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精神分析と映画をめぐる読書案内

2015-01-01から1年間の記事一覧

『明晰な作品』:ジャン=クロード・ミルネールのラカン論(了)

*Jean-Claude MILNER : L'Œuvre claire, Seuil, 1995. 承前。『アンコール』におけるボロメオの結び目の導入の直後、ラカンは「無意識に影響されている個人とシニフィアンの主体とは同一」という「仮説」を提出している。「主体の方程式」においてはその峻…

『明晰な作品』:ジャン=クロード・ミルネールのラカン論(その4)

*Jean-Claude MILNER : L'Œuvre claire ; Lacan, la science, la philosophie, Seuil, 1995. 承前。言語が主体の代理(tenant-lieu)であることは、スターリンもヤコブソンも気づかなかったラカンのオリジナルである。ラカン的な構造主義の意義はここにある…

『明晰な作品』:ジャン=クロード・ミルネールのラカン論(その3)

*Jean-Claude MILNER : L'œuvre claire ; Lacan, la science, la philosophie, Seuil, 1995. 承前。ここでミルネールは一見コイレとは対極に位置するようにおもえるポパーを召喚し、コイレに対峙させる。ある命題は、その否定が単純な観察に論理的に矛盾し…

『明晰な作品』:ジャン=クロード・ミルネールのラカン論(その2)

*Jean-Claude MILNER : L'Œuvre claire ; Lacan, la science, la philosophie, Seuil, 1995. 承前。そのような科学の観念をラカンはコイレおよびコジェーヴに負っている。それは古代的エピステーメと現代(近代)科学との「切断」という観念に依拠している…

『明晰な作品』:ジャン=クロード・ミルネールのラカン論(その1)

*Jean-Claude MILNER : L'Œuvre claire, Seuil, 1995. わが国ではとりあえず『言語への愛』をものした言語学者としてしられているジャン=クロード・ミルネールは、数年前にアラン・バディウとの連続対談を刊行している(Controverse, Seuil, 2012)。同じ…

アラン・バディウのセミネール『ラカンの反哲学』(その8)

*Alain BADIOU : Le Séminaire ; Lacan l'antiphilosophie 3, 1994-1995, Fayard, 2013. 第7回(4月5日)および第8回講義(5月31日)。 分析的行為においても、行為を欺かないものにするための「束縛」がひつようである。内的な束縛の存在が行為を外的…

アラン・バディウのセミネール『ラカンの反哲学』(その7)

*Alain BADIOU : Le Séminaire ; Lacan l'antiphilosophie 3, 1994-1995, Fayard, 2013. 第六回講義(1995年3月15日)。反哲学に共通の三つの身振り。(1)哲学の解任。(2)哲学的操作の吟味。(3)哲学的ならざる行為の実践。 (1)について。哲学は…

アラン・バディウのセミネール『ラカンの反哲学』(その6)

*Alain BADIOU : Le Séminaire ; Lacan l'antiphilosophie 3, 1994-1995, Fayard, 2013. 第5回講義(1995年1月18日)。「現実界における想像的穴」につづいて、「想像界における象徴的穴」および「象徴界における現実的な穴」が考察される。 「想像界[言…

アラン・バディウのセミネール『ラカンの反哲学』(その5)

*Alain BADIOU : Le Séminaire ; Lacan l'antiphilosophie 3, 1994-1995. Fayard, 2013. 承前。ついで「水道管工事」つながりで、「形而上学は政治の穴をふさぐ」というテーゼの検討に移る。「政治の穴」は、ボロメオの結び目にそくして、想像界、象徴界、…

アラン・バディウのセミネール『ラカンの反哲学』(その4)

*Alain BADIOU : Le Séminaire ; Lacan l'antiphilosophie 3, 1994-1995. Fayard, 2013. 第四回講義(1995年1月11日)。反哲学は数学(プラトン)と対峙する。ニーチェ、ウィトゲンシュタインは数学を思想ではないと貶めた。しかるにラカンにとって、数学は…

アラン・バディウのセミネール『ラカンの反哲学』(その3)

*Alain BADIOU : Le Séminaire ; Lacan l'antiphilosophie 3, 1994-1995. Fayard, 2013. 第三回講義(1994年12月21日)。哲学が意味を真理と鏡像関係に置く(spéculatif 思弁的=鏡像的)のにたいし、反哲学は意味を真理の上位に置く(そこに序列の関係はな…

アラン・バディウのセミネール『ラカンの反哲学』(その2)

*Alain BADIOU : Le Séminaire ; Lacan l'antiphilosophie 3. 1994-1995, Fayard, 2013. (承前。)ラカンは『エクリ』ドイツ語版序において、「友人」ハイデガーに言及しつつ、「形而上学は政治の穴をふさぐ」という謎めいたテーゼを提出している。政治的…

アラン・バディウのセミネール『ラカンの反哲学』(その1)

*Alain BADIOU : Le Séminaire ; Lacan l’antiphilosophie 3 1994-1995, Fayard, 2013. アラン・バディウは1994〜95年にかけてラカンについてのセミネールを開いた。これは「反哲学」をテーマにしたシリーズの一環であり、それに先立つ年度においてバディウ…

セルジュ・ダネー評論集 La maison cinéma et le monde を読む(その14)

承前。レスリー・スティーヴンスの「Incubus」にはドキュメンタリー的な価値は皆無だが、そのことを逆手にとれれば斬新で感動的な映画になっていたかもしれない。「Incubus」には二本の映画(ファンタジー、ホラー)がつまっているものの、そのいずれもが失…

「哲学者の身体」:ジャック・ランシエールの後期ロッセリーニ論

*Jacques RANCIERE : L'écart du cinéma, La fabrique, 2011. ランシエールのエッセー「哲学者の身体:ロッセリーニの哲学映画」は、テレビに活動の場を移した後期ロッセリーニが手がけた哲学者の伝記映画において、思想が映像のうちにいかに「受肉」するか…

セルジュ・ダネーの後期ロッセリーニ評:La maison cinéma et le monde を読む(13)

*Serge DANEY : La maison cinéma et le monde, tome 1 Le Temps des Caheirs, 1962-1981, P.O.L., 2001. (承前)つづく『ルイ14世の権力掌握』の時評(1967年1月)は、わが国での紹介が遅れている後期ロッセリーニ映画の意義を明晰な筆致で解明してみせ…

セルジュ・ダネーのオーソン・ウェルズ評:La maison cinéma et le monde を読む(12)

* Serge DANEY : La maison cinéma et le monde, tome1, Le Temps des Cahiers, 1962-1981, P.O.L., 2001.(承前)『オーソン・ウェルズのファルスタッフ』の批評は、「権力の座にあるウェルズ」と題されている(「カイエ」1966年8月号)。遺作でこそないも…

ロジーヌ&ロベール・ルフォールを読む:『<他者>の誕生』(その5)

*Rosine et Robert Lefort : Naissance de l'Autre, Seuil, 1980.(承前)11月1日。ナディアは発熱で床に就いている。わたしの手をみるが、触れる決心がつかない。そのかわりに(といってもよいだろう)、玩具を手にとる。ゴム製の象。それをほうりなげて…

セルジュ・ダネーのプレストン・スタージェス評:La maison cinéma et le monde を読む(11)

* Serge Daney : La maison cinéma et le monde, tome 1 Le Temps des Cahiers, 1962-1981, P.O.L., 2001. 承前。ベルール編『映画事典』より「マウリッツ・スティレル」。「スティレルのすべての作品は誘惑の物語だ。つねに宙吊りになっているプロットは、…

セルジュ・ダネーの初期ロメール評:La maison cinéma et le monde を読む(10)

*Serge DANEY : La maison cinéma et le monde, tome1, Le Temps des Cahiers 1962-1981, P.O.L., 2001. (承前。)同じくベルール編「映画事典」(1966年)の記事より。「エリック・ロメールの映画の第一の長所は辛抱強さだ」。待つ術をしっていること。見…

ロジーヌ&ロベール・ルフォールを読む:『<他者>の誕生』(その4)

*Rosine et Robert LEFORT : Naissance de l'Autre, Seuil, 1980. 症例ナディア(前回のつづき)。10月16日から11月7日。わたしだけといるとき、ナディアはじぶんのなかにこもっている。耳漏と下痢でどこか死臭のようなにおいを発している……。わたしはかの…

ロジーヌ&ロベール・ルフォールを読む:『<他者>の誕生』(その3)

*Rosine et Robert LEFORT : Naissance de l'Autre, Seuil, 1980. 症例ナディア(前回の続き)——10月12日、看護師が他の子供たちに食事をさせていると、ナディアは水兵を叩き、ほうりなげる。そのみぶりには感情がともなっているようにはみえないが、ほかの…

ロジーヌ&ロベール・ルフォールを読む:『<他者>の誕生』(その2)

*Rosine et Robert LEFORT : Naissance de l'Autre, Seuil,1980. 症例ナディア(前回の続き)。 15日。あらためてナディアはかのじょの要求(demande)をわたしに向ける。わたしがちかづくと微笑み、わたしが別の子供に近づくと小さな叫びをあげ、泣き出す…

ロジーヌ&ロベール・ルフォールを読む:症例ナディア(その1)

*Rosine et Robert LEFORT : Naissance de l'Autre, Seuil, 1980. ジャック・ラカンに教育分析を受けたロジーヌ・ルフォールは、夫のロベールとともに自閉症および小児精神病の精神分析的治療に画期的な次元を切り開いた。ラカンがスーパーヴィジョンを担当…

セルジュ・ダネーのジョン・フォード評:La maison cinéma et le monde を読む(9)

同じくベルール編「映画事典」より。「ある作家の全作品が、その作家の作品の礎になっているつねに隠された危険を追い払うためにのみ存在するということがある」という一節ではじまるジョン・フォードについての長い記事。上の書き出しは「その危険はまた特…

セルジュ・ダネーのアラン・ドワン讃:La maison cinéma et le monde を読む(その8)

同じ1966年にダネーはレーモン・ベルール編「映画事典」(Editions universitaires) のいくつかの項目を執筆している。アルファベ順でまず「アラン・ドワン」。いみじくも『グレートレース』評で脱線というモンテーニュ的修辞をみずから実践してみせたダネ…

セルジュ・ダネー評論集 La maison cinéma et le monde を読む(7)

ブレイク・エドワーズの『グレートレース』論(1966年2月号)。「陶酔[酩酊]はエドワーズの映画においておおきなやくわりをはたしている(『ティファニーで朝食を』そしてもちろん『酒とバラの日々』)。陶酔は時を急がず、なにものを急かさない。陶酔は…

セルジュ・ダネー著作集を読む(6)

ジェリー・ルイスふたたび(1966年2月号)。『底抜け男性No.7』は、薹がたってきたジェリー・ルイスのサバイバルを賭けた一作だ。いわばジェリーという「仮面」からのルイスの脱皮が問題になっているのであり、もはやみずからの神話に恃むことなく未知の世…

セルジュ・ダネー著作集を読む(5)

「リチャード・クワインは鏡の効果がすきだ」ではじまる『求婚専科』評(1965年12月号)は、コンパクトにして的を得たチャーミングなクワイン論に仕上がっている。「クワインがもっとも実力を発揮するのは鏡の使い方においてだ。登場人物たちはその効果に少…

セルジュ・ダネー著作集を読む(4)

「もっとも大仕掛けな陰謀」と題されたシャブロル論(1965年12月号)。「スーパータイガー/黄金作戦」におけるカリカチュアは、たんなるこけおどしでも韜晦でもおもねりでもなく(そうしたものにとどまっているかぎりでカリカチュアはひとつの文体たりえな…