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ジャン=クロード・ミルネールを読む(その2):『民主主義的ヨーロッパの犯罪的性癖』

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 *Jean-Claude Milner, Les penchants criminels de l’Europe démocratique, Verdier, 2003.

 

 「“問題/解決”という図式がヨーロッパにおける“ユダヤの名”[=ユダヤ性]の歴史を規定してきた」(裏表紙)。ミルネールが本書で証し立てようとするのはこのテーゼである。

 

 西欧はーそして西欧だけがー、18世紀以来、ユダヤ人を「解決」すべき「問題」と位置づけてきた。ナチスはその延長線上に現れただけで、「ユダヤ人問題」も「最終解決」も発明していない。それを実現するためのいくつかの手段を発明しただけだ。新しい手段(技術)によって古い「問題」を「解決」したのだ(そのいみでヒトラーは「政治のニュートン」である)。

 

 ミルネールはラカンに依拠して「政治」と「社会」を区別する。ラカンは「性別の式」において「すべて」という観念を二つに分けている。一つは例外の存在によって制限を受ける tout であり、いまひとつはひとつの全体によって包括されない pastout(すべてならざるもの) である。

 

 一方の「すべて」は「ひとつの限界を想定している」。「すべてについて」という句は単独では意味をもたない。「すべてのxについてFx(ファルスの作用、去勢)が成り立つ」「Fxを満たさないような要素が一つある」の組み合わせによってはじめて意味をもつ。「Fxを満たさない要素」とはすなわち去勢を行う[原]父である。ラカンにおいてこの組み合わせは男性を指示する。唯一の要素を排除することによって外部をもつ全体が形成されるわけだ。対して、いま一方の「すべて」は「限界をもたない」。こちらは「Fxを満たさないxが存在するわけではない」および「すべてのxに対してFxではない」である。これは女性の性的選択に対応する。これは例外をもたず、外部をもたず、限界をもたない、それゆえ表象不可能な全体である。

 

 ミルネールによれば、「政治」は制限されたものを対象とする。アリストテレス以来、政治は論理学とのパラレリズムにおいて考えられていた。政治的な「万人」と論理学的な「全」は同じ普遍概念である。「民主主義/寡頭制/君主制」という図式は、それぞれ「すべて/いくつか/一」に倣う「政治的三段論法」を構成している。

 

 この図式がフランス革命以前のヨーロッパを支配していた。17世紀は絶対王制、18世紀は啓蒙専制君主という「政府」の形態を政治的理想と仰いだが、ウィーン会議において政治的理想は特定のタイプの「政府」ではなく、あるタイプの「社会」に帰されることになる。フランス革命は「政府」の理想を自由・平等・友愛という普遍的価値すなわち「社会を定義するモデル」に見た(特にサン=ジュストの「共和的制度」)。

 

 19世紀において「(すぐれた“政府”ではなく)“社会”が世界についての政治的ヴィジョンを組織する点として出現する」。種々雑多な政府の形態が共存した19世紀のパリはそのいみでも文字どおり世界の首都であった。あらゆる「政府」の共通項から一つの理想的な「社会」が導き出される。そしてこの共通項は1918年以後、民主主義と同一視される(それゆえ民主主義は他の政府形態と排他的な関係にはなく、他のあらゆる政府形態を内包する“社会”である)。

 

 それまであらゆる社会には社会性が宙吊りにされる要素があったが(古典主義時代の狂気など)、1815年以後、すべての外部が社会に内面化され、例外(限界)は存在を許されなくなる。ミルネールによれば、ルソーの孤独な散歩者が意図したのはこうした社会からの逃走である。

 

 そのような他者を欠いた社会のなかでは、主体そのものもひつぜん的に溶解する。『言葉と物』末尾の「人間」の消滅は「限界の消滅」をいみする。「砂の下に社会の石畳が現れるが、そこにはすでに顔を輪郭づけていた限界はない」。「<人間>とは限界の形象であったのだ」。新たな<一者>=<社会>。そこでは<労働><生><言語>という「準-超越論的なもの」(フーコー)の各々が社会の同義語となって超越論的に機能し、社会のあらゆる成員を絡め取る。「社会は無制限だ。それは無制限そのものだ」。

 

 現代の「社会=国家」においては、国家も国民も人民もただひとつのものになる。もはやただ一つの国家、ただ一つの国民、ただ一つの人民しか存在しない。換言すれば、国家、国民、人民というカテゴリーじたいが不要になる。つまり「政治」そのものが消滅する。そしてユダヤ人はそのような「社会」の中の「問題」として現れる。どういうことか?

 

 ミルネールによれば、ヨーロッパの政治理論は前述したアリストテレスの政治的三段論法およびツキディデスの歴史学に発している。ツキディデスはペロポンネソス戦争すなわちこんにちでいう世界戦争(ホメロストロイア戦争はこのかぎりではない)を叙述したことによってアリストテレス的な普遍(全体)の概念に連なるということらしい。ツキディデスは神、英雄、愛といった叙事詩的(ホメロス的)要素を歴史叙述から追放し、それに代えてもろもろの「人民の名」を導入した。ツキディデスにおいては個人の名さえ「人民の名」の代理にすぎず、ツキディデスを「もっとも政治的な歴史家」と形容したホッブズの民主政、貴族政といったカテゴリーも、そのような「人民の名」の言い換えにほかならない。

 

 ユダヤ人は排他性なき“社会”の中で公然とそのような「人民の名」を標榜し、社会における例外、限界となるがゆえに社会の「問題」となる。そしてその「問題」の「解決」はふた通りある。ひとつはユダヤ人自身の内的変化、いまひとつは物理的破壊である。

 

 モーゼス・メンデルスゾーン、ヴァールブルク、カッシーラーパノフスキーバンヴェニストといったユダヤ商人の子息がヨーロッパ学の泰斗となることは前者の「解決」であった。ただしこれは国ごとの近代化の度合いに依存していた。それゆえユダヤの名はドイツのユダヤ人によるフランスのユダヤ人への、またフランスのユダヤ人による他国のユダヤ人への「ナショナリズム的軽蔑」ひいては「反ユダヤ主義」によって置き換わることでユダヤ性の抹消が助長される。その後ユダヤの名はライシテないし信教の自由という「人権」に組み込まれ、これが国家によって保障されることになる。ところがモーラス的なナショナリズムは、国境を越えて偏在する(それゆえどこにもいない)ユダヤ人の「無制限」たることを以ってユダヤ名をふたたびスキャンダルに祭り上げる(ドレフュス事件)。

 

 第一次大戦は世界を分断したが、それでも「社会」が分断することはなかった。戦勝国/敗戦国の区別は二次的なものでしかなかった。戦勝は政治形態の優位にではなく、軍事力の優位に帰された。つまりこれ以後、モデルニテとは政府の形態ではなく技術を意味するようになった。それは生産能力のみならず破壊能力をも含めての技術である。そしてこれをナチスが証明した。ナチスは「近代社会に呼応する」政治形態の創出を企図した。それは無制限に立脚する政治形態だ。フランツ・ノイマンの『ビヒモス』がえがきだす「世界全体を混沌に変貌させる」「無法とアナーキーの支配」としての国家は、ホッブズ的な国家からの離脱をいみする。

 

 1945年のヨーロッパ統一によって、ユダヤの名はスキャンダルであることをやめる。戦後の世界平和がファシズムの壊滅という神話を必要としたからだ。中東で武器をとるユダヤ人は「最終解決」の失敗を雄弁に物語るものであった。それゆえヨーロッパはイスラエル建国とその戦勝をヒトラーへの完全な勝利と解釈してこれを言祝ぐ。

 

 かくて「政治的神話は救われた。ただし、その代償は高かった」。政治的勝利(それはつねに軍事的勝利に支えられている)に価値をみいだす「45年のパラダイム」は民主主義的社会と折り合いが悪い。やがてこのパラダイムは「敗北は勝利よりも高貴」というヴェイユ的ヴィジョンにとって代わられるだろう。するとヨーロッパにとってイスラエルの戦勝がとたんに耐え難いものとなる。イスラエルは「最終解決」を想起させるだけの厄介な存在となる。

 

 分断したヨーロッパ諸国が再統合を果たし、国境の意義を消去しつつあったまさにその時期にイスラエルは確固とした国境の存在を主張していた。かくしてイスラエルは「ヨーロッパ的平和」(pax europaea)の実現にとって唯一の障害となる。かつてのユダヤ人問題に代わり、いまやイスラエル問題が最終解決を要するものとして浮上する。

 

 こうしてイスラエルの評判がわるくなると、「イスラエルの」という形容詞の影に隠れていた「ユダヤの名」がユダヤ的主体のアイデンティティとして再浮上する。その様式は三つある。1)ユダヤ性を標榜し、同化を拒む「肯定のユダヤ人」。2)ユダヤ性を否定はしない「問いかけのユダヤ人」。3)ユダヤ人にシンパシーをもたない急進主義的な「否定のユダヤ人」。

 

 「否定のユダヤ人」においてユダヤの名はもはや実質を欠いた「剥き出しのシニフィアン」にまで切り詰められているが、それでも名は残存している。ユダヤの名はこの三者を隔てる裂け目を縫合する。ユダヤとはすでにひとつの人民の「名」としてしか存在しない。しかもそれはそもそも名が存続することのなくなった時代において残存する「人民の名」である。スピノザがいうように、ユダヤ人は長いことディアスポラ国家として存続しているので、もはやひとつの国家を形成する必要がない。フロイトの最後の問い(『人間モーセ一神教』)も、まさにユダヤの名の残存の理由についてであった。

 

 ユダヤの名は、主体(フーコーのいう「人間」)というものが溶解したヨーロッパ的民主主義社会のなかでユダヤ人の主体性を繋ぎ止めている。このような主体性の「破壊されざる核」となる枠組みを、ミルネールはフロイトセクシュアリティおよびハイデガー的な四方域というカテゴリーのうちにみてとる。ミルネールがフロイト的なセクシュアリティと呼ぶものは生理学的な実体性を欠くそれであり、なおかつ「性関係は存在しない」というラカン的なテーゼに帰されるそれであるとおもわれるが、ミルネールによればこれが「現代という時代の不可能そのもの」の支えとなる。「天」「地」「神的なもの」「死すべきもの」からなるハイデガーの四方域は、ミルネールにあっては「男」/「女」、「父」/「子」の四項に置き換えられ、ヨーロッパ的民主主義社会における男でもなければ女でもなく、父でも母でも子供でもない「無際限」な存在様式に対置される。

 

 残存するユダヤの名によってこのようにして分節されるユダヤ的主体は、現代のヨーロッパ的民主主義社会においてあるいみで「人間」の典型を体現している。「ユダヤ人であることは、人類それ自体以上に人類を信じることである」。

 

 1945年以前のユダヤ知識人はユダヤ名を科学的発見に結びつけることにより固有名を一般名詞化することでユダヤ名を忘却させた。「~主義という接尾辞が割礼を修復する」(フロイトトロツキー)。これはフロイトが『日常生活の精神病理』において解明し、ラカンが「換喩」として概念化した「名の忘却」のメカニズムである。

 

 これに対して1945年以後のユダヤ知識人は逆に主体の名が一般性に吸収されることを拒む。彼らは自らの「名」だけが絶滅計画の失敗の証となることを知っているから。それゆえ、彼に唯一残されたユダヤ性である「名」を残さねばならない。かれらはユダヤ的な知性とか才能とか言われるものによってみずからの名を置き換える。これは「古い名を新たな名で置き換える」ことであるという。ここにはラカン的な「隠喩」のメカニズムが機能している。置き換えられたものは痕跡を残し、置き換わったものの背後からその存在を主張しつづける(insister)。そのかぎりで新しい名はその持ち主を主体として指し示すと同時に古い名を保持している。ミルネールによれば、ここで起こっているのはいわば「世俗的な実体変化」である……(?)

 

 今世紀、クローン技術などの影響も加わって、くだんの四方域が脅かされつつある。「新しい人権」(「解釈された」人権であり、それゆえ人権宣言のように「身体」にではなく「魂」に依拠している)が定義する人間は、男でもなければ女でもなく、父でもなければ母でも子供でもない。現代の反ユダヤ教antijudaïsme)の内実は「四方域への憎悪」であるが、これは来るべき人類の「宗教」である。すなわち、レイシズムの対象というかたちのもとに「人民の名」を繋ぎ止めようとする努力であるということか?「レイシズムには未来がある」というラカンの言葉(じっさいには言ってない!)がいみしているのはそのことだ……。

 

 というわけで、論理的アクロバシーを弄しがちなミルネールの個性がよくもわるくもでた晦渋ながらも刺激的な考察となっている。