・ローガン」。