ソローと西部劇:トランプの時代に読むソロー(その3)
2017/03/04
ハリウッドの“良識派”がしきりにトランプにかみついていますが、売名行為にしかみえません。
人種間の比率をクオータ化(?)すれば“多様性”が保てるとでも言うかのようなアカデミー賞をめぐる単細胞的デマゴギーにも心底辟易します。
閑話休題。
ソローは南北戦争開戦の翌年に生を終えています。
ソローが生きたのは西部劇映画の舞台になっている時代です。
ソローが熱烈に弁護したジョン・ブラウンの行動も、『カンサス騎兵隊』(マイケル・カーティス監督)などの作品で描かれています。
西へ西へと領土をひろげつつあったアメリカ。フロンティアの最先端は無法地帯どうぜんの土地です。
守ってくれる法律がないので、開拓者はじぶんでじぶんを守るひつようがありました。
アメリカにおける自警の伝統はこうして生まれました。銃社会となったアメリカは、いまなおそのツケを払い続けています。
なにをなすべきかの判断は法律にではなく個人に委ねられ、それゆえ個人はじぶんじしんを裁く責任をも負わねばなりません。
ソローが理想とする「個」に立脚する社会のありかたがここにあります。
一歩まちがえば無政府主義に陥ります。
たとえばリンチです。
事件の容疑者を住民がリンチにかけようと追いつめ、保安官が「法と秩序」の名の下にそれを必死にとめるというシーンを西部劇映画ではひんぱんにみかけます。
西部劇映画では法がすぐれて相対的なものとみなされています。
それを典型的に示す傑作がクリント・イーストウッドの『許されざる者』です。
主人公は、いまや保安官におさまっている男に妻を殺された復讐を遂げます。
かれの行為は違法行為です。かれはもじどおりの outlaw です。
しかしわれわれはかれの行為をもっともだとおもい、喝采さえ送ります。
犯罪者が英雄(正確にはアンチヒーロー)になり、法の番人が悪役にまわります。
イーストウッドは、ときには法を無視してまで犯人を追いつめるダーティ・ハリーを演じて人気者になりました。
ダーティ・ハリーはいわば西部のアンチヒーローの現代版です。
『許されざる者』の保安官はサディスティックな人物ですが、法をやぶった者にたいするかれの厳格な処罰ゆえに町の平和が守られています。
かれには、マイホームの完成を心待ちにする小市民としての側面もあります。
というわけで、『許されざる者』において、善悪の基準はきわめてあいまいになっています。
ジョン・フォードの『リバティ・ヴァランスを射った男』は、しぶしぶ保安官を引き受けた武器の扱いさえろくに知らない男が無法者を撃ち殺し、町に法の支配をうちたてます。
しかし、じつは無法者を仕留めたのはもの影から保安官を掩護射撃したかれの恋敵でした。
すぐれた銃の使い手であるこの男は、保安官と同時に引き金を引き、まるで保安官の放った銃弾が相手を倒したのだと誰もに信じこませます。
一般市民でしかないこの男の仕業は違法行為です。
しかし、この男のしたことは誰も知りません。完全犯罪です。
この男の行為は、あるいみでベンヤミンのいう「神的暴力」といえます。
町に法の支配を敷くためには、その法を法として認めさせる「上位の法」(ソロー)がひつようです。
根拠のない法には誰もしたがおうとしないでしょう。
ただし、みずからが権威たりえない法にしたがおうとするひともいません。
ですから、法をうちたてる「上位の法」は、法がうちたてられると同時に消滅しなければなりません。
『リバティ・ヴァランスを射った男』はこのような法なるもののぎゃくせつを描いたひとつの寓話として読み解くことができます。
西部劇映画の主人公がよく口にする台詞に「為すべきことを為す」というのがあります。
たとえば決闘に赴く主人公を止めようとする恋人に向かって主人公がそう答えます。
「為すべきこと」とは何でしょうか?
それは保安官という職務かもしれず、愛するひとをころされた復讐かもしれません。
しかし職務や復讐それじたいがかれの目的でないことを西部の男は知っています。
かれが命を賭けて守らなければならないのは、「個人」としての名誉です。
じぶんの唯一の導き手である内なる声に殉ずることです。
アンソニー・マンやジャック・ターナーやクリント・イーストウッドの西部劇の主人公は、どこか幽霊然としています。
かれらは自由意志によって行動しているのではなく、人知のおよばない内なる存在にあやつられているかのようです。
じぶんの行動のいみをかれらは説明できません。
「為すべきこと」とでも言うほかにないのです。
「ジョン・ブラウン大尉を弁護して」のソローも生きることのいみを同じ言葉でいいあらわしています。「為すべきことを為し遂げよう」と。