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ソローと反知性主義:トランプの時代に読むソロー(その6)

 2017/03/20

 

トランプ当選の余波で森本あんり氏の『反知性主義』が部数を伸ばしているようです。

 

同書で森本氏は、その「独自の近代知性批判」を以て、ソローが反知性主義の伝統の「一角を占めるかもしれない」としています。

 

アメリカの反知性主義は、入植者であるピューリタンにおける知性の尊重が権威と結びついたことへの反発として起こったものです。

 

森本氏が強調しているように、単なる知性批判ではなく、知性と権力の結託への抵抗であることが重要です。

 

反知性主義はあくまで反権威主義のひとつのあらわれなのです。

 

反知性主義がすぐれてアメリカ的な現象である所以もそこにあるといえるでしょう。

 

重要なのは、アメリカ人にとって知性なるものが旧大陸の権威を象徴するものであったことです。

 

開拓期のアメリカ人たちのなかには、故国で人生に挫折して新大陸に流れてきた敗北者たちも多かったはずです(そもそも人生の成功者なら、わざわざ苦労して海を渡ろうとなどしないでしょう)。

 

そういう人たちは旧大陸の権威をなんとしても否定したいという根深い怨恨を抱いていたにちがいありません。

 

「神の下での万人の平等」という福音主義思想が、権威である旧大陸と新参者である新大陸の「平等」を訴えるための絶好の道具になったのは必然であったのです。

 

ソローはどうでしょうか?

 

『センス・オブ・ウォールデン』のスタンリー・カヴェルはソローのうちに旧大陸的な哲学への批判を読みとっています。

 

カヴェルによれば、『ウォールデン』はアメリカの「建国の叙事詩」たろうとした「英雄的な書物」であり、アメリカに固有の言語をもたらそうという野心の下に書かれました。

 

ソローがウォールデンの森に居を構えたのがほかならぬ7月4日であることはよく知られています。

 

ソロー自身は偶然を装っていますが、カヴェルによれば、『ウォールデン』においてソローがなしていることはいわば「超越[主義]的独立宣言」なのです。

 

ドイツにおいていわば国語がルターによる聖書の「翻訳」によってもたらされたのに似て、アメリカの言語も、ヨーロッパ的な「神話」(端的に「聖書」と言い換えてもよいでしょう)の「書き換え」としてもたらされたのです。

 

カヴェルによれば、ソローの『ウォールデン』は、ヨーロッパ人が「不可解」で「むずかしい」言葉に“翻訳”することで伝わらなくしてしまった「父の言葉」、つまり神の言葉を、地上の人間にはじめて正しく伝えるという使命感に貫かれています。

 

それは頭でっかちではない、あるいみでいかにもアメリカ的な、地に足のついた「日常言語」への書き換えによって実現されるのだとされます。

 

ソローはまさにそういう日常的な言葉を使って、とても深い思想を書き綴りました。

 

アメリカ人にとっての「母の言葉」、つまり母国語は英語であり、そのかぎりでアメリカはイギリスに言語的に従属しています。いわば植民地の民衆が植民者の言葉を押しつけられているのとおなじことです。

 

アメリカ固有の言葉は、ヨーロッパ人がついに聞き取ることのできなかった(それどころが歪曲してしまった)「父の言葉」すなわち神の御言葉としてもたらされます。

 

「母の言葉」とはすぐれて話し言葉であり、母親に口伝てに教わるものです。

 

たいして父の言葉は聖書に記された文字、すなわち書き言葉です。

 

カヴェルは『ウォールデン』が「書物」という形式をとっていることをことのほか重視しています(ソローが生前に単行本として刊行した著作はごくわずかでした)。

 

反知性主義においては警戒の対象となることの多い「書物」という形式にソローはあえてこだわっているのです。

 

その背景には、自然とは神によって書かれた書物であるという福音主義の教えがあります。

 

このへんは森本氏の本に詳しいのですが、ソローの同時代に、反知性主義を推進した第二次信仰復興運動(リバイバリズム)という福音主義のムーヴメントが起こりました。

 

その指導者であるチャールズ・フィニーという説教師によれば、神は二冊の「書物」を書きました。その一つは聖書であり、もうひとつは「自然」です。

 

自然が、そこに神のメッセージを読みとるべき「書物」であるという考え方は、ソローの盟友エマソンにも共有されているものです。

 

ソローはウォールデンの森を歩き、目を凝らし、耳を澄ますことで、自然のなかに神のメッセージを読みとろうとしたのです。

 

ソローは生き生きした比喩や擬人法を駆使して、自然界のドラマを、まるで神話の物語のようにエキサイティングに活写しました。

 

ところでヨーロッパにおいて、伝統的に話し言葉は書き言葉の上位に位置づけられてきました。

 

文字を媒介させた間接的なコミュニケーションである書き言葉とくらべて、話し言葉のほうがダイレクトでストレートなコミュニケーションを可能にしてくれるからです。

 

デリダによれば、ヨーロッパの哲学的伝統を支えていたのはこのような「音声中心主義」です。

 

デリダはヨーロッパ的な主体の「同一性」が、話し言葉における「じぶんが話しているのを[ダイレクトに]聞く」という無媒介性によって保証されているといいます。

 

ですから、ヨーロッパ哲学において、文字を媒介としたより間接的なコミュニケーションである書き言葉は、そうした主体のアイデンティティを揺るがせる脅威と見なされていたのです。

 

カヴェルによれば、ソローもヨーロッパ哲学における自己同一的な主体を問いに付したことになります。

 

超越主義の考えによれば、人間ひとりひとりに「内なる神」(エマソン)が住まっており、ひとは自己を高めることによって(“自己啓発”?)、「内なる神」をこの地上において顕しめることができるのです。

 

いわば自我を「脱皮」して内部の神性が姿を現すのです。ちなみに「脱皮」は『ウォールデン』のキー・コンセプトのひとつです。

 

これを、“じぶんイコール神“と解釈するべきではありません。それではトランプ流の唯我独尊の考え方とえらぶところがありません。

 

むしろ「内なる神」はじぶんにとっての“他者”なのです。

 

ひとはもともとじぶんのうちに他者を住まわせているのです。

 

自己の内部での自我と他者のこの分裂をひとは受け入れなければならないのです。

 

こういう考え方はヨーロッパ哲学にもないことはありませんが、あくまでマイナーな位置づけに甘んじていました。

 

というわけで、ソロー(およびエマソン)は、ヨーロッパ哲学の亜流ではないオリジナルな哲学を打ち立てたのです。

 

カヴェルの『センス・オブ・ウォールデン』は1972年に刊行されています。

 

その六年ほどまえに出たデリダの『グラマトロジーについて』『声と現象』をカヴェルが読んでいた形跡はありませんが、ヨーロッパ哲学批判が「音声中心主義」批判というかたちをとるという、デリダとどうようの見取り図を提出しているのはおもしろいですね。

 

書き言葉を知性批判の武器に選んだソローの特異性は、アメリカという、スピーチの能力をことのほか重んじる風土においてはなおのこと際立ちます。

 

その点ではソローは、ジョナサン・エドワーズからドナルド・トランプへと繋がる反知性主義の説教師的伝統とは袂を分かっているともいえます。

 

ながらくアメリカ哲学はヨーロッパ哲学の下に位置づけられてきました。現在もなおそうでしょう。

 

カヴェルは『センス・オブ・ウォールデン』において、ソローをカントら旧大陸の大哲学者たちに劣らぬ哲学者として評価することで、アメリカ哲学をヨーロッパ哲学のくびきから解放しようとしたのだといえましょう。

 

そのいみではカヴェルの本そのものがあるいみで反知性主義的な伝統につらなるといえないこともないですね。

 

ソローの政治的信条にも、反知性主義的なところがあるとおもわれます。

 

森本氏が前掲書で「セクト型」の福音主義の特徴として挙げている「地上の制度、組織を絶対視せず、自分自身の理性や信仰を唯一の判断の拠り所と」し、「『権威』とされるものに、たとえ一人でも相対して立つ」という思想は、ソローの思想と重なるところが大いにあります。

 

とはいえ、上に述べた哲学批判そのものがすぐれて「政治的」な射程をもつものであることは、カヴェルも指摘しているところです。

 

森本氏は、ソローは「説教壇をもたない説教者」であるとするエマソンの言葉を紹介していますが、言い得て妙ですね。

 

ちなみに森本氏がみずから自著の“ネタ本”として挙げているホフスタッターの『アメリカの反知性主義』では、ソローは機械文明への「人道的抵抗」者として、ごくあっさり触れられているだけです。

 

また、森本氏はエマソンの「反知性主義」にも頁を割いていますが、ホフスタッターの著書では政治的ないみでの「反知性主義」と純粋に哲学的ないみでの「反合理主義」とが別物とされており、エマソンはもっぱら後者のカテゴリーにくみこまれています。

 

ホフスタッターによれば、ソローには「アメリカの未来への情熱は無縁」であるということになります。

 

ホフスタッターも森本も、ソローを文明に背を向けた隠者であるとする俗見にとらわれているようにおもわれます。そこでは文明と自然の素朴な二項対立が前提されています。

 

森本氏の本にはこうあります。「『超絶主義者』の一人として、ソローも森には神的なものが宿っていると思っており、そこに住めば堕落前の自然な楽園に住む純粋無垢なアダムのようになれると考えていた」。

 

カヴェルの本を読むと、どうやらそうではないらしいことがみえてきます。

 

森本氏は「ウォールデンはコンコードという町からほんの二キロしか離れていないが、それでも森は森である」とヤケ気味に書いていますが、カヴェルによれば、じつはこの微妙な距離のとり方にこそソローの“隠遁”のいみがあったりするのです。

 

そのへんについてはいずれ稿を改めてお話することにいたしましょう。