ソローからウィトゲンシュタインへ:トランプの時代に読むソロー(その5)
2017/03/16
ソローは民主主義の先にある政治形態として、「個」にもとづく体制を夢想しています。
ソローは絶対君主制から立憲君主制、そして民主制への移行を“発達”として捉えているようにみえます。つまり、諸体制をヒエラルキー化し、現時点での最良の形態として民主制を位置づけているようにみえます。
けれどもソローの「個」にもとづく体制とは、もしかしたらとくていの体制としてではなく、むしろ諸体制間のヒエラルキーを相対化する民主主義として実現されるべきものであるかもしれません。
シャンタル・ムフは、最良の政治のあり方を合理的に導出しようとするハバマスやロールズを批判し、いかなる体制をも特権化しないような多元主義的な民主主義(“ラディカル・デモクラシー”)を唱えています。
その構想においてムフが参照しているモデルのひとつがウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」概念です。
ゲーム理論の一変種としての「言語ゲーム」概念を政治哲学に応用しようとする試みは、英米では早い時期からなされてきました。
たとえば先駆的な仕事であるピーター・ウィンチの『社会科学の理念』は、『哲学探究』の刊行からわずか五年後に発表されています。
ウィトゲンシュタインが想定する「ゲーム」の特異性は、クリプキがクローズアップしたつぎのような「パラドクス」です。いわく、
「規則は行為の仕方を決定できない」(『哲学探究』)。
「言語ゲーム」という「ゲーム」においては、奇妙なことにルールが明らかにされていません。
ふつうであれば、ルールがわかっているからゲームがはじめられるわけです。
「言語ゲーム」においては、そのルールが知らされていません。
ですからプレイヤーは、プレイをおこないつつ、じぶんがルールに則っているかどうかがわかりません。
アダム・スミスやロールズが想定しているような、規則に則り合理的にふるまう個人がここでは前提されていません。
それどころかウィトゲンシュタインはこう言っています。
「私は規則に盲目的にしたがう」。
そもそもウィトゲンシュタインによれば、「意志」なるものは行為の主体に内発的なものではなく、行為が行われた諸状況から遡って事後的に想定されるものにすぎません。
これは政治的な行為においてもどうようです。
早くも初期の『論理哲学論考』でつぎのように言われています。
「倫理的なものの担い手としての意志については語ることができない」。
政治哲学におけるウィトゲンシュタインの参照は、行為主体の「意志」を問題にする規範的なものから数理科学的なものへのパラダイム転換に対応していたともいえましょう。
ウィトゲンシュタインによれば、むしろ意志そのものがひとつの行為なのだということになります。
「意志活動は行為の原因ではなく、行為そのものである」(『手稿』)
くだんの「パラドクス」をクリプキはつぎのような例によって説明しています。
57までしか数を勘定したことのない人が、「57+68=?」という問題の答えを「125」と答えたとします。
これが正解とみなされるのはつぎの二つの条件が満たされたばあいのみです。
(1)算術的ないみにおいてであれば、正解です。
(2)「+」を計算主体がこれまで加法をいみするものとみなしてきたのであれば、正解で
す。
とはいえ、ある人が正解は「5」であると答えたしても、これに反論することはできません。
もしかしたら、「+」は、57まではプラスとおなじいみなのに、57より大きな数においてはすべて「5」になるというルールの記号かもしれないからです。
「+」のいみはプラスではなく、そのようなルールにもとづく「クワス」かもしれないのです。
ルールが明らかにされていないので、あらゆる行為がルールに適っているとみなしうるのです。
すくなくとも、それがルールに背いていると証明することはできません。
そのいみで、ルールに背くということは不可能なのです。
このケースにおいて、正解を決定するのは私という計算主体ではなく、この規則(プラスなり「クワス」なりの)を共有している共同体です。
ウィンチによれば、何が社会的に有用な行動であるかを決定するのは行為者じしんの意志ではなく、共同体であるということになります。
とはいえ、その「共同体」とは、われわれが現にそこに住まっている共同体のことではかならずしもありません。
柄谷行人が言うように、「言語ゲーム」の舞台はひとつの共同体内部ではなく、いわば共同体と共同体の間です。
わたしたちは、わたしたちが現に住まっている共同体内部での行動の規則なら知っています。
しかし、わたちたちの共同体でのルールを共有しない「他者とのコミュニケーション」(柄谷)においては、あらかじめルールがわかっていません。
ルール以前にまず行為があり、試行錯誤のすえにこうふるまえばよいというルールがみえてくるのです。
ムフが考えているのは、このように習慣や価値観を共有しない他者どうしが形成する共同体のことだとおもえばよいでしょう。
言語ゲームにおいては規則にしたがってプレイすることが目標になります。とはいえ、その場合の規則を共同体内部のルールととらえてしまうと、わたしたちが所属する共同体への順応が目標であるということになってしまいます。
ウィトゲンシュタインによれば、わたしたちはとくていの「生活形態」(生の様式、Lebensform)に文脈づけられています。
ハイデガーなら「世界内存在」と言うところです。
世の中は、あらゆる文脈から自由な普遍的な個人から成り立っているわけではありません。
とくていの共同体に所属しているということも「生活形態」のひとつのあり方でしょう。
しかし、「生活形態」という「所与」はわれわれじしんには隠されています。
すでにのべたように、わたしたちがじぶんの行為の理由を知ることができないのとおなじです。
おなじように、わたしたちはじぶんのつかう言葉のいみをはっきり知りません。
ウィトゲンシュタインによれば、わたしたちがつかう言葉のいみを決定するのは、発話者であるわたしたちじしんではなく、共同体の規則です。
『哲学探究』ではつぎのように言われています。
「正しかったり誤ったりするのは、人間の言っていることだ。それは意見の一致ではなく、生活形態の一致である」。
むずかしい一節ですが、ことばの表面上のいみ(「意見」)で合意することはほんとうの合意とはいえません。
ひとつのことばは文脈しだいでいろいろないみをもちうるからです。
たとえば、多くの政治哲学者が「自由」とか「平等」というタームを使っていますが、その使われ方はさまざまです。
ですから、あるひとがあることばをどのような文脈でつかっているかを明らかにしないかぎり、意見の一致は望めません。
もっと厳密にいうと、そのひとがどのような「生活形態」のなかに埋め込まれており、その「生活形態」がどんなことばのつかいかたを発話者に強いるかをあきらかにしなければなりません。
ここから、スキナーやタリーといった政治哲学者は、どの理論が正しいかを判断するためには、政治哲学のタームが各論者らによってどのような文脈すなわち「生活形態」に基づいてつかわれているかを解明することがひつようだとのべています。
ムフがおもいえがくのは、このように多様な「生活形態」に文脈づけられている人々が共存し、どの「生活形態」も特権化されないような民主主義であるといえましょう。
そこでは合理的な討論においてハバマスが想定しているような最終的な「合意」は目指されず、永続的な討論によって限りなく合意に漸進していくしかないようなヴィジョンが前提されています。
ウィトゲンシュタインが語の「意味」とはその「使用」であると述べているように、そこでは規則が最終的なかたちで確定することがなく、規則のさまざまな「使用」がいごこちわるく共存(ムフのことばでいうなら「敵対」?)していることになるでしょう。
そのいみでラディカル・デモクラシーは、いつの日か到来することを約束されたとくていの政治形態のことというよりも、いわばつねに“来るべき”というかたちでしかあり得ない民主主義であるといえます。
そのようなデモクラシーのあり方についてムフがヒントを仰ごうとしているのは、ウィトゲンシュタインの批判的な継承者であるスタンリー・カヴェルです。
カヴェルはソローの代表的な注釈者でもあり、『センス・オブ・ウォールデン』というソロー論があります(同書にしっかり邦訳があることを『ヘンリー・ソロー / 野生の学舎』の今福龍太氏はご存じないようです)。
カヴェルはソローの盟友エマソンの道徳的完成主義(moral perfectionism)に依拠して上のようなヴィジョンを提示しています。
カヴェルのエマソン論の一冊は、ソローの『メインの森』からとられたとおぼしきつぎのようなタイトルを戴いています。
「このあたらしき、しかしいまだ至り着くことなきアメリカ」(This New Yet Unapprochable America)
「アメリカ」という大いなる理念はまだ実現途上にあります。新大陸はいわばまだ発見されてさえいないのです。アメリカの国境はいまだ閉じられてはおらず、おそらくアメリカという国が存在するかぎり、永久に閉じられてしまうことはないでしょう。これがどんなに反トランプ的な考え方であるかはわかっていただけるとおもいます。