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精神分析と映画をめぐる読書案内

トランプの時代に読むソロー(2017/03/01)

 トランプ退場はトランプ主義の終焉を意味するものではありますまい。2017年3月に別の場所に書いた文章をこの機会に再掲します。

 

 

アメリカ・ファースト」を唱えるトランプほど反アメリカ的なアメリカ人はいないでしょう。

 

 トランプがほんらいのアメリカ的な精神をいかに歪めているかを知るために、いまこそその原点であるソローを手にとるべきときです。

 

 トランプとソローにはいくつかの共通点がみつかります。

 

 ソローの思想は、いまならば反グローバリゼーションとよばれる性格をそなえています。

 

 また、ソローは「小さな政府」を信条としていました。「まったく統治しない政府が最良の政府」と述べています。

 

 さらに、ソローは「ニュース」を嫌っていました。これはかれの時代に新聞ジャーナリズムが急速な発達を遂げたこととも関係があるでしょう。

 

 このように、ソローとトランプにはおもてむき共通点がおおいのです。

 

 しかし、根本的な部分では、二人の思想は正反対といっていいくらいです。

 

 ソローは、「自己」のことを何よりも優先してかんがえよと述べています。

 

 ソローはいわゆる博愛主義者を嫌っていました。

 

 ソローによれば、博愛主義者はじぶんの価値観を困っている人にあてはめようとし、困っている人がほんとうにひつようとしているわけではないものを押しつけて自己満足しています。

 

 そのいみでは博愛主義者は利己主義に陥っているのです。

 

 そんな無駄なことに使う金があるならじぶんのために使うべきだとソローは言います。

 

 「なるほど、溺れているひとがいれば、助けるのがとうぜんで、自然なことです。でも助けたのなら、すぐに靴の紐を結んだほうがいいでしょう。あなたはあなたの時間を作り、自由な仕事をするのです」(『ウォールデン』)。

 

 こういう考え方は“自己中”でしょうか? 

 

 そうではありません。

 

 ソローは人間の自己のなかには自分自身をこえた価値あるものが宿っていると考えていました。

 

 それを正義と言い換えても、あるいは神と言い換えてもまったくかまわないのですが、いずれにしてもその価値は全人類に共有されているものです。

 

 ですから、ときには、たとえ自分個人の利害を犠牲にしても、自身の内なるそれを救う義務が人間にはあるのです。

 

 そのかぎりで自己への愛はすなわち他者への愛となるのです。

 

 一方、トランプのいう「アメリカ・ファースト」は、外国人への憎悪と直結しています。

 

 トランプにとって、他者はたんに排斥する対象でしかないのです。

 

 これこそ“自己中”でなくて何でしょうか?

 

 そもそも金儲けの天才と 謳われたトランプにとって、守るべきはアメリカ人そのものではなく、アメリカの「利益」です。

 

 いっぽう、ゴールドラッシュをまのあたりにしたソローは「金を稼ぐ手段はほとんど例外なく人間を堕落させる」(『ウォールデン』)と書いています。

 

 ここがトランプとソローの価値観の最大の分かれ目でしょう。

 

 

 ソローを読めとは、ふるきよきアメリカを思い出せということではありません。

 

 ソローの目にはすでに同時代のアメリカが腐敗しきった最悪の国(「闇につつまれたこの国」)と映っていました。

 

 かれが森に“隠遁”したのはそのためです。

 

 ソローは南北戦争開戦の翌年に生をまっとうしています。かれがいきたのは西部劇映画のなかの世界であり、奴隷制がまだまかりとおっていた世の中です。

 

 かれは政治ぎらいを自認していました。政治は内臓のはたらきとおなじく、ふだんは意識しないでいられるのがいちばんだとおもっていました。

 

 しかし行動すべきときは誰よりも先に行動しました。

 

 ソローは、奴隷制をよしとする政府にくみすることは祖国をあやまった政府に売り渡すことだとして、人頭税の支払いを拒否して逮捕、投獄されました。

 

 意外なことにソローはこの仕打ちをよろこんで受け入れています。

 

 「人間を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間が住むのにふさわしい場所もまた牢獄である。[……]そこは隔離されてはいるけれどもとりわけ自由な、尊敬に値する場所であり、[……]奴隷州において、自由な人間が名誉を失わずに住むことのできる唯一の家である。わたしはじぶんが監禁されているとは一瞬も感じなかった」(「市民の反抗」)。

 

 なんともすがすがしい弁明ですね。かれはすかさずこうつけくわえます。

 

 「かれらは、脅したりおだてたりするたびに、へまをやらかした。わたしの最大の願いが、この石壁のそとに出ることだと勘ちがいしていたからである。かれらは、かいがいしく扉に錠をおろし、私の思考を牢獄のなかに閉じこめようとするが、[……]思考はなんの妨害も受けずに、かれらのあとについて、また出ていった。じつはこの思考こそ、もっとも危険な存在だったのだ。かれらはわたしに指一本ふれることができないので、わたしの肉体を罰することにしたのである。憎らしくおもっている人間に手が出せないとわかると、相手の飼い犬をいじめたがる男の子にそっくりだった」。

 

 なんとも痛烈な一撃です。そしてとどめ。

 

 「このように、州は人間の知性や徳性を正面から相手にする気はさらになく、もっぱら人間の肉体と感覚だけを相手にしている。州は卓越した才能や誠実さでではなく、卓越した腕力で武装しているのである」。

 

 ソローはつぎのように断言しています。

 

 「わたしが確信するところでは、もし千人が、といわないまでも百人が、あるいはわたしの知っているたった十人の誠実な人間が、いや、たったひとりの誠実な人間が、ここマサチューセッツ州で奴隷の所有をやめ、政府との共犯関係からきっぱりと身を引き、そのために群刑務所に監禁されるならば、そのことがとりもなおさずアメリカにおける奴隷制度の廃止となるであろう。ことのはじまりがどれほど小さくみえようとも、すこしも問題ではないのであって、ひとたび立派になされたことは、永久になされたのである」。

 

 ソローはみずからの行為を「静かなる宣戦布告」と呼んでいます。

 

 「仮に千人が今年の税金を支払わないとしても、それは税金を支払うことによって州に暴力をふるわせ、無実の血を流させることほどには、暴力的で血なまぐさい手段であるとはいえないだろう。事実、もし平和革命が可能だとすれば、これこそ平和革命の定義である」。

 

 ガンディーへと流れる無抵抗主義の系譜がここに打ち立てられます。とはいえここに説教臭さはみじんもありません。

 

 「州に従属するよりも、州にたいする服従拒否のかどで罰されるほうが、わたしにはあらゆるいみで安くつく」。

 

  ソローのフットワークはもちまえの倹約主義の所産なのです。

 

(つづく)