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誰がアメリカン・スピリットを殺したか?:トランプの時代に読むソロー(その2)

 2017/03/02

 

 つい数時間前のこと、トランプは施政方針演説において「アメリカン・スピリットの復活(renewal)」を唱えました。

 

 トランプがいかにアメリカン・スピリットを葬り去ろうとしている張本人であるかについては前号でお示ししたとおりです。

 

 みずからがもたらした社会的分断を修復しようというお涙頂戴の呼びかけがもくろんでいるのは、“他者”を丸め込むことにほかなりません。

 

 トランプにとって“他者”は排除するか、それができなければ内にとりこむことで亡き者にするべき存在でしかありません。

 

 いまひつようなのは、ぎゃくにアメリカ社会の分断を正面から見据えることではないでしょうか。

 

 ソローは南北戦争によって引き裂かれた祖国のただなかで生を終えました。

 

 いまのアメリカはあの頃と同じふかい亀裂を内に抱えてくるしんでいます。

 

 内戦の悪夢を再来させないためにも(その内戦はすでにはじまっているのかもしれません)、“真実” をしかとみつめることがもとめられているのです。

 

 さもないとアメリカはほんとうに滅びてしまいます。

 

 南北戦争開戦前夜の1859年、奴隷解放運動家ジョン・ブラウンが息子らの一隊を率いて政府の武器庫を襲撃し、反逆罪のかどで死刑判決を受けます。

 

 ブラウンの意図はじぶんが先陣を切ることによって奴隷に一斉蜂起を呼びかけることでしたが、その呼びかけに応えてかれにつづく者はいませんでした。

 

 奴隷解放論者らも暴力反対というたてまえからブラウンへの支持をつぎつぎにとりけしました。

 

 そこでソローは地域の名士らの反対を押し切って集会を開き、村民らをまえにブラウン弁護の熱烈な演説をぶちました。

 

 「シャープ式ライフル銃と連発ピストルは、今回はじめて正義のために使用されました。これらの飛び道具は、ついにそれを使うにふさわしい人間の手に握られたのです」(「ジョン・ブラウン大尉を弁護して」)。

 

 人殺しの道具である銃そのものをソローは否定しません。

 

 「問題は武器にあるのではなく、それを使う者の精神にあるのです。かれほど同胞を愛し、やさしく扱った人間は、いまだかつて、アメリカに出現したことはありませんでした。かれは同胞のために生きたのです。かれはみずからの命を拾い上げると、それを同胞のために投げ出しました」。

 

 ソローはジョン・ブラウンの“暴力”を、政府による「野獣的な暴力」「悪魔的な暴力」と区別しようとしています。

 

 「兵士ではなく平和を好む市民、俗人よりも牧師、戦闘的な宗派よりもクウェーカー教徒、しかも男のクウェーカー教徒よりも女のクウェーカー教徒――こうしたひとびとによって奨励される暴力は、ふつうの暴力とは異なっているのではないでしょうか」。

 

 「暴力批判論」のヴァルター・ベンヤミンであれば、これを「神話的暴力」と区別して「神的暴力」と言うかもしれません。

 

 人間のつくった法律は、為政者が国民を縛って言うことをきかせるための暴力をともなっています。ベンヤミンによれば、これが「神話的暴力」ということになります。

 

 それにたいして、法を法として認めさせる上位の法、ソローのことばでいうなら「法の上の法」、あるいは「人間を正当に束縛する永遠の法律」があり、人間をこれにしたがわせるためにいわば神の手によってふるわれる暴力が「神的暴力」です。

 

 悪法もまた法です。法がひとの道を踏み外したときに、しょせんはひとのさだめたものにすぎない法を破壊するための暴力が「神的暴力」と言えるでしょう。

 

 ソローの考えを押し進めれば、くだんの暴力は人間ジョン・ブラウンによってというよりも、ジョン・ブラウンという人間のなかの神によってふるわれたということになります。

 

 ジョン・ブラウン自身がこう語っているそうです。

 

 「わしは、だれかにそそのかされてここに来たのではない。わし自身と、わしをおつくりになった神様とにうながされてやってきたのだ。人間のかたちをした主人など、いっさい認めるつもりはない」。

 

 ソローはこう書きます。

 

 「ある書き手によれば、ブラウンはその異様なまでに執念ぶかい性格によって『ミズーリ州から超自然的存在として恐れられていた』そうです。たしかに英雄は、われわれ臆病者のなかにあっては、つねに大きな恐怖の的となります。かれはまさしくそうした人間でした。かれは自然を超える存在であることを、みずから証明しています。内部に神性のひらめきをもっているのです」。

 

 ジョン・ブラウンは内なる神の声にしたがって行動を起こしたというわけです。

 

 ソローによれば、自分個人の都合によってこの声にしたがわない自由は人間にはあたえられていません。

 

 「みなさんは内なる光にさからってまで、自分の意志であれこれしようという契約を自己とのあいだに結ぶ、いかなる権利をもっているというのでしょうか? 自分でものごとをきめ、なにごとであれ自分で決断する、などという身勝手が許されてよいものでしょうか? また、正しいと確信せざるを得ない場合でも、自己の理解を越えたものについてはこれを受け入れない、などという身勝手が許されてよいものでしょうか?」

 

 ソローが救おうとしているのはもはやジョン・ブラウンという一個人ではありません。

 

 「わたしはかれの命乞いをしているのではなく、かれの人格――かれの不滅の生命――を弁護しているのです」。

 

 ソローはつぎのように言うことさえ辞しません。

 

 「きわめて重大な事件においては、人間のつくった法律をやぶるかどうかということは、まったく問題にならないのです」。

 

 もはや無抵抗主義に甘んじることなく、ソローは暴力による抵抗を力強く肯定するに至ります。

 

 「ひとは奴隷を救出するためなら、暴力で奴隷所有者に干渉する完全な権利をもっている、というのがかれ独特の教義でした。わたしはこの意見に賛成します」。

 

 納税を拒否して投獄されたソローは、「人間を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間が住むのにふさわしい場所もまた牢獄である」という考えから、刑罰を甘んじて受け入れました。

 

 ジョン・ブラウンにたいする死刑判決をもソローは同じように受け止めました。

 

 「絞首刑こそ、この国がかれらにささげることのできた最高の賛辞だったのです。[……]国家は長きにわたって裁判をひらき、多数の人間を処刑してきましたが、これまでは、処刑されるにふさわしい人間をひとりも見つけることができなかったのです」

 

 死刑判決はジョン・ブラウンの栄誉であり、勲章なのだというわけです。

 

「今回の事件は、アメリカがこれまで耳にしたこともないほどすばらしいニュースです」とニュース嫌いのソローは皮肉まじりに述べ、すこし誇張した言い方でつぎのようにも述べています。

 

 「わたしは、かれが釈放されたというニュースがいまにもとびこんでくるのではないかと、はらはらしているくらいです。たとえかれがさらにいきながらえて、どのような人生を送ったところで、その死ほどには世の中を益することはないのではないかとおもわれるからです」。

 

 これは悪趣味なジョークではありません。

 

 ソローによれば、ジョン・ブラウンとその一隊は、「われわれに死に方を教えてくれることによって、同時に生き方をも教えてくれた」のです。

 

 「今回の事件は、死という事実が存在すること、つまり、人間には死ぬ可能性が残されているのだということを、わたしにはっきりと思い知らせてくれます。アメリカにはかつて、死んだ人間などひとりもいなかったような気さえするのです。死ぬためには、まず生きなくてはならなかったからです」。

 

 ベンジャミン・フランクリンジョージ・ワシントンといった傑出した人物にして、ソローにいわせれば「死をまぬがれた」ということになるようです。「かれらはある日、ふと行方不明になっただけです」。「天地創造以来、死んだ人間はわずか六人くらいのものです」。

 

 会場に上がった遠慮がちな笑い声が聞こえてきそうです。

 

 ジョン・ブラウンはいかに死ぬかを示してみせることによって、ぎゃくにどう生きるべきかをおしえてくれています。

 

 「われわれはいまや、どう死ねばよいかをすっかり忘れてしまいました。とはいえ、みなさんは、死がかならず訪れることをけっして忘れてはなりません。なすべき仕事に取り組み、それをやりとげようではありませんか。幕の開け方がわかれば、幕を引く時期だってわかるものです」。

 

 これこそアメリカ的な精神というべきではないでしょうか? 

 

 しかし、ジョン・ブラウンの教えを受け止めた人はわずかでした。

 

 「新聞編集者たちもまた、ジョン・ブラウンがこうした仕事の遂行を自己の使命と考えたこと、つまり、じぶんというものを一瞬たりとも疑わなかったことを、かれの“狂気”の証拠だとしています。[……]かれらの言い草では、人間が死ぬことは失敗であり、どんな生き方であろうと生きながらえることが成功だ、ということになるようです」。

 

 ソローによれば、何をすべきかを教えてくれるのは他人ではないし、ましてや政府ではありません。自己の内なる声に耳を澄ますことによってのみ、ひとは何をなすべきかを知るのです。内なる声にしたがおうとする人間の意志にさからって、そのひとに言うことをきかせようとする権利など、政府にも、だれにもありません。

 

 「どんな人間でも、じぶんが正当であれば、おのずからそれとわかるものであり、その点にかけては、世界中の知者もかれを啓発することはできません。殺人を犯した人間は、つねにじぶんが罰せられるべきであるということを知っています。けれども、ある政府が当人の良心の同意を得ることなく、そのひとの生命を奪うとすれば、それこそ無謀な政府というものであって、政府はみずからの崩壊に向かって一歩を踏み出していることになります。個人のほうがただしく政府のほうがまちがっているということもあり得るのではないでしょうか?」

 

 「市民の抵抗」というエッセイのなかで、ソローは行動の判断を「個人」に完全に委ねるような政体の到来を夢想しています。

 

 「絶対君主制から立憲君主制へ、立憲君主制から民主制への進歩は、個人にたいする真の尊敬に向かっての進歩である。現在、われわれが知っている民主制は、はたして政治において可能な進歩の最終的段階を示すものであろうか? 人間の諸権利を認め、それを体系化する方向に向かって、さらに一歩前進することはできないものであろうか? 国家が個人を、国家よりも高い、独立した力として認識し、国家の力と権威はすべて個人の力に由来すると考えて、個人をそれにふさわしく扱うようになるまでは、真に自由な文明国は現れないであろう」。

 

 「つながる」ことばかり考えているわたしたちには耳の痛い話です。つながるのではなく、ひとりの「個人」として政府に対峙せよ。ソローはそう教えているのです。