ジョン・ブラウンからアンティゴネーへ:トランプの時代に読むソロー(その4)
2017/03/05
ジョン・ブラウンは奴隷制を認める政府を、神の名の下に破壊しようとしました。
絞首刑に処されたジョン・ブラウンの行為は、同じく縊死したもうひとりの反逆者の運命を思い起こさせます。
ギリシャ悲劇のヒロインで、オイディプスの娘であるアンティゴネーです。
反逆者である兄の遺体を葬ることを禁じた王クレオンの言いつけに背き、アンティゴネーは衆人環視のなかで兄の亡骸に砂をかけ、反逆罪で死刑を宣告されます。
生きながらにして岩屋に閉じこめられたアンティゴネーは、首を括って自殺します。
アンティゴネーの行為を“暴力”と言えるかどうかはわかりませんが、かのじょの行為には、ジョン・ブラウンの“神的暴力”につうじるところがあるとおもいます。
ヘーゲルの有名な解釈によれば、クレオンとアンティゴネーの対立は、国家の法と家族の法の対立、もしくは地上の法(ノモス)と神々の法(フュシス)の対立ということになります。
アンティゴネーは、人間の法は生きている人間だけに及ぼされるものにすぎず、死者を縛ることはできないと訴え、神々の法の名の下に法を侵犯します。
アンティゴネーの考えを敷衍すれば、人間の法は普遍的ではありません。それがより根本的なさだめに背いたとき、人間の法は破壊されなければなりません。
そのための手段が神的暴力です。
アンティゴネーの行為を神的暴力に帰すことはかならずしも根拠のないことではありません。
スラヴォイ・ジジェクは神的暴力の究極的な現れをフランス革命政府による恐怖政治において見てとっています。
独裁者ロベスピエールはもともと平和主義者であり、フランスを戦争に巻き込まないために恐怖政治を敷きました。
独裁は、人民をあやまった政府から守るという大義の下になされました。
ジジェクによれば、マルクス主義的な「プロレタリア独裁」の出発点がここにあります。
マルクスやレーニンが唱えたプロレタリア独裁は、国家から権力を奪い取るための過渡的な体制であり、最終的には人民に権力を委譲することでみずからは消滅しなければなりません。
『リバティ・ヴァランスを射った男』のジョン・ウェインのように、神的暴力をふるった者は消え去らねばならない運命なのです。
ところでジョージ・スタイナーによれば、アンティゴネーのリヴァイヴァルはフランス革命と軌を一にしています。
18世紀までのヨーロッパは、ギリシャ的な理想をホメロスのうちにみてきました。
18世紀末頃から、アッティカ悲劇がそれにとって代わります。そのなかでもアンティゴネーには特別な待遇があたえられました。
スタイナーによれば、その背景にあるのは、この時代に政治的なものと私的なものとの齟齬が前景化したことです。
その“悲劇的な”葛藤を当時のひとびとはギリシャ悲劇に重ねみていたというわけです。
ソローによれば、ジョン・ブラウンはその狂信的なまでの使命感によって「超自然的な存在」とおそれられていました。
いっぽうソフォクレスの『アンティゴネー』においては、合唱隊がヒロインのことを「非人間的」と歌う有名なくだりがあります。
ジョン・ブラウンもアンティゴネーも、神的な秩序にみずからを完全に委ねることによって、人間としての存在を捨て去っていたのだといえます。
いわばかれらは生きながらにしてすでに人間としての生を放棄していたのです。
アンティゴネーはじっさいに生きながら埋葬される罰を受けます。
ソローはジョン・ブラウンが“死ぬことのできた”数少ない人間のひとりであると述べています。
ジョン・ブラウンは死に方を知っていたからこそ、人間らしい生き方を知っていたのだと。
この場合の“死ぬ能力”とは、いうまでもなく生物学的な死とは別次元の死です。
ソローに言わせれば、生物学的な死とは「いつの間にかいなくなる」ことでしかありません。
ここでいう“死ぬ能力”とは、みずからの内なる絶対者のまえにおのれをどこまでも虚しくし、ついにはおのれの存在を抹消し去る覚悟のことであるといえましょう。
ソローはジョン・ブラウンの死刑を屈辱ではなく栄誉であるといわば言祝ぎました。
アンティゴネーも死刑判決に抵抗しませんでした(そのいみでは暴力というよりも無抵抗主義に近いかもしれません)。それどころかかのじょはみずから首を括って果てたのです。
じっさいラカンはアンティゴネーに「死の欲望」の純粋な現れをみてとっています。ここで問題にされているのは、生物学的な死とは別の「第二の死」のことです。
一頃はやった「生きさせろ」というコピーの代わりに「死なせろ」と訴えるべきときがきているのかもしれません(?)。