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精神分析と映画をめぐる読書案内

ドミニク・ラファンという女優:クレマンティーヌ・オータン『愛していると伝えて』

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*Clémentine Autain : Dites-lui que je l'aime (Grasset, 2019)

 

 1970年代後半から80年代前半にかけて繊細で独特の美貌と強烈な存在感を放ちつつスクリーンの世界を駆け抜け、三十三歳で謎の死を遂げた女優ドミニク・ラファンは、ある世代の若者たち(筆者もそのうちもっとも年少のものらのひとりである)の熱狂的な崇拝の対象となってきた。

 

 『愛していると伝えて』は、極左指導者ジャン=リュック・メランションに近い代議士であり、フェミニスト活動家であるクレマンティーヌ・オータンが母親であるラファンとの関係を回想した書。

 

 本書は二人称による母親への呼びかけというかたちをとった、時間軸にとらわれずに並べられたいくつもの断章からなっている。

 

 役柄に全身全霊を投影する演技スタイルを持ち味としたラファンは、いわゆる破滅型の表現者に分類されよう。

 

 料理や家事はほとんどまったくせず、アルコールに溺れ、子供を育てる能力は欠如していた。親友の一人によれば「ドミニクは現実世界に錨を下ろす能力をもちあわせていなかった」。

 

 「役柄が娘の存在の先に立ち、出演作が母娘の時間を奪ってしまった」と言う人もいる。かのじょはつねに繊細さを要求する役柄を振られていた。「映画という職業があなたを見捨てたのだ。生の怒りを演じつづけ、三十五歳で自殺したパトリック・ドゥヴェールがそうであったように」。

 

 「ドミニク・ラファンのなかにわたしはいつもじぶんの母親を見てきた。でも母親役はあなたの最高の役柄ではなかった」。

 

 ある日、母親は幼い著者を残して忽然と姿を消す。

 

 「子供用のベッドで、わたしは物音で眠れないでいる。時間がどのくらい経過したのかはわからなかったが、ふと気づくと、何も聞こえなくなっている。あるいはむしろ、不穏な静寂がみなぎりわたるのが聞こえている。わたしは起き上がり、廊下へ通じるドアを開ける。誰もいない。しのび足であなたの寝室に入る。誰もいない。あなたにみつかるのをおそれて、あるいはあなたをおどろかせるのをおそれて、わたしはそっと歩く。灯りがつけっぱなしの居間のドアを押す。誰もいない。キッチンへ走る。誰もいない。あとは浴室だけ。誰もいない。私は七歳か八歳。時刻は九時か十時。わたしは家に一人きりであることを知る。窓の外を意味もなく眺めてみる。誰もいない。わたしは猛烈にこわくなる」。

 

 この場面が著者のトラウマとなる。大人になってからも、このときのことを悪夢にみて汗びっしょりで飛び起きることがあったという。「わたしは泣かない。泣いてはいけないと教えられていたから」。

 

 この出来事によって娘は母親への信頼を失い、母娘の絆は断ち切られる。

 

 母親の死を知った時、十二歳の著者は鏡のまえに何時間も座り、際限なく「ママ」と呼びつづけた。『夜霧の恋人たち』のアントワーヌ・ドワネルが同じようにして思いびとの名を何度も呼んでいたように。

 

 十代の頃、母の不在はなお著者に取り憑いていた。一緒に暮らしたアパルトマンのドアの前に佇んでみたり、母親の匂いをもっともっとかぎたいと同じ香水を買いつづけたり、モンマルトルにある墓のまわりをうろついたり……。相手が不在であるために怒りのやり場はどこにもなかった。時が経つにつれ、怒りは消えていった。

 

 別れて暮らしていたあいだ、ラファンは親しい友人に娘に会えないことの苦しさをつねづね吐露していた。娘はこれを「愛していると伝えて」というじぶんへのメッセージとしてうけとる。いうまでもなく「愛していると伝えて」はクロード・ミレールの演出したラファンの出世作のタイトルである。

 

 離れ離れになっているあいだ、母親はいろいろなものを娘に送ってきた。雪景色のヴェネツィアを閉じ込めたガラス玉を著者は長いこと自室に飾っていた。さながら著者にとっての“ローズバッド”であったということか?

 

 観ることを周囲から強く勧められていた『泣く女』をはじめてみたとき、著者はリセの最終学年に進級していた。『泣く女』でラファンが演じた女性ドミニクには著者と同じ年かっこうの娘がいる。

 

 『泣く女』はスターを迎えた作品として企画されたが、ドヌーヴにもミウミウにもオファーを蹴られた結果、ドワイヨンは恋人のラファンを起用し、みずからその相手役を演じ、自宅で撮影する低予算作品として撮ることを決意する。ドワイヨンは、ラファンと著者の関係が良好でないと判断して、娘役にはじぶんの娘ローラを起用。

 

 著者はドワイヨンとラファンとローラがベッドにいるシーンの撮影を眺めながら、あそこにいるのがなぜ自分ではないのかと自問し、これが思い出すごとに強い不安をかきたてる思い出となった。撮影中、ドワイヨンとラファンの関係は物語中のカップルどうよう破局を迎える。

 

 著者は学生時代に性的暴行を受けた経験によって卒論のテーマを変え、女性解放運動に生涯を捧げることを決意する。その際、指針となったのが、まさに女性解放運動の幕開けの時代に、自由で自立した女性のイメージをスクリーン上で体現していた母親にほかならなかった。

 

 「あなたたちは喧しく議論しながら夢を語り、危険を覚悟で『否』を突きつけた楽しげな世代に属している。わたしたちは、慎重なあしどりで、危険を冒さずにいかに『諾』というかを模索する意気消沈した世代に属している。このようなシナリオのなかで、わたしたちはあなたたちに先陣を切ってもらったと恩義をかんじている。そしてわたしは自由への志向をあなたに負っているとおもっている」。

 

 著者がもっとも親近感を覚える母親の映像は、Les Petits Calîns (1978) のなかでのもの。「葉巻をくわえ革ジャンすがたでバイクにまたがったあなたは、素敵な王子様がくるのを待つのではなく自由意志で選択することを欲する自立した女性を体現している」。スチールのなかのラファンは美容整形(男性的な価値観への服従?)以前のかたちのよくない鼻をしている。母親の秀でた頬骨をみて著者は母親とじぶんの繋がりをはっきりと意識する。

 

 「性的なオブジェとして受け取られていることを知りながら、あなたはじぶんのことをまじめにうけとってほしい、一人前の表現者として認めてほしいと願っていた」。

 

 パーティーの席で女性差別的な言辞を吐いたアラン・ドロンの顔に酒入りのグラスを投げつけたこともあった。「このようなふるまい、このような無礼はすべきものとはされていなかったが、あなたはそれをした」。

 

 ラファンはどの政党にも与していなかったが、アンガジェした女優であった。親友のひとりはかのじょをアナーキストと形容する。著者によれば、むしろ「トロツキスト」であり、なによりもフェミニストであった。

 

 ラファンの父親はジャン=マリ・ルペンとともに国民戦線を創設したブルジョワ政治家であった(著者はこの血縁者にたいして至極冷淡である)。ラファンは父親に押し付けられたカトリック教育に反発しつづけた。

 

 「あなたはブルジョワジーをきらっていた。ブルジョワの作法、ブルジョワの規範、そしてなによりブルジョワの軽蔑を」。

 

 かくして娘は母親のうちに政治活動家としての理想を見出す。この和解を著者は「内的な革命」として経験する。

 

 ドミニク・ラファンの死因は自殺あるいは心臓発作によるものとされているが、かのじょをよく知る人たちはいちように自殺説を強く否定している。

 

 著者はたまたまテレビで放映されていたマリリン・モンローのドキュメンタリーでマリリンの死が「偶然的自殺」(suicide accidentel)という言葉によって説明されているのを聞いて、この言葉が母親との葛藤からの出口になるのをかんじる。このようなオクシモロンによってはじめて母親との逆説的な関係を理解したきもちになった。

 

 ラファンの死を知ったとき、著者の祖母はこういった。「ふしぎね。かのじょが年老いたところを想像することができなかったの」。ラファンじしん、じぶんが若死にする予感を口にしたことがあった。

 

 アルコールに溺れる母親を見ていた著者はながいこと酒をたしなめなかった。あるときアペリティフを口にしていると、娘に「飲みすぎは毒よ」とたしなめられた。「娘にはすでにわかっているのだ。しかし娘は、このグラスがわたしにとっては当初の規律の転覆であり、あなたの裏面であることを知らない。いまではグラスを口にはこぶことができる。逆説的なことながら、これは新たな自由なのだ。わたしはもうこわくない」。

 

 ドミニク・ラファンはいまや忘れられた女優である。著者は母親についての調査でシネマテーク・フランセーズのアーカイヴを訪れるが、ドミニク・ラファンについての資料はいっさい保管されていなかった。「あなたの記憶を消してしまったのはわたしだけではないということだ」。

 

 ロラン・ペランがラファンに捧げたドキュメンタリーを著者はようやく観る気になる。そこでラファンについて語られる数多くの証言の抜粋が本書の掉尾を飾っている。 そこには母親の負の面しか知らない著者がはじめて知るラファンのもうひとつの顔があった。

 

 ドミニク・ラファンの遺体がベッドで発見されたとき、その枕元には睡眠薬の瓶と、ほぼ同世代といってよい女優パスカル・オジェの二十五歳での死を伝える雑誌の頁が開かれたままになっていたという。

 

 パスカル・オジェについては、その妹エメロード・ニコラが親友ジム・ジャームッシュオリヴィエ・アサイヤスらを含む数々の知人から聞き出した証言とプライヴェートなものをふくむたくさんの本人および遺品の写真と記事で構成した『パスカル・オジェ わが姉』(Filigranes Editions, 2018)が刊行されている。これほど愛に溢れた美しい書物はめったにあるものではない。『満月の夜』のセットデザインをはじめ、パスカル・オジェもまた女優という枠にとどまらぬ稀有な表現者のひとりであった。

 

 いずれの書物もfamille recomposée といういかにもフランスらしい家族形態の産物であることを付け加えておこう。

 

 

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ヘーゲルと映画:アラン・バディウ『諸真理の内在性』

 

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 Alain Badiou : L’immanence des vérités  L’être et l’événement, 3, Fayard, 2018.

 

 昨年刊行された『諸真理の内在性』の最後から2番目の節において、アラン・バディウヘーゲルにおける映画の予見、もしくは両者の出会い損ないについて興味ふかい考察をおこなっている。

 

 

 a)ヘーゲルにおける映画の予見 

 

 ヘーゲルは映画をつぎのように名付けることができたであろう。

 

 建築、彫刻、絵画、音楽、詩につづく「第六芸術」。

 

 あるいは、絵画、音楽、詩につづく「第四のロマン派芸術」。

 

 もしくは、象徴芸術、古典芸術、ロマン派芸術につづく第四の芸術形態。

 

 はたまた、「現代芸術」?「同時代芸術」?「最終芸術」?

 

 疑いえない事実はヘーゲル哲学のアキレス腱である。『惑星軌道論』において、ヘーゲルはケレスが発見されたあと、火星と木星のあいだに惑星は存在しえないという純粋に観念的な理由からその存在を認めなかった(その後、ケレスは小惑星に分類された)。

 

 これ以後ヘーゲルは、経験的な自然的事物の「実在」は、数学的手続きからではなく観察からしか生まれないと考えた(これはヴェリエによる海王星の発見によって否定される)。ここにヘーゲルは理性的推論に還元しえない経験的なものの有効性を認めるに至る。

 

 ヘーゲルにとっては映画もまた、最終芸術である[近代]喜劇のあとにはあるはずのなかった芸術の一惑星であったのかもしれない……。

 

 

 b)ヘーゲルと映画をめぐる三つの問題。

 

  ヘーゲルは映画という芸術の存在をいかなるいみで予見しえたか?

 

 この問いは二段階に分けられる。

 

 1)ヘーゲルは喜劇のつぎに来る第六芸術の存在を予見しえたか?

 

 2)ヘーゲルは映画の誕生以前にこの新芸術の特徴を予見しえたか? 

 

 くわえて、

 

 3)ヘーゲルには、映画が芸術でないのみならず、芸術の終焉というテーゼとともに確認された非芸術であると断言する理由があったか?

 

 

 c)諸芸術についてのヘーゲル的体系と映画の弁証法的「演繹」

 

 ヘーゲルの哲学体系は、突然変異的に未知の芸術が誕生すると考えることを許さない。

 

 それゆえ、映画は既存の芸術のなかから弁証法的に誕生すると想定される。

 

 ヘーゲルによれば、近代喜劇は、詩劇の究極的形態であるとともに、詩という芸術の発展の最終形態でもある。そして詩は、ロマン派芸術の最終形態である。ロマン派芸術は、それじたい象徴芸術、古典芸術、ロマン派芸術という歴史の最終形態である……。

 

 近代喜劇は芸術を溶解させることで閉じる。

 

 ヘーゲルによれば、「芸術の目的は、精神が永遠的なものと現象性との弁証法的統一を作り出すことである。近代喜劇はこの統一をその自己破壊という形でもっぱら表す」。近代喜劇はいっさいの理想性の破壊を表している。そこにおいて「絶対的なものは、その否定的な形態の下でのみ際立つ」。

 

 バディウは、ヘーゲルがなぜいまひとつの弁証法的展開を排除するのかと問う。この展開はこのような廃棄の廃棄となったはずである。

 

 すなわち映画がそれである。

 

 「映画は近代喜劇のように否定的に芸術の歴史を止めるのではなく、救いとなる全体化を真剣さと不安の入り混じった仕方で成し遂げるであろう」。

 

 ヘーゲルの死後二十年経って、ワグナーが全体芸術のプロジェクトにのりだす。オペラが諸芸術の総合となる。

 

 ヘーゲルはワグナー以前に、喜劇的否定性の完全な弁証法というかたちのもとに、「無と化した芸術の救いある未来」を、「最初の終わりの終わり」として導き出せたかもしれない。

 

 

 d)全体性と映画

 

 映画はいかなる意味で全体的な芸術であるのか?

 

 まず、モンタージュの芸術であるかぎりで映画は建築である。

 

 『戦艦ポチョムキン』はショットの時間的な建築を根本的な素材にした。

 

 ついで、3Dによって映画は彫刻となりつつある。

 

 3Dになることで、自然的事物が感覚的であると同時に静謐で絶対的なものとして芸術的に再構成される。『さらば、愛の言葉よ』においては、背景が覆いのような詩情をうみだして、前景に彫刻的形態を浮かび上がらせている。

 

 また、映画はカラーの導入以前から絵画であった。映画はその運動のさなかにいくつもの繊細な静止画像をつくりだす。そこではセットと俳優の編成が、風景と肖像の芸術的な組み合わせとなる。

 

 『最後の人』において、モノクロは色彩の不在ではなく、テーマそのものが要求するカラーにほかならない。

 

 ギュスタフ・ドイッチュの『シャーリー』は、ホッパーの絵画をロケーションと生身の俳優で再構成し、「映画芸術が絵画への賛歌であるとともに、映画の時間的運動のなかでの絵画の模倣的再全体化であることを示している」。

 

 音楽の時間的運動のなかで再構成された絵画の空間的不動性が映画である。

 

 こうした弁証法離れ業を可能にするのはひとり映画のみである。

 

 「絵画の映画的引き継ぎが絵画の弁証法的真理を構成する」。

 

 「なんとなれば、それが絵画の運動におけるリアルを表しているからだ」。

 

 映画はまた、時間芸術であることにおいて音楽である。

 

 小津の「メランコリックなアダージョ」。あるいはフォードにおける、ベートーヴェンもかくやの「あらゆる地点における突然の加速」。

 

 映画は「終わりを準備する」術においても音楽である。『イタリア旅行』のラストの“奇跡”は、ポンペイ遺跡の場面の「永遠化した」古代のカップルの映像において鋳型として準備されている。

 

 『ワルキューレ』第3幕でも同じ「鋳型」が使われている。

 

 『ヴェニスに死す』におけるマーラーアダージョ象嵌

 

 『ヴェニスに死す』は「映画的時間に固有の音楽性」において際立つ。

 

 映画はまた詩劇である。筋、俳優、台本(台詞)によって、映画はヘーゲルのいう究極的な芸術形態と結合すると同時に分離される。

 

 『ジュリアス・シーザー』は、シェイクスピアの悲劇の輝かしく永遠の引き継ぎであり、定着である。

 

 俳優、セット、映像、音楽といった諸要素が、映画においては、舞台には還元できない時間的秩序のうちに結びつけられる。

 

 映画はまた叙事詩であり(『七人の侍』)、抒情詩である(『近松物語』)。

 

 というわけで、ヘーゲルは映画を絶対的芸術として聖別化することができたはずだ。

 

 

 e)映画は芸術か?

 

 映画は芸術なのだろうか?

 

 映画はその芸術的特異性によって、諸芸術の全体化を維持する(tenir)ことがない。

 

 映画は一つの芸術というよりも、真の諸芸術が存在していた時代への懐古的郷愁だ。

 

 マルローの有名な一節。「さらに映画はひとつの産業でもある」。

 

 映画は資本主義と共産主義のあいだの根本的矛盾の時代の一芸術である。

 

 そしてこの矛盾はヘーゲルの念頭にはなかった。それゆえに<歴史>についてのヘーゲルの思想のあらゆる側面は限定的なものにとどまる。

 

 「映画はその落とし子であるテレビやインターネットどうよう資本の芸術的=産業的複合体であるが、芸術の絶対的運動において、映画という真理の芸術的手続きにおいて、主観的にその産業的本質をのりこえるものの手続きにおいて、そして最終的に、政治的秩序において、ハリウッドがその分裂の象徴であるものを破壊するだろう」。

 

 現代における映画のこうした弁証法的機能のもっとも驚くべき事例は批評的ドキュメンタリー(「ドキュフィクション」)にみられる。

 

 これは民衆的・アクティヴィスト的リアルと圧制に潜在する構造を把握する試みである。

 

 これは映画にのみ可能な試みだ。あるしゅのイスラエル映画は、ユダヤ人とパレスティナ人の新たな平等の政治的発明を証言している。

 

 南スーダンの状況とそこでの中国と西洋諸国の共同責任がひとの知るところとなったのは、フーベルト・ザウバーの『われわれは友人としてやってきている(Nous venons en amis)』によってであった。

 

 ハリウッドの古典的な劇映画においては、クリント・イーストウッドのあるしゅの作品が、同時代のリアルの弁証法的曖昧さを扱っている。

 

 テレビドラマにおいても、デヴィッド・サイモンの『トリーム』『ザ・ワイヤー』といった例外的な作品が撮られている。

 

 

ジルベルト・ペレスの遺稿:『雄弁なスクリーン』

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 Gilberto Perez : The Eloquent Screen ― A Rhetoric of Film (University of MInnesota Press, 2019) 

 

 名著『物質的な幽霊― 映画とそのメディウム』(The Material Ghost : Film and Their Medium , Johns Hopkins University Press, 1998)で知られるジルベルト・ペレスの新著の出版は格別の驚きとともに読書界に迎えられつつある。本書『雄弁なスクリーン ― 映画の修辞』は、ペレスが2015年に亡くなる直前に脱稿していた遺構の書籍化である。

 

 英米の映画研究・映画批評の世界におけるペレスの影響力の大きさは、たとえば十年ちかくまえに「サイト&サウンド」がおこなったベスト映画本アンケートにおいて『物質的な幽霊』に多くの票が集まったことからも容易に推し量ることができる。ちなみに同アンケートにおいて、カヴェルの『眼に映る世界』は二票にとどまり(そのうちの一票はかのトム・ガニングによるものである)、ドゥルーズ の『シネマ』に至っては一票すら獲得していないが、ペレスは現役の書き手としては例外的な票を集めていたと記憶する。

 

 1943年、ハバナに生を享けたペレスは、若き日に同国の作家カブレラ=インファンテの映画批評に大きな薫陶を受けた。MITで物理学を専攻した経歴がペレスの映画観に影響している。ジークフリート・クラカウアーがその映画観客論で強調し、アンドレ・バザンが「真実である幻覚」と呼んだ、「マテリアルでありながら、別の世界に移し置かれ、作り変えられた」世界、すなわち「物質的な幽霊」としての映画というヴィジョンである。

 

 ペレスは「フレンチ・セオリー」を踏まえた明快で啓蒙的な文体と粘り強い思索力を持ち味とするモデルニテの伝道師といった人だ。強いて言えばスタンリー・カヴェルとロビン・ウッドの中間に位置するような人とでもいえようか。サラ・ローレンス大学で映画学を講じる傍ら、「イエール・レヴュー」、「ニューヨーク・タイムズ」、「ネーション」、「フィルム・コメント」、「サイト&サウンド」といった媒体に寄稿した批評家として活躍したかれが映画の領域においてアカデミズムと批評の橋渡しをつとめた功績は広く認められているところだ。

 

 生前に刊行された唯一の著書である『物質的な幽霊』はまさにバイブル的な書物であり、裏表紙には、エドワード・サイード、スタンリー・カヴェル、ジョナサン・ローゼンバウム、ジェイムズ・ネアモアといった大家らによる賛辞が連ねられている。

 

 『物質的な幽霊』において、ペレスはムルナウキートン、ドヴジェンコからアントニオーニ、ゴダール、ストローブ、キアロスタミまで、映画のモデルニテを築いてきた伝統を振り返る作業にとりくんでいる。カヴェル の『眼に映る世界』にも似て、『物質的な幽霊』はいっこの知的自伝である。

 「ジェイムズ・エイジーが十代と二十代の頃に見た映画を振り返り、グリフィスやチャップリンエイゼンシュテインやドヴジェンコの映画のうちに映画芸術の偉大な時代を見たように、わたしはいま、わたしの十代と二十代の頃に見た映画をひさしぶりに振り返り、60年代にピークを迎えた映画芸術の全盛期をそこに見る。……ひとは若い日に見た映画にたいしては初恋の感覚に似た思いをいだいて反応するという事実は意義ふかい」。

 

 『物質的な幽霊』で提示された複数の問題意識を発展させた『雄弁なスクリーン』において論じられるのは副題にあるように「映画のレトリック」という、あるいみでいまどき流行らないテーマである。

 すでにアンソロジーアメリカの映画批評』(American Movie Critics, An Anthology from the Silents until Now, The Liberary of America, 2006)にもその一部が収録されていた序章は、フォードの『プリースト判事』の寓話的読解にあてられている。それは弁舌の才に長けた敵対候補を、別のしゅるいの「修辞」を操る口下手な主人公(ウィル・ロジャース)が打ち負かすといった寓話である。ここにおいて、映画における修辞が雄弁術における狭義の修辞とは別のとくしゅなものであるという本書の主題が明確に読みとれる(副題の不定冠詞の意味あいに注意)。

 また、この序章には本書を貫く方法論もはっきりと提示されている。すなわち、雄弁と寡黙という偽の二項対立を注意深く腑分けすることによってパラドクスに追い込み、つき崩していくという論法のことである。

 これ以後、本書のいたるところで、たとえば隠喩と換喩、主観と客観、ドキュメンタリーとフィクション、リアリズムとモダニズム、リアリズムとメロドラマ、バザンとブレヒト、悲劇と喜劇、「ラウンド」と「フラット」(フォースター)などなどの二項対立をめぐる同じような脱構築(??)作業が展開されることになるだろう。

 

 最初のパートは「映画のさまざまな比喩[tropes]」と題される。グリフィス、チャップリン、ヴェルトフ、バルネット、キャプラ、清水宏からスピルバーグ、チミノ、エロール・モリス、キャサリン・ビグロー、キアロスタミに至るまでの諸作品にそくして、隠喩、換喩、提喩、アレゴリーアイロニー、省略法、パロディーといった修辞が映画においてどのようなかたちでつかわれているかが構造主義的文学理論やウォーショー、クラカウアー、カヴェル、ジェイムソンらの映画理論を参照しつつ分析される。

 

 次のパートは「メロドラマと映画技法」と題されている。グリフィス、シュトロハイムからミヒャエル・ハネケテレンス・マリックマイク・フィギス、ヒューズ兄弟、王家衛らの作品が俎上に載せられ、クロースアップ、視点ショット、切り返し、長回しキャメラ移動、スローモーション、ヴォイス・オーヴァー、ジャンプカット、クロスカッティング、スプリットスクリーンといったテクニックがいかにメロドラマ的表象に寄与しているかをたどる。

 

 たとえばペレスは、アレン&アルバート・ヒューズのデビュー作『ポケットいっぱいの涙』(Menace II Society, 1993年)におけるヴォイス・オーヴァーの使い方に着目する。『サンセット大通り』とどうよう、この作品では死者によるヴォイス・オーヴァーが使われるが、ワイルダー作品ではこの技法が「アイロニー」の効果をもつのにたいし、ヒューズ作品では「悲劇」の物語話法として機能している。『ポケットいっぱいの涙』は“一人称の語りによる悲劇”という例外的な手法に訴えることによって(「例外が規則を証明する」)、物語が基づいているオイディプス・コンプレックスの図式にツイストをほどこし、アフリカ系コミュニティに固有の父性の継承のあり方を提示し得ているとされる。

 

 「同一化」と題された短い「コーダ」では、フロイトあるいはクラインを参照しつつ、映画における同一化が距離の廃棄と維持という背反的な契機を同時に含むパラドクシカルな現象であることがヒッチコック(悪人への同一化、etc.)や『キートンの探偵学入門』を素材に論じられる。フロイトにおいてもきわめて多義的である同一化という概念は、あるいみでペレスが探求してきたすぐれてパラドキシカルなものとしての映画を象徴するようなそれであるといえようか。

 

  (à suivre)

 

ジャック・リヴェットの映画批評集成(その8)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.

 1963年7月号からリヴェットはロメールの後を襲い「カイエ・デュ・シネマ」編集長をつとめる。『批評文集』編注によれば、つぎに挙げる記事は雑報欄にひっそりと発表されたが「批評家リヴェットの後期を画するマニフェストとはいわないまでも社説というべき文章になっている」。


「『殺人狂時代』再見」
 「カイエ・デュ・シネマ」8月号掲載。「映画の規則と例外がそこから出てくるような映画の純粋状態[即自]というものは存在するか。そういう議論がなされればなされるほど、わたしはますますそういうものの存在を信じられなくなる。映画とはつまるところ[個々の]映画作家たちが為すこと[のひとつひとつ]である。そしてエイゼンシュテインブニュエルチャップリンが『例外』であったとしても、例外こそが[映画の]特異性を基礎づけるのだ。バッハやシェーンベルクはかれらじしんの音楽言語を探求していたのであって、普遍的な音楽書法を構築しようとしていたのではない。ミケランジェロは絵画の役に立とうとしていたのではなく、絵画(あるいは映画)をじぶんの役に立てようとしていたのだ。芸術は探し求められる[courtisé 言い寄られる]ものではなく掴みとられるものだ」。
 「映画の目的とは何か[『ジャンヌ・ダルク裁判』論参照]。スクリーンに映し出された現実の世界が同時に世界についてのひとつの観念となることだ。世界をひとつの観念として見なければならない。世界を具体的なものとして考えなければならない」。世界と観念のいずれを出発点に選んでも、他方にたどりつけないリスクがある。しかし観念は「骸骨」ではなく「動的な形態[figure]」であり、その運動の正確さと内的な弁証法によって徐々に具体的な世界を眼前に再創造する。もうひとつの世界であり、説明された世界ではあるが、受肉された観念であると同時に、意味に貫かれた現実[réel]であるという二重性をもつ。これはまた、観念なるものがすでに世界の観念であり、概念的な視覚(スペクタクルないしメタファー)であるということでもある。ひとつの<映像=観念>(たとえば一部屋に閉じ込められた招待客たち、兎のように地面を転がるハンター、修道院に面した死刑台)はひとつの『登場人物』であり、登場人物のようにさまざまな矛盾をかかえていて、映画はこの矛盾の方法的な解明[dévoilement]なのだ[このあたりドゥルーズの「概念的人物」に繋がる発想?]。ヴェルドゥーの夥しい意味作用は舞台上の演技にというよりもこの演技を生み出す俳優の器用さに宿っている。すなわち主演俳優の『演技』[作用]をめぐる演出であり、この演出はこの演技と一体となる。というのも俳優の行動はたえざる創造であり、原動力の中心であるとともに眼差しでもある。チャップリンは動き[agir]、動かし、またみずからが動くのを見、他人をとおしてみずからの行為を見る。かれはスクリーンの空間のなかに意味の爆発を組織し、われわれ[観者]への影響に基づいて判断されたひとつの動き[agir]を実験する。これは科学者の方法だ。チャップリンブニュエルルノワールはともども現在の『科学の時代』の落し子である。[……]人間はかれらにとって研究と実験の対象であるが、その人間とはまずもってかれらじしんである」。つまりチャップリンにあっては「じぶんじしんの神話をじぶんのキャラクターにくみこみ、じぶんの『伝説』をじぶんの神話にくみこみ、大文字の『歴史』をこの伝説にくみこんで、ひとつの連鎖反応のシステムによって、新たな身体を獲得すること」である。このプロセスは「対象の再構成であるが、『この再構成において対象の諸機能を明らかにする』ことをともなう。これはバルトによる構造主義的方法の定義であり、この方法があらゆる現代芸術の原理となっている」。「チャップリンがじぶんの演じている役柄から突如として身を退けること」によって[その役柄に]意味作用が生じる。この身振りはブレヒト、フォートリエ、ブーレーズにも共通している。「こうして意味が到来し、刻み込まれる。作品はこの到来の運動をとどめている。作品はこの到来の運動であり、この運動を確証し、再開する」。
 読まれるとおり、バザンのチャップリン論を独自の視点から読み直した論文。つづく9月号でリヴェットはロラン・バルトへのインタヴューを行なっている。映画の「ゼロ度」についての本稿冒頭の問いがバルト的なそれであることはいうまでもない。


ジョルジュ・フランジュの『ジュデックス』」
 同11月号掲載。「白と黒、それらのニュアンス、それらのコントラスト、それらの戯れと闘争、これがまさに『ジュデックス』の主題だ。とはいってもその彼方になんらかの参照項や抽象的な意味があるわけではなく、ただその外見のうちにのみその主題は宿る」。「外見以外はなにもない。とはいえあらゆる外見がその出現[apparition]の、その誕生の、その『発明』の運動そのもののうちにある。映画の起源にある秘密がいまや秘密でなくなったかのようだ。とはいえ同時に驚かされるのは、フランジュはその知識[術]によってこの秘密を再発見する人であると同時に、この秘密が失われてしまったことを知っている現代人でもあることだ」。
 同号の「ミュリエルの不幸」にも著名がある。


「121名の監督辞典」
 同1963年12月号から1964年1月号にわたる特集「アメリカ映画の現状・II」に、それに先立つ「アメリカ映画の現状」特集号(1955年)で編まれた小事典の増補改訂版が掲載された。以下はその項目。

ジョン・カサヴェテス
 「カサヴェテスは狡猾な男を演じているお人好しだ。かれは狡猾なお人好したちや醒めた馬鹿正直者たちを撮る。かれらはパンチを喰らうのがこわいあまりあせってパンチを食らわせる。グルになった臆病者たちのマリヴォー劇」。

シャーリー・クラーク
 「アメリカの伝統である身体的な映画の感性を現在に受け継ぐ」。同特集に掲載されたアンケート「アメリカのトーキー映画ベストテン」の一本にリヴェットは『クール・ワールド』を挙げている。

モーリス・エンゲル
 「諸君[観衆]は存在しない。諸君を気になどするものか(視野の隅には入っているらしい)」。

ジョン・フランケンハイマー
 「信じがたいが真実だ」。ヒッチコックならぎゃくに「真実だから信じがたい」とするだろう。

ヘンリー・ハサウェイ
 『失われたものの伝説』は「野生状態のボルヘス」。

ジョン・ヒューストン
 ヒューストンを挿絵画家とみなすのが正しい。下手な作為は本の美麗さを損なう。

エリア・カザン
 「カザンがまず描こうとするのは有機的なもの、生物学的なもの、身体的なものだ」。初期の映画においては死に体になりながらももちこたえている生命活動[le vital]が描かれたが、ここ数年で生命活動そのものが主題に躍り出た。つまりはじめて「映画」になった。

アイダ・ルピノ
 「どんなストーリーを物語ることにもことごとく失敗している。策略があまりにもナイーヴなのにたいしインパクトは絶大なので、人の心を打ちはするがいつもそのタイミングを外している。かのじょの強みは、じぶんがつくりだした状況の犠牲者になる無防備な[désarmée]もしくは憎めない[désarmante]女性のポートレートをほんのいくつかの身振りだけから描いてみせることだ」。

ロバート・マリガン
 「クラレンス・ブラウン流のワンパターンな同軸上の繋ぎ」。戦前ならMGMの大監督としてひと財産築けただろう。現在かれは製作者として財産を築いている。

ラッセル・ラウズ
 極端なシチュエーションへの執着がたまにツボにはまって一瞬、絶妙のナンセンス描写を生む。

ドン・シーゲル
 傑作『殺し屋ネルスン』のドライなタッチは純粋な詩。「『ネルスン』はひとつの謎であるが、スフィンクスはいない」。シーゲルは「映画作家」ではないということらしい。

ジャック・ウェッブ
 愚直さ[無邪気さ]が創意の代わりをしている。


ジャン=ピエール・メルヴィルの『恐るべき子供たち』」
 同1964年2月号のコクトー追悼特集に寄せられた記事。コクトーのストーリーラインはお伽話のそれである。それは劇的な進行にも小説的な進行にもしたがわず、かれの偏愛する北斎の一筆書きさながらに、「単声によって」どこまでも伸びていく。その到達点は「語り手[作者]」にも読者にもあらかじめわかっている。その安心感があらゆる逸脱を許容する。物語のひとつひとつの瞬間は伝統的な物語話法の「重々しさ」を逃れてじぶんじしんにたいしてしか責任を負っていない。ひとつひとつの挿話、ひとつひとつのショットが終わりまで徹底的に「演じ」きられる。「無主題主義[アテマティスム]」もしくは「アンフォルメル」。物語の進行と語り手の声とは調和どころか「不調和」を奏でている。「声が映像を告発し、事物が言葉を告発する」。そこに謎が出現する。「かれが撮るのは語ることができないからだ。とはいえ撮ることができずにかれは新たに語らねばならない。この振り子の戯れ、たえまのない往復のさなかに、この戯れと往復が穿つ亀裂や空洞のただなかに、溶けた雪玉の真実、飲み込んだ毒の真実、気絶した詩人の真実、とはいわないまでも、その真実の不在と無という真実を書き込むために」。


「マックスが食い尽くす」
 同号掲載。マックス・ランデール上映会のレポート。舞台挨拶に立ったルネ・クレールが「またぞろ」チャップリンをディスった。「いくつかのギャグを盗まれたことをいまだに許せないのだろうが、もっと許せないのは『自由を我等に』で誰も笑わなかったその同じギャグが『モダンタイムス』では全世界を笑わせたことだ」。これにたいしクレールがリヴェット宛に送りつけてきた抗議の書簡とそれへの回答が掲載されている。
 同号にピエール・ブーレーズへのインタヴューも掲載。


スウェーデン対フランス:2対0」
 同4月号でブニュエルの『小間使いの日記』をめぐる討議に参加したあと、5月号に執筆された。スウェーデンが税制上の映画優遇措置を導入したことでフランスに差をつけた(前半戦)。国が『沈黙』にハサミを入れる方針を示したことでフランスは「後半戦」をも落とす。


「女性単数」
 同6月号でクロード・レヴィ=ストロースへのインタヴューを行なったあと、10月号に掲載されたマルコ・フェレーリ『猿女』評。「フェレーリは人の気をひくものや人を納得させるものを念入りに消し去り、感情移入を促すための伝統的ないっさいの作為を『厳格に』拒否し、じぶんが写しているものの(それはそれはまったく揺るぎのない)ロジックだけしか信じまいとしている」。とはいえ素材そのものがそのような中立性を拒否している。


「あらり」
 同1965年2月号掲載された短いメッセージ。パリじゅうのジャーナリストが『ゲアトルーズ』を八つ裂きにしようと発揮しているしつこさとたのしみは批評ではなく餌の分捕り合いにこそふさわしい。批評家とは犬なのか。そのとおりだ。


「パリでのロードショー公開作品」の短評
 1965年3月号から1969年10月号までのあいだに散発的に執筆されたレヴュー。批評家リヴェットの最後の文章はドキュメンタリー『神はパリを選んだ』評である。
 1965年12月号ではマルセル・パニョルおよびそのスタッフ、1968年2月号ではヴェラ・ヒティロヴァへのインタヴューに、68年5月にはラングロワ事件の記者会見に参加。1969年11月号でジャン・ナルボニとともにマルグリット・デュラスへのインタヴューを行なったのを最後に「カイエ」を去る。



ジャック・リヴェットの映画批評集成(その7)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.


「腹に魂を」
 「カイエ・デュ・シネマ」1958年6月号掲載の『夏の遊び』評。「批評は概してさまざまな外見の分析にすぎない。とはいえあらゆる偉大な映画作家の運動はまずもってさまざまな外見を問いに付すことであり、それを綜合によって飼いならすことではあるまいか」。「ローレンス・オリヴィエシェイクスピアをレパートリーの所与とみなすのにたいし、ウェルズはシェイクスピアを情熱たっぷりに尋問し、揺さぶり、八つ裂きにして、オリヴィエが想像さえしなかったひとつの謎をその口から吐き出させる」。シェーベルイの幼稚な反抗はシュルレアリスムの悠々自適のブルジョワ的反抗とえらぶところがないが、ベルマンは「みずからの反抗をも審問する」。ベルイマンの映画にいみがあるとすればそれは「問いかけ」ということである。それゆえベルイマンイプセンとか初期ストリンドベリとというより、『幽霊ソナタ』のストリンドベリもしくはベケットとこそ類縁性がある。
 映画作家には二つの精神的系譜がある。クレール、フェニーニ、ワイラー、タチという「分析」の系譜がひとつ。いまひとつはラング、ルノワールロッセリーニ、ウェルズという「綜合」の系譜。「フェリーニはおのれを開く」。ネオレアリズモ的な分離(scission)の運動をもっぱらとする。「ロッセリーニは拳のようにおのれを閉ざす」[『メキシコ万歳』論でもつかわれていた言い回し]。いっさいが一者に回帰する。綜合の運動は観念となるが、これは運動という観念である。
 ベルイマン映画のふるくさい道具立ては、「それじたいが別のものによって破壊されるがゆえに突如として新鮮になる」。「フレーミングへのこだわりがカメラのうごきによってたえずむいみになるように、あらゆる要素が映画作家省察にゆだねられる」。こうした要素の彼方にどのような問いが問われるのか。もっとも単純な問いである。「われわれはなにもので、どこへいき、この[人生という]喜劇のいみはなんなのか」。いわく「形而上学的な美」。「ベルイマンは行動よりも状態を撮る。恥辱、欲望、後悔。これらの状態にあるひとは、行為の時間によって破壊されるどころか、たえず新たに生まれ変わる。こうした状態を解消する充足、明察、傲慢によっても生まれ変わるのである。ベルイマンの主人公たちがこの悪循環から脱することができるのは冒瀆[不法侵入]もしくは見せかけによってだけだ。
 「ベルイマンバロックの罠を完全に逃れているのは肉体の感覚によってである」。より正確には「皮膚感覚」、表皮[うわっつら]の感覚。水、涙、化粧、汗がこの感覚を増幅する。クロースアップもこの目的のためだけにつかわれる。「カメラが寄れば寄るほど、それだけ曖昧さが剥き出しになり、それだけ外見は純粋な外見になる」。ベルイマンのライトは黄昏のそれだ。そこではいっさいがふたしかであり、容易に「諾」が「否」に、「否」が「諾」に反転する。とはいえ時間のサイクルから抜け出すことはできない。けれども主人公たちはじぶんじしんへの内閉[折り重なり]からかれらの意識の第二の運動を発見する。吐露[噴出]である。その根拠はじぶんじしんのうちにしかない。シュトロハイムにおけるように場面が嬉々としてとだえることなくつづき、いっさいの作劇上の必然性の限界をふみこえ、ただその持続だけによっておそるべき[すばらしい]ものとなる。この持続は反復[更新]でも変奏でもなくただのいみのないおしゃべり[反芻]だ」。「ショットはただその持続だけからその美とそのいみとをひきだす。この執拗さはいっこのモラルでもある。ある批評家は『夏の遊び』に存在への固執[persévérance]というスピノザ的大テーマをみてとる。肉体的な現前はそれだけでひとつの勝利なのだ。ベルイマンは事物や人間の密度と人物[形態、顔]の人工性との葛藤からこのテーマの教訓をひきだしている。この葛藤においては後者がつねに現実の重みにたえかねて降参するのだ。形而上学的な美とはまずもって存在論的な美である」。
 シムノンのばあいどうよう、ベルイマンの一本の作品はかれの別の作品に照らしてはじめていみをもつ。「シムノンの小説もベルイマンの映画もそのきわめて厚顔無恥かつ執拗な告白を倫理の水準にまで高めている。倫理とはすなわち作品の倫理、いいかえれば美学である」。「シムノンのモラルは泥にはまりこんだ人のそれである。ベルイマンのモラルは水に溺れた人のそれである」。「苦悩のはんたいがわにある至福をこそことほぎたまえ」(『歓喜に向って』)。「いっぽんの映画の理想的な批評とはその映画がもとづいているさまざまな問いの綜合にほかならない。つまり映画と並走する[=もぐりの]もういっぽんの映画であり、言葉の世界のなかへの映画の屈折である」。それゆえ「『夏の遊び』の唯一の批評は『第七の封印』と題される。いっぽんの映画の真の批評はもういっぽんの映画にほかならない」。
 リヴェットらしい明晰な名文。映画作家を二系統に分類するのはトリュフォーゴダールの十八番。ベルイマンのみならずリヴェットじしんまたシュトロイム直系の映画作家であることはいうまでもない。


「『夜の放蕩者』:いかがわしいがらくた」
 「アール」5月28日ー6月3日号。「圧延機」はハリウッドの専売特許ではない。「ルーティンワーカーの最たる者らにとってあらゆるかたちの意外性は天敵なのだ」。最悪なのは台詞のオーディアールで、あらゆる職業・社会階層の登場人物に同じことばをしゃべらせている。こんなリアリティのない登場人物たちは信用できない。脚本や演出以前の問題だ。


「アントワーヌの方へ」
 『パリはわれらのもの』撮影のため一年のブランクを挟んで1959年4月号にフェレドゥーン・オヴェイダと共同でのロッセリーニへのインタヴューで「カイエ」に復帰したあと、同5月号に発表された『大人は判ってくれない』評。
 トリュフォーは「じぶんのことを語りつつ、われわれのことをも語ってくれている」。このいみでトリュフォーは古典主義者だ。古典主義とは「描く対象だけに視界を限定しつつ、突如としてその対象のまわりに潜在的な世界の広大なひろがりを見せてくれるもの」だから。しかも自伝でありながらちょくせつじぶんを語らず、アントワーヌという「客観的な兄弟」を創り出し、おのれを虚しくしてこの人物を冷静に観察している。このいみでトリュフォーはフラハティの弟子である。
 インタビューの場面においては「映画がテレビを再発明し、テレビが映画を聖別化する」。
 エンディングについて。「はじまったときにはすでに時間は刻まれはじめていて、その加速と仮借のない経過によって映画はすでにひそかに傷ついている。幕切れは巧妙に組み立てられた物語の恣意的な結論などではなく、現実の時間のなかに一歩を踏み出すべく息をととのえるための踊り場にすぎない」。
 「『大人は判ってくれない』は簡素さの勝利だ」。映画が徐々に見失ってきた「眼差しの純粋さ」「カメラの無垢」がまだ残っていたのだ。カメラが捉えた世界がそのままのかたちで存在するという現代人が失ってしまった信頼がここにはまだある。映画の内部から外の世界へと目を開いていくというルノワールの辿った道筋をトリュフォーもまた辿る。
 「トリュフォーが残酷さを描くときのとてつもない優しさは、狂気を描くときのフランジュの甘美さもかくや」。いずれも省略という方法から大きな力を得ている。さらに「雄弁と絶叫と説明を拒否することによって、内なる鼓動とふるえをここぞという瞬間に刃のように鋭くひらめかせることができている」。ヴィゴ、ロッセリーニの名が想起させられる。
 トリュフォーとは長いつきあいのリヴェットであったが、会えば映画の話ばかりしていたのでお互いのことをよく知らなかった(「それで十分だった」)。かれが盟友の人生を知ったのもやはり映画をとおしてであったわけだ。


「国民の解剖」
 同7月号で『二十四時間の情事』をめぐる討議に参加したあと、11月号に掲載されたマーク・ロブソンアメリカの戦慄』評。ブレヒト流の「冷静な明察」があるが、リチャード・ブルックスの「客観性」には及ばない。


「まといつく死」
 同号掲載の『オルフェの遺言』評。現在のフランス映画に欠けているのは詩だ。それゆえ詩人の映画が不可欠である。詩とは何か。「ゆたかさへと向きをかえたまずしさ、舞踏と化した跛行だ。詩人はまずもって簡素さ、リアリズムを再発明しなければならない。コクトーはドキュメンタリーを再発明する。フリッツ・ラングに学んだフランジュがフィックスショットを再発明しているように」。『双頭の鷲』いらい詩人=映画作家となっていたコクトーがいまいちど『詩人の血』の映画作家=詩人に戻って「自画像ならざる薔薇」を描こうと試みるも成功していない。「不条理にひとつの意味をもたらそうとする人間の絶望的な努力がレイ、溝口、ムルナウの映画を貫いている。コクトーとフランジュは不条理を壁際まで追い詰めようとするが、その背後に人間を再発見してしまう。この映画はすぐにも死ぬことがわかっているが死を真剣に考えたいとおもいつつそれができないでいる人の映画であるがゆえに美しい。不条理と恩寵は同じ硬貨の裏表であり、詩人が夜のなかに投げたそれがわれわれの闇のなかに落ちてくるのだ」。
 タイトルは『北北西に進路を取れ』の仏訳。


「芸術と試み」
 同号掲載。フランス芸術映画協会(AFCAE)が選定した上映推奨作品リストの批判。『バレン』(レイ)、『抵抗する勇士』(ガーネット)、『クレオパトラ』(コッタファーヴィ)、『我が心に君深く』(ドーネン)の低い位置づけを疑問視している。
 このあと1961年1月号でアレクサンドル・アストリュックへのインタヴューを行なっている。


「おぞましさについて」
 同6月号掲載のジッロ・ポンテコルヴォ『ゼロ地帯』評。強制収容所の映画において「絶対的なリアリズム」は不可能だ。「スペクタクル」化は覗き見主義かポルノグラフィーにひとしい。『夜と霧』は強制収容所という現実を「理解することも認めることも受け入れることができない聡明な自覚」に基づいて、アーカイブ映像のインパクトに訴えなかった。どんなものにも人は慣れてしまうから。とはいえ『夜と霧』に慣れてしまうことはない。「映画作家がじぶんの見せるているものを裁き、それを見せるやりかたによって裁かれているからだ」。「トラヴェリングはモラルの問題だ」というムーレ=ゴダールの言葉は「形式主義」ではなくポーランがそれに対置した「テロリズム」だ。映画は「言語」ではない。[映画は道具ではない。もしくは映画を形式の問題に還元できない。]「映画を撮ることはなんらかの事物を見せることであり、同時に、そして同じこの行為によって、なんらかの方法で見せることだ。この二つの行為は厳密に不可分のかんけいにある」。形式主義者には後者[つまり映画作家の主体性ひいては責任]の自覚がない。
 『メキシコ万歳』論、『夏の遊び』論で提示された「綜合」という概念が倫理的な文脈でいま一度言及される。


「汚れ落とし」
 同9月号掲載のアーヴィン・カーシュナー『ザ・フッドラム・プリースト』評。脚本は「サイテー」(dégueulasse)で、出てくる人物は道で会うのもごめんこおむりたいヤツらばかりだが、街路、寝室、監獄、裁判所といった舞台装置のリアリティは最近のアメリカ映画ではお目にかかれないもの。映像、アングル、編集の飾り気のなさ。「漠然としているがたしかな魅力」のある小品。
 同号にはアラン・レネアラン・ロブ=グリエへのインタヴューも掲載、12月号では批評をめぐる討議に参加している。


「現在の芸術」
 同1962年6月号掲載の『草原の輝き』評。『草原の輝き』の主題は時間だ。時間の作用による腐敗と変容だ。これまでのカザンの映画になかったようなショットの瑞々しい輝かしさは、ひとつひとつの瞬間の「かけがえのなさ」を際立たせることでその変容をいっそう残酷に見せるためだ。「ひとつひとつのショットがそれ固有の真理のうえに閉じられている。24分の1秒の芸術である映画いがいのどんな芸術が同一性という観念の絶対的な批判という本作の主題にこれほどの説得力をもたせることができるだろうか」[『小さな兵隊』のれいの警句を踏まえている?]。ひとつひとつの瞬間がそれだけで完結した全体であるからこそ、時間の流れのなかで人間も世界も同一のままではありえない(ここには「進歩」への希望も含まれている)。「時間についてのすべての映画と同じく、何度も見る必要のある映画。いっさいの説教なしに事実だけを差し出してその意味や教訓に頓着しない。『草原の輝き』は進行する映画だ。すなわち冒頭のショットと幕切れのショットとのあいだに世界が動いてしまうのだ。こういう映画はめったにない。アンチ『裸の島』。あらゆる偉大な映画はクロニクル[クロノス的]だ。そしてこの映画ではあらゆる劇的な進行が純粋な時間的継起にとって代わられている」。「この映画では断片が不可避的にひとつの全体の印となっている。セリーの細胞がそのうちに作品のあらゆる可能なかたちを含んでいる」。いわく本作によって「無調の映画」への決定的な一歩が踏み出された。
 くだんのエイゼンシュテインベルイマン的「綜合」の概念がふかめられている。『夏の遊び』論で指摘されていた「水」の主題(河、ダム、滝)がここでもとりあげられる。「[水は]自然の力の抵抗不可能な流れであるのみならず、あらゆる見かけの勝ち誇った流動でもある。『見ろ、なにも変わっちゃいない』とバッドの父は叫ぶ。まったくちがう。同じではない。同じではありえない。そしてあらゆる存在はかけがえがない」。


「162人のフランスの新鋭映画作家
 同12月号「ヌーヴェル・ヴァーグ特集」のために編まれた小事典に無記名で執筆。アルジェリア闘争に取材した匿名のドキュメンタリー『パリの十月』(1962年)のシノプシス。「われわれの時代の歴史にとって重要なドキュメント」。


「興行的失敗についての覚書」
 同1963年5月号掲載の『ジャンヌ・ダルク裁判』考。「カイエ」は興行的・批評的大失敗をこおむった『ジャンヌ・ダルク裁判』を擁護する論陣を張った。
 『スリ』と『ジャンヌ・ダルク裁判』は「エントロピーを極限まで低下させた」「純粋な情報」だ。「観衆とのもっともダイレクトなコミュニケーションをこれほどまでに絶対的に押し進めた映画作家はかつて存在しない」。ブニュエルロッセリーニの映画もこれにくらべれば「レトリック」にすぎない。『ジャンヌ・ダルク裁判』は「潜在的にはもっとも『大衆的』な映画だ」。ところが観衆の好みは「レトリック」や「エントロピー」のほうにあった。だから「純粋なエントロピー」である『いぬ』はヒットした。使い古されたシネフィル的な記号だけからなる「シネフィル[だけ]のためのパブロフの犬的な映画」。とはいえ映画の目的はコミュニケーションであろうか。現実の世界は「かなり混乱したサラダ[ごたまぜ]」であり、「エントロピー」の塊である。芸術はそういうありのままの現実を描くためのものなのか、もしくはそういう現実を交通整理するためのものなのか。『ジャンヌ・ダルク裁判』のブレッソンに匹敵しうるのはブラックかフォートリエ、もしくはウェーベルンだけだ。「ブレッソンが純白のスクリーンを目指しているのだとしても、それはもはやなにも言わないためではなく、すべてを言うためである。もしくはすくなくともたったひとつのことを絶対的に言うためである[『悲しみよこんにちは』論参照]。たったひとつの単語ではあろうが、あまりにも完全に言われるので、それはあらゆるものの意味となり記号となるのだ」。


「映画と新音楽」
 同7月号掲載の『マホルカ=ムフ』評。「戦後ドイツの最初の作家の[ささやかな]映画」。作者の野心は「『キャラクター』を撮る」こと。すなわち「ひとりの人物の性格の外側からの描写」。リヴェットによれば、この試みは「高い密度と[映画のさまざまな要素の]内的諸関係の均衡をともなって完璧に完遂された」。いろいろな音楽的比喩が思い浮かぶが、本職の音楽家に発言を委ねよう、としてシュトックハウゼンがストローブに宛てた長い書簡が全文引用される。



ジャック・リヴェットの映画批評集成(その6)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.


「手」
 「カイエ・デュ・シネマ」1957年11月号掲載の『条理なき疑いの彼方に』評。かつての筋骨隆々できびきびしたスタイルに比べると骸骨どうぜんでぎこちないスタイルに変貌したラングの新作への驚きと、この作品が『ストロンボリ』『イタリア旅行』『奇跡』『間違えられた男』『抵抗』といった「最近のあらゆる偉大な映画」と“どんでん返し”という趣向を共有していることの発見とを結びつけた野心的な論考であるが、ヘーゲル哲学を参照してそこにはたらいているなんらかの弁証法的な契機を見定めようとするその思弁はときに錯綜をきわめ、リヴェットのもっとも晦渋なテクストのひとつになっている。
 リヴェットによれば、『条理なき疑いの彼方に』においては「場面の破壊」がある。「どの場面も場面そのものとして扱われてはおらず、純然たる瞬間の継起」「具体性を欠いたたんなる時空間的な目印」に還元される。くわえて「登場人物の破壊」がある。「登場人物たちはあらゆる個人的な価値を喪失し、もはや人間という概念にすぎないものとなっている。とはいえ結果としてかれらは個性を欠いているぶんだけ人間的なのである」。「ラングは概念の映画作家だ。それがいみするのは抽象化でも様式化でもなく必然ということである(必然はみずからの現実性を失うことなしにみずからに矛盾することができなければならない)。とはいえそれはたとえば映画作家の必然といったような外的な必然ではなく概念の運動そのものから生まれる必然である。観者はもはや登場人物の思考や『動機[モビール]』だけでなく、現象のさまざまな外見だけを出発点として<内面>のこのような運動そのものを引き受けなければならない。その現象の矛盾したもろもろの瞬間[契機]を概念に変容させることができなければならない。つまるところこの映画は何なのか。寓話、譬え話、方程式、図式のいずれかであろうか?どれでもない。これはひとつの『経験』の純然たる描写である」。なお、翌月号のルノワール論には「経験」が「個別から一般へ」というベクトルによって定義されている。
 『条理なき疑いの彼方に』の主題は「裁きの虚しさ」に還元できない。映画の結末はむしろ「あらゆる人間がつみびとである」というテーゼに導く(それゆえ「偽りの有罪者」[『間違えられた男』の仏題]というヒッチコック的観念は退けられる)。ここでわれわれは「無常の世界」に入り込む。そこでは「いっさいが恩寵を否定し、罪悪と刑罰が手のほどこしようもないくらいに結びつき、創造者に可能な唯一の態度は『絶対的な軽蔑』である。とはいえそのような態度をとりつづけることはむずかしい。寛容さがその実行の不可避的な敗北、怨恨、苦渋という危険にさらされているのにたいして、軽蔑は嬉しい驚きに出会うことしかありえず、最終的につぎのことに気づくのである。人間はまったく軽蔑に値しないということではなく(人間はあいかわらず軽蔑すべきものだ)、おそらく人間はそう考えられていたほどには軽蔑すべきものではないということに」。われわれはここでその「彼方」にある「真理の段階」に立ちいたる……。
 『条理なき疑いの彼方に』とそれ以前のラングは対立していない。『激怒』や『暗黒街の弾痕』では無実の人が有罪の見かけをしているのにたいし、『条理なき疑いの彼方』では有罪者が無実の見かけをしているだけだ。「見かけの彼方で有罪および無罪とは何なのか」。[つまり、見かけをとりのぞいてしまったところではすでに有罪とか無罪という観念そのものがいみをなさない。ことほどさように罪の観念は相対的であるということだろう。有罪と無罪はもともとメヴィウスの輪のように繋がっているのであり、くだんの“どんでん返し”はその表現であるというわけだ。]「それゆえひとりひとりがじぶんじしんのためにそのひとだけの真実を創り出さねばならない。それがどんなにありそうもないものであっても[仏題『ありそうもない真実』を踏まえる]」。
 ドゥルーズがラングにみてとる「偽なるものの権能」の概念を先駆ける。


「1957年トゥール。サスペンスなき映画祭。最高賞はアンリ・グリュエルの『モナリザ』に」
 「アール」11月27日-12月3日号掲載の短編映画祭のレポート。リヴェットはこの前年、同映画祭に『王手飛車取り』を出品していた。論の終盤、マクラレン『いたずら椅子』の「根っからのチャップリン的な精神」への好意的な一瞥につづけて、知性優位の映画祭にあってその肉感性において異彩を放っていたトリュフォーの『あこがれ』への賛辞が綴られる。「紋切り型のコーティングをすっかり取り払った幼年時代。スクリーン上の子供たちの顔はほとんどいつでもこうしたコーティングによって醜く歪んでいるのだが」。ヴィゴと[初期]ルノワールの教訓がみてとられる。いわく「自由と独立不覊の精神。じぶんじしんが課す規則いがいのいっさいの規則を受け入れないこと、および美学をつねにモラルの問題にしていること」。五人の「ガキ」[原題 Mistons]が若者のカップルとのあいだで演じているようなかくれんぼをトリュフォーじしんが登場人物および主題とのあいだで演じている。「絶妙のタイミングでつかまえてみせるのだが、相手のゲームの規則を踏みにじることはけっしてしない」。
 リヴェットにしてはめずらしい甘美なタッチ。むしろトリュフォーじしんの文章を彷彿とさせる。

ジャン・ルノワールの人と作品」
 「カイエ・デュ・シネマ」のクリスマス増刊号「ジャン・ルノワール」のためにバザン以下8人の同人が作成したバイオ=フィルモグラフィーの一部。バザン『ジャン・ルノワール』(邦訳フィルムアート社)に再録。なお、同号ではトリュフォーとともにふたたびルノワールへのインタヴューを行なっている。

『騎馬試合』
 「作者唯一の二元論的な映画なるも、悪役の描写にもいくぶんかの同情がこもっている」。歴史を「現在形で」描く試みは『ラ・マルセイエーズ』に十年先駆ける。「ルノワールは決闘の帰結までみとどけることをおそれない」。「真実の瞬間に仮面が剥がれる」。

『ブレッド』
 「全篇アレグレットで進行するなかにいくつかのもっと荘重な音がときどき滑り込むが、ハーモニーを乱すことがない」。

赤ずきん
 「マック・セネットふうの追いかけっこが牧神の世界と混じり合う」。

『トスカ』
 「『トスカ』は現実主義的なオペラであることをやめる。現実がオペラになる」。

浜辺の女
 「悲劇がなんらかの運命の仮借ない進行からではなく、ぎゃくに固定化と不動性から生まれている」点で、みかけとちがって反ラング的な映画。「三人の人物のいずれもがおのれじしんとおのれの欲望のみせかけのイメージにとらわれている」。「いまやルノワールは事実だけを順々に差し出す。そして美がここでは妥協のなさから生まれる。行為の剥き出しの継起いがいにはなにひとつない。ひとつひとつのショットがおのおの出来事となる」。いわく「純粋映画」。

『河』
 「あらゆる偉大な映画は経験の物語だ。つまり個別的なものから一般的なものへと進む。諸々の矛盾なるものをひとつの特殊な葛藤に帰してそこにはまりこませるのではなく、その物語は個人の運命をすぐには手放さず、その運命をもっともはげしい発作の状態にまで押し進める。新たな顔相[figure]があらわれたかとおもうやすぐさま新たな世界に向かって目を開く」。『河』はじぶんじしんを厳密に鏡に映した[反省した]映画の唯一の例である」。そこでは物語上の所与と社会学的描写と形而上学的な諸主題が呼応しあうのみならずあらゆる点で交換可能である」。「隠喩に富むこの作品はつまるところ隠喩そのものを、もしくは絶対的な知識を主題にしている」。

フレンチ・カンカン』。
 「あらゆる身体的な快楽へのこの頌歌の偉大さはまずもってとてつもなく時代遅れであることだ。しかしこの時代遅れは前向きかつ闘争的である」。「あらゆる偉大な映画には恥知らずなところがある」。「センシュアルなものとスピリチュアルなもの、『フレンチ・カンカン』と『黄金の馬車』を切り離すなと教える汎神論。それは苦渋をともなう。とはいえ快楽もまた陽気ではない。かたわれでしかないのにそれじたいの動きによってあたかも<全体>であるかのような幻影を生み出そうとする」。


エイゼンシュテイン万歳」
 同1958年1月号掲載の『メキシコ万歳』評。エイゼンシュテインは「本質的に綜合的な映画作家」であり、そのショットはそれじたいでひとつの全体たることを志向する(「ひとつひとつのショットは拳のようにおのれじしんのなかに閉じる」)。ショットどうしを近づける力は撮影される現実の論理によってではなく、「観念」の論理に依存する。「ショットはショットに対立させられることによってこの対立を破壊するものをよりいっそう肯定し、あらゆるショットを組み立てる媒介にいっそう大きな権限を委ね、この媒介を映画の唯一の真の主題にする。そしてひと塊りの現実と人間の観念との闘争のなかで精神の勝利をより輝かしいものにする。とはいえ重要なのが近づけられた二つのショットではなくてそれらを近づける観念であるとしても、この観念はひきつづき二つのショットの内部に回帰し、結びついて固有の運動となって、至るところに世界の魂を再発見する。この魂は個々の断片の魂のなかに宿っている」(?)。『メキシコ万歳』は「編集不可能」であり、ショットを描写ないし物語の分析的断片とみなして編集版を制作したマリー・シートンは間違っており、ラッシュのまま上映したジェイ・レダのほうが正しい。


「ロッテ・アイスナーの記事『二つのノスフェラトゥの謎』へのあとがき(2)」
 同号所収。アイスナーの記事はシネマテークで上映された『ノスフェラトゥ』の二つのヴァージョンの比較を内容としており、ロメールが「あとがき(1)」を付けている。アイスナーの記事には『愚かなる妻』のヴァージョン違いにも簡略に触れられていて、その詳細をリヴェットが補っている。「アメリカ版も才能豊かな映画作家の作品であるが、イタリア版だけが天才的なクリエーターの作品だ」。


「こちらから見たミゾグシ」
 同3月号掲載。溝口の映画は「演出」という共通言語で物語られている。この言語を溝口ほどに純粋化した者は西洋には例外的にしか存在しない。「溝口がわれわれの気を引くとすれば、それはかれがわれわれの気を引こうとしていないからだ」。「日本の伝統的なレパートリーだけを映画化している唯一の日本人映画作家であるようにおもわれる溝口は、真の普遍性すなわち個人という普遍性を自認し得る唯一の日本人映画作家でもある」。溝口の世界は「とりかえしのつかないもの」の世界である。溝口における運命は「屈服による甘受ではなく、和解への道である。いっさいが永遠の現在という純粋な時間のなかで生じる。いっさいがさまざまな観点からみたはかない現象を克服した者のこころしずかな喜びのなかで終わりを迎える。唯一のサスペンスはなにほどかの忘我の境地へと上昇していく留めがたいベクトルであるが、それは究極的な音色の『照応』、終わりのない微細な和音のそれであり、それは完結することがなく、音楽家の呼吸とともに息づく。いっさいが調和して中心的な場所の探求へと向かうのだが、そこでは外見が、そして『自然』(もしくは羞恥あるいは死)と呼ばれているものが人間と和解する。これはドイツ・ロマン派、リルケ、エリオットにもつうじる探求であり、カメラによる探求でもある。そのカメラはつねに正確な地点にセットされ、ほんのわずかな移動が全空間の配置を変え、世界と神々の密かな顔を一変させる」。いわく「転調の技法」。

 同じ号に「溝口レトロスペクティヴ」のレビューが掲載されている。

『浪華悲歌』
 イマジナリーラインとの戯れ方はラング、オフュルスもかくや。

『武蔵野夫人』
 溝口は作品ごとにショットの色調を変える。『武蔵野夫人』は前作(『雪夫人絵図』)よりも輝きとツヤがなく、より曖昧なグレーの領域を活用している。「被写体のミクロン単位の距離、ヒロインのどれほど低いためいきにも、どれほど小さな心変わりにも反応する」精密なカメラ。


「聖女セシル」
 同4月号掲載の『悲しみよこんにちは』評。プレミンジャーの「職人的知性」は、「素材の善し悪しを正しく見抜くが、月並みな素材をいつも退けるわけではなく、その月並みさの使い道をわきまえたうえで使う術も知っている」。「完璧さを避ける」ことがプレミンジャーの「秘術」だ。「ストーリーラインには忠実であることを条件にすべてを一から創り変えること。新しさと発見と若さとを、そのようなものを欠いている素材に取り戻させてやること」。「演出の技法は絶妙の配置(mise en place)ないしタイミング(mise en temps)だ」。配置とタイミングしだいで「すべてが恩寵」(ベルナノス)になりうるということのようだ。「プレミンジャーは出来の悪い文学の偽りを偉大な映画の真理にとって代える。その真理とは『直線』の技法である」。「『悲しみよこんにちは』のあらゆるショットにはっきりとみてとれる創意はまずもってあるしゅの『短縮』の才覚である」。プレミンジャーは原作小説が覆い隠しているものをストレートに見せる。プレミンジャーがオフュルス、溝口、アストリュックとともに体現する新たな「純粋映画」の定義は「それによって被写体が破壊されるどころかそのあらゆる顔を露わにし、重ね合わせるような鏡の作用」というもの。「ピカソが絵画において到達した地点へとわれわれの技法を高めること」。キュビスム、もしくはドゥルーズ的な「結晶イマージュ」であろうか。そしてそれは「ひとつの絶対的なもののためにすべてを犠牲にすること」なのだとされる。これはプレミンジャー流の「不完全性[未完成]の美点」と矛盾しないらしい。


「グッドバイ」
 同5月号掲載の『サヨナラ』評。「カイエ」が一時期もてはやしていたジョシュア・ローガンにたいして引導が渡される。「『ピクニック』『バス停留所』のいずれにおいてもローガンはたんなる現場の芸術監督、つまりハリウッド的ないみにおける“director”にすぎなかったのであり、われわれが少々早とちりして期待をかけたような『作家』ではなかったのだ」。「サヨナラ、ミスター・ローガン」。



ジャック・リヴェットの映画批評集成(その5)

* Jacques Rivette : Textes critiques, édition établie par Miguel Armas et Luc Chessel, Post-éditions, 2018.


「アジェジラスの後に(演出)」
 「カイエ・デュ・シネマ」1955年12月号掲載の『ピラミッド』評。作家主義の別名であるヒッチコック=ホークス主義が名前を戴くヒッチコックは評価が進んでいるが、いっぽうのホークスはというといまだに「呪われた映画作家」たりつづけている。とはいえヒッチコックについても脚本のレベルでの批評が大多数で、「映画の本質、つまりスクリーンに映っているもの」言い換えれば「演出」はないがしろにされている。なぜか?「音楽愛好家のおおくが室内楽よりも交響曲交響詩をこのむのとおなじく、映画の愛好家は映画作家のわざ[art]よりもそれをとりまき、それをおおいかくし、それを飾り立てる外見的なことに反応するからだ」。ホークスの新作についても、古代史スペクタクル映画(「ハリウッドで最悪のジャンル」)という「外見」に惑わされる危険にみちている。ましてやジャンルのルールにさからうことをせず、そのルールにできるかぎり忠実にしたがうことで、いまや形骸化してしまったそのジャンルがもともともっていた存在意義[nécessité]を再発見するという行き方をホークスは常としている(この見解はロメールに負っている)。こうしたいみでの伝統への忠実さに「個人的な主題」を織り込んで撮られているのがホークス映画のとくちょうだ。感傷や説教に堕してしまうのがおきまりの古代史スペクタクルという枠組みのなかで「神=専制君主および人間の天才が挑んだもっとも壮大な事業のはじまり」という例外的な主題を扱う『ピラミッド』は「デミル式の罠」を逃れている。それを可能にしたのは西部劇への参照である(ちょうど『大いなる蒼空』が古代史劇を参照しているのと対をなす)。『赤い河』との類似が指摘される。どんなジャンルであれ、ホークスの主人公は「高貴さ、大胆不敵さ、機転、知性」といった古典的(「コルネーユ的」)美徳をそなえている。コルネーユとのアナロジーはときとして喜劇をも手がける偉大な悲劇作家というとくちょうによっても裏付けられる。


「ある革命についての覚書」
 同11月号の特集「アメリカ映画の現状」に寄せた記事。
 「ふたつのアメリカ映画が存在する。ハリウッドのアメリカ映画とハリウッドのアメリカ映画だ」。二つのハリウッドがある。「数字」のハリウッドと「個人」のハリウッドだ。アメリカ映画の第一の時代は俳優の時代であり、第二の時代は製作者の時代であった。そしていまや「作家」の時代が到来した。先陣を切るのはレイ、ブルックス、マン、アルドリッチの四人。そのあとにはウルマー、ロージー、フライシャー、フラー、さらに予備軍として[結局大成しなかった]ジョシュア・ローガン、ガード・オズワルド、ドン・タラダッシュも控える。四人はともに若さの美徳をそなえている。その最たるものは「暴力」だ。これは心の奥底から発する「男性的な怒り」であり、脚本や素材にではなく物語話法のトーンや演出の技術においてあらわれる。暴力は目的ではない。もっとも有効な手段である。「慣習の残骸を吹き飛ばし、突破口をひらき、最短距離を確保するためのダイナマイトだ」。そしてありきたりのデクパージュを拒否する「非連続的で不調和なテクニック」。そしてコクトーのいう「尊大な不器用さ」。かれらはみな「エゴセントリックな演出家」というありかたを最初に認めさせたオーソン・ウェルズの息子である(「ウェルズ的クーデタ」)。マンキウィツ、ダッシン、プレミンジャーがこれにつづいた。暴力は単独では生き残れない。「省察」がいまひとつの極となる。暴力が切り開いた政治的空位において英雄たちはみずからの運命を問い、深めるのだ。かれらの映画に挿入される長い空白や後戻りはそのためにある。かくして効率性と観想の弁証法が演出の原理となる。あらゆる革命がそうであるように、この革命は各人が内に秘めた野心の共通性によってではなく各人が反抗する敵の共通性によって四人を集結させた。四人がともども現代的な映画を撮る意志をもっていることだけで結集の口実たりえた。四人はそれぞれ別々のやりかたで現代世界の見取り図を提示している。ニコラス・レイは四人のうちでもっとも謎めき[secret]もっとも偉大で生まれながらの詩人である。黄昏、孤独、人間関係の困難への強迫観念がその全作品を貫く。怯懦と怖れからの人間性の奪回を説くブルックス、努力の価値を顕揚するマンはともどもホークスの末裔である。アルドリッチは退廃した世界の明晰で叙情的な描写によって正確な不協和音を鳴らすことで四人の調和を完成する。ほかの三人の伝統的なモラルにたいしてかれは否定的なモラルを提示するがじつは「帰謬法によって」前者を諾っている。この「革命」は工場製規格品への長きにわたる従属を脱してグリフィスとトライアングル社の伝統と手を結ぶ。ウォルシュ、ヴィダー、ドワン、ホークスらがその樹液によってこの革命をひそかに育みつづけてきたのである。四人組の映画をとくちょうづけるあるしゅの身振りの豊かさとストレートな感情の表出はかれら先人の叙情とメロドラマが準備していた。ことほどさように「素朴さ」(しかり四人は素朴派である)は「洞察」の同義語であり、ともどもハリウッドの職業的脚本家らの狡猾さの対極にある。かれらの送ってくる息吹はロッセリーニによる革新と手を結ぶ。
 同号にはトリュフォーと共同でのマックス・オフュルスへのインタヴューも掲載。


ロバート・ワイズの『へレンのトロイ』」
 「アール」2月8日ー14日号掲載。本家ホメロスお家芸でありホークスの『ピラミッド』にもあった「親しみのあるものと偉大さの混交」は、本作においては安易な下品さととりすました味気なさとの野合におわっている。


シネマテークで毎晩開催中:ドイツ映画の黄金時代」
 同2月15日ー21日号掲載。「ドイツ表現主義はそのぜんたいが演出についてのひとつの形而上学に基づいており、そこでは倫理と美学が不可分である。映画的創造の中心にある根本問題がはじめて正面から問われると同時にほぼ完全に解決された」。絵画史でいうならクワトロチェントに相当するムーヴメントだ。


フリッツ・ラングの『ニーベルンゲン』」
 「カイエ・デュ・シネマ」1956年3月号掲載。「ラングが真に天才的な映画作家になったのは『クリームヒルトの復讐』によってである」。


フリッツ・ラングの『月世界の女』」
 同号掲載。『月世界の女』が『ファウスト』『サンライズ』と並ぶ表現主義的探求の総決算的作品と位置づけられる。


フェデリコ・フェリーニの『崖』」
 「アール」2月29日ー3月6日号掲載。小説的伝統の遺産を型にはまった脚本で置き換えようとする「映画界の新傾向」があるが、『崖』のフェリーニは小説家のように仕事をしている。たとえば二部構成とか新たな人物の登場のさせ方など。「この映画はそれがじっさいに見せているものによってよりも、たんに前提しているものによって、また、じっさいに使っている気の利いたアイディアよりも、安易なアイディアの使用を拒否していることによって、観る者の胸を打つようにおもわれる。これは描写の才能というよりも暗示の才能の証拠であり、この点で師のロッセリーニとは対照的である」。リスクのある主題であるがその罠を前作『道』以上にうまく回避している。後半の悲劇的な美は型にはまった運命の表現にたよるのではなくもっぱら俳優の顔から生まれている。「純粋な仲介者[俳優 interprète]、魂を探し求めてさまようたんなる身体」と化したかのようなブロデリック・クロフォードは完璧なネオレアリズモ俳優である。「脚本と俳優が完全に融合している」。「議論の余地なく『崖』はフェリーニの代表作である」。


リチャード・フライシャーの『恐怖の土曜日』」
 同3月7ー13日号掲載。ユナニミスム(文学上のいっしゅの群像劇のムーヴメント)の通俗版であり、登場人物はどれも類型のきわみという大方の批評にたいして脚本家シドニー・ボームと監督フライシャーの「脚色の才能」に目を向けさせている。ほんのいくつかの台詞だけでキャラクターを息づかせ血をかよわせる台詞作家の技倆。場面移行の滑らかさは露も不自然さを感じさせず、思いがけないどころかこちらの期待を快く裏切ってくれて飽きさせない。フライシャーの演出の「流麗さ、そのつど別の場所で別の人物がたえまなく引き起こすありとあらゆる問題をいとも容易に片付けていく手腕、ほんのいくつかのショットでおもいもかけなかったドラマティックな状況をたちまちのうちに組み立ててみせる早業」。すべての登場人物に平等な重みがもたされ、全体がひとつのアンサンブルに溶け込んでいるが、かといってひとりひとりの輪郭がかすんでしまうということがない。それによってお気に入りの人物から関心のない人物へのたえざる往復によって観客が飽きてしまうということもない。ジャンルの約束事をリアリズム表現に巧妙に活用している。というわけで、群像劇のジャンルにつきもののあらゆる罠が回避されている。


「ジョゼフ・フォン・スタンバーグの『アナタハン』」
 同3月14日ー20日号。「『アナタハン』は映画の中の映画[Le Film]である(ケイコがすぐさま女性なるものの化身[La Femme]になるように)」。本作はスタンバーグの総決算的作品であり、三十年代の作品に潜在していた世界観と人間哲学が要約されている。情念と本能が運命の役割をはたし、その操り人形となる男たちを破滅に導くという根本的に悲観主義的な哲学である。スタンバーグじしんによるナレーションはたんなる事実の提示にとどまらず、こうした観点からのモラリスト的なコメントになっている。起こることがナレーションによってあらかじめ伝えられるので、観る者は永遠の[=超時間的な]観点からこの「人間的マグマ」を眺めることになる。半亡命者的な身分ゆえにそれまで表立って言えなかったことがはっきりと口にされている。ルノワールの『河』やムルナウの『タブウ』がそうであったように。エキゾチシズムはじぶんじしんを白日のもとにさらし、じぶんたちの経験をより古い文明の試練にかける手立てとなる。低予算という条件は夾雑物の排除を強いる。「魔法は簡潔な身振りから生まれることで効果を増す」。『アナタハン』は「最高の日本映画」でもある。
 『アナタハン』は「カイエ」同人のカノン的作品のひとつだが、わりと常識的なことしか書かれていない。リヴェットらしさが感じられない文章。


ロバート・シオドマクの『鼠』」
 同3月21ー27日号掲載。メロドラマにあっては登場人物は行為の果てまでつきすすみ、完結させられずにおわるものはなにひとつ含まれていない。『鼠』はメロドラマのこうした「力」を糧にしている。二十年間の亡命からドイツに帰還したシオドマクの新作には三十年代のドイツ映画への郷愁がみちており、当時のドイツ映画のスタイルに新たな息吹をあたえている。


エイゼンシュテインの事例」
 同3月28日ー4月5日号。ジャン・ミトリによる研究書の書評。「エイゼンシュテインの天才は本質的に造形的なそれである」。「造形的ということばのいみをもっとも高められた意味で理解しなければならない。すなわち幾何学的な強迫観念、遠近法の体系的な歪曲、身振りの増幅ないし様式化。これらの方法はたいていの映画作家にあっては気取りとか難題を覆い隠すものでしかないが、エイゼンシュテインにあってはもじどおり演出の『目的』なのだ。マルローを引くまでもなく形而上学の領分と表現の領分とを切り離すことは不可能だ。エイゼンシュテインの偉大さはまさにこの結合にある。映画作家のうちでももっとも形式主義的な人がもっとも聖性に取り憑かれた人でもあるのだ」。エイゼンシュテインにあっては「美学が神秘主義の代わりをしている。エイゼンシュテインの野心は秘教的なレベルにある」。「『大地』や『母』が数年間でその威光を完全に失ってしまったのはその作者が秘密[秘訣]をもっておらず、たんに技法しかもっていなかったからだ。エイゼンシュテインははんたいに秘密に賭けた」。「その秘密が何であるかはつまるところどうでもよい問題だ。エイゼンシュテインの秘密はムルナウルノワールのそれとはちがう。マラルメの秘密がバルザックのそれとはちがっていたように。重要なのは秘密が存在するということだ」。

 
ウィリアム・ワイラーの『必死の逃亡者』
 同号掲載。「『必死の逃亡者』はブルジョワ的な犯罪映画である。それゆえおぞましい(abjet)。なんとなれば矛盾しているから。この映画ではヒロイズムはもはや計算高さでしかなく、知性は下品な狡猾さでしかないのだ」。本作の「トーンの信じがたい仰々しさ」は<善>と<悪>の葛藤を表現しているのだと言われている。ところが善人の「スーパーポリス」は苦虫を噛み潰したような面相をしており、悪人のボガートはといえば「聡明な悲しみ」をたたえた眼差しをしている。「一言でいうならワイラーにとって善と悪の闘争はブルジョワ的な世間体とお行儀の悪さとの 対立に帰されるのだ」。『素晴らしき放浪者』から笑いを取り除いたような映画だ。 
 知られるように、abjet はのちの『ゼロ地帯』論のキーワード。


「ハンス・リヒターの『金で買える夢』」
 同号掲載。「読者は私がこの手の実験になんの熱狂も感じていないことを行間に読み取ってくれることだろう」。


アンドレ・ミシェルの『野生の誘惑』」
 同4月11日ー17日号掲載。「この『魔女』[原題]はわれわれをまったく魔法にかけてくれない」。マリナ・ブラディはその役柄に脚本には読みとれない一貫性と存在感をあたえて演技力を証明した。


「ハリーを火刑に処すべきか」
 「カイエ・デュ・シネマ」1956年2月号でジャック・ベッケルおよびトリュフォーと共同によるハワード・ホークスへのインタヴューを行なったあと、同誌4月号に掲載された『ハリーの災難』評。寓話という共通項によってヒッチコックカフカが結びつけられる。たとえば法廷への強迫観念。ヒッチコックには「秘密のセンス」(ポーラン)がある。ヒッチコック作品は二重底であり、秘密の底にもうひとつの秘密がある。『裏窓』以来の作品ではこのもうひとつの秘密がクローズアップされている。「この人物は善人か悪人か」という問いは「この世界は善か悪か」といういまひとつの問い(悪の全能性についてのそれ)にすぐさまとって代わられる。『ハリーの災難』においては典型的に人物の善悪が不明である。紅葉は世界の腐敗への暗示かもしれない。
 このあと同12月号にはシャルル・ビッチと共同でのジョシュア・ローガンへのインタヴューが掲載されている。


「英国人ども[Godons]を待ちながら」
 『王手飛車取り』撮影のため一年の休筆をはさんでの「カイエ」復帰(1957年7月号)となる『聖女ジャンヌ』評。「ジーン・セバーグはジャンヌではない。かのじょはジャンヌを演じているだけだ」。しかるに理想的な演技とは、いっさいの演劇的な道具だてが舞台上に“ジャンヌそのひと”を顕現させるための「仮面」として機能するようなそれではあるまいか。本作では[有名な撮影事故のおかげではからずも]それが実現している。セバーグが身に降りかかる火の粉を払いのけるただひとつのショットが本作でのかのじょの素人演技のいっさいを正当化する……。
 『聖女ジャンヌ』には文章の末尾で触れられているだけで、本論のほとんどは映画界の現状回顧に費やされている。アメリカ映画の「崩壊」にはフランス映画の悪影響も与っており、両者の「失墜」は連動している。ブレッソンヒッチコックの近作への皮肉たっぷりの言及があり、『大運河』のロジェ・ヴァディムおよび「もはや脚本をひつようとしないほど」アイディアが豊富なフランク・タシュリンへの賛辞が捧げられる。
 これに先立ち同5月号ではバザン、ドニオル=ヴァルクローズ、カスト、レーナルト、ロメールとのフランス映画をめぐる共同討議に参加し、つづく6月号にはトリュフォーとのマックス・オフュルスへのインタヴュー(およびフィルモグラフィー)が掲載されている。