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精神分析と映画をめぐる読書案内

ジェームズ・エイジーの『全映画批評』(その2)



*James Agee : The Works of James Agee volume 5 : Complete Film Criticism (The University of Tennessee Press, 2017)


 ヘレン・レヴィットの写真集 A Way of Seeing に収録されたジェームズ・エイジーのテクストはお定まりの“巻頭エッセー”にとどまらない。

 本書が出版されたのはエイジー没後十年後である。生前、エイジーはレヴィットとともにこの写真集の企画を練っていた。本書はレヴィットとエイジーの共著とみなすのがふさわしい。

 レヴィットとエイジーは同じ時期に In the Street という短編ドキュメンタリー映画を共同制作している。やはりハーレムの路上ではしゃぎまわる子供たちを特権的な被写体とする同作は、 A Way of Seeing のふたごのきょうだいのごとき作品である。

 In the Street はつぎのような字幕とともにはじまる(おそらくエイジーの手になる可能性が高い)。

 「大都市の貧民街の路上は劇場であり戦場である。そこではかえりみられることも気づかれることもないあらゆる人間が詩人であり、仮面劇俳優であり、戦士であり、ダンサーである。そして街の喧騒にもかかわらずかれがその身に帯びる芸術性こそ人間存在そのもののイメージである。この短い映画はこのイメージをつかまえることを試みている」。

 写真集に話を戻すと、筆者の手元にあるペーパーバック版(1989年刊)には86葉の写真が収録されているが、オリジナル版は68葉で構成されていた。

 初版本は装丁も凝りに凝った美しいものであったようで、ポラックの『コンドル』でフェイ・ダナウェイ演じる人物の部屋にも飾られているらしい。
 
 作品には通し番号が付されており、エイジーは番号のみを挙げて個々の作品をコメントしている(『全映画批評』には図版は収録されていない)。

 エイジーは作品1から作品68までの流れのなかにひとつの壮大なストーリーを読み込んでいる。

 写真の配列にエイジーのアイディアが反映されているかどうかはさだかではないが、ひょっとしたらエイジーのテクストがまずあり、それに合わせて写真を配列したのかもしれない。

 作品1は木のプレートのようなものに子供が描いたとおぼしき顔の絵を写している。エイジーはこの顔を太陽に見立てている。これはさながら人間の誕生以前の世界である。

 ついで作品2と作品3はアスファルトにチョークで描かれた先史時代の洞窟画のようないたずら書きである。

 そして作品4に至ってはじめて人間が登場する。ヴェールで顔をすっぽりと隠し、前掛けに刃物のような「武器」を忍ばせた少女(?)である。

 写真集の大半を占めるのは路上で遊ぶ子供の写真である。ここにエイジーは人類の幼年時代を重ね見る。

 しかし微笑ましいスナップショットのところどころに差す翳りをエイジーの筆は見逃さない。暴力、孤独、セックス、死を暗示させるディティールがいたるところに写り込んでいる。

 かくて人類は無垢を喪失する。もしかしたらエイジーにとってそのような無垢の喪失を象徴するものは核兵器の存在だったかもしれない。

 エイジーは敬愛する晩年のチャップリンに核戦争後の世界を舞台とする映画のシナリオ(“The Tramp's New World”)をオファーしたが、却下されたという有名な逸話がある。
 
 しかしエイジーは、写真集の終盤に登場する腕に抱いた孫と思しき赤子の顔を覗き込んで微笑む老人の笑顔に人類の楽天的な未来を読みとっている。

 写真集の掉尾を飾る作品68はアパートの前に立ちホースで水を撒く老女を写している。

 「最後の写真ほど完璧なまでに雄弁に、優雅で、偉大で、まばゆいばかりの幸福と愛らしさを伝えるイメージをわたしは知らない。それは愛情をこめた奉仕がその祝福によってもたらすものである。どんな作家も画家も俳優もダンサーも、あるいは音楽家も、婦人の腕の庇護するような寛大なさまや、微笑む顔の傾げ方と口調(voice)や、立ち姿やたたずまい全体を表現することはできないだろう。これらのものはまた、どんなよろこびや美しさをも超越している。そうしたよろこびや美しさを経験することができ、具現することができる者がひょっとしてあるとしたら、それは子供だけだろう。かのじょは生の甘美さでもあれば、死のやさしさでもある。肉の世界のさなかにおいて勝利を謳いあげる魂である。無垢の救済でありその不滅である」。

 このときエイジーの想念にリュミエールの水撒き人が浮かんでいたかどうかはさだかではないが、ボードウェルのいうエイジー一流の「ロマン主義」がここにはっきりと読みとれる。

 「視覚の能力の純粋化」が人類を解放し、救済するとかんがえるのは愚かであると認めつつ、エイジーは映像こそが「正気と好意と落ち着きと諦念(acceptance)と喜び」を人類にとりもどしてくれる近道であると信じようとしている。

 「ゲーテは書いている。考えることはよいことだ。もっとよいのは、見て、そして考えることだ。いちばんよいのは考えずに見ることだ。ここに収められた写真たちをみれば、かれの言わんとしていたことがよくわかる」。

 これが締めくくりの一文である。(つづく)