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精神分析と映画をめぐる読書案内

ジェームズ・エイジーの『全映画批評』



 *James AGEE : Complete Film Criticism : Reviews, Essays, and Manuscripts (Edited by Charles Maland, The University of Tennessee Press, 2017)

 全十一巻が予告されている「ジェイムズ・エイジー著作集」(The Works of James Agee)の5巻めに当たる『全映画批評』がテネシー大学出版局から刊行された。索引を合わせると千ページを越す大冊である。

 エイジーの映画論集としてはこれまで、死後まもなく刊行された Agee on Film に加え、同書に未収録であった文章の大半を併録した Film Writing and Selected Journalism (The Library of America, 2005) があった。

 Agee on Film 中道左派知識人向けの The Nation に寄稿された記事中心に編まれ、より大衆的な Time に掲載されたウィッティな記事の多くを落としていたこと、同書の刊行時にマニー・ファーバーがこの編集方針に疑義を呈したことはすでにこの場で述べた。

 『全映画批評』の編者チャールズ・マランドによれば、その原因のひとつは、Time では文体上の縛り(“Time-ese” phrases)を課されていたことに加え、映画批評欄が複数の評者によって受け持たれており、そのなかからエイジーの単独で執筆した記事を特定するのがときとしてむずかしいことにあったようだ。

 マランドはTime 掲載の文章のうち、これまでエイジーの筆になるものとされてきながらじっさいにはそうではなかった十余篇を割り出し、今回の集成からは除外している(グリフィス論、『黄金狂時代』論など)。

 さらにテキサス大学およびテネシー大学に保管された遺稿を精査し、未刊行の記事や一部の草稿を併録しているのがセールスポイントとなっている。

 そのなかには、ルネ・クレール『明日を知った男』についての長文の批評やバルデッシュ&ブラジヤックの『映画史』英訳書の書評、エイゼンシュテインをとりあげたカバーストーリーの草稿などが混じっている。

 そのほか、すでに世に出ていたけれどもこれまで映画論集には収録されていなかったものとして、エイジー17歳のみぎりの最初の映画批評(『最後の人』論)や、より興味ふかいものとしては、1965年に刊行されたヘレン・レヴィットの写真集 A Way of Seeing に収録されたエッセー(執筆は1946年)がある。

 後者はちょくせつ映画を扱った文章ではないが、このエッセーを収録した『全映画批評』編者の見識をジョナサン・ローゼンバウム(Film Comment ニューズレター)とともに高く評価したい。

 エイジーはヘレン・レヴィットと共同で[セミ・]ドキュメンタリー映画を二本制作しており、それらは当然のことながらレヴィットの写真集ときわめて類縁性の高い世界観を提示している(ともに1948年の In the Street および The Quiet Oneシドニー・メイヤーズの演出した後者はアカデミー賞候補にノミネートされた)。

 それだけではない。このエッセーはエイジーのもっとも理論的な文章といえ、視覚芸術についてのかれの根本的な思想が明確によみとれる点でもきわめて貴重である。

 エイジーにとって本エッセーはさながらアンドレ・バザンにとっての「写真映像の存在論」といえはしまいか?

 二人のもっとも偉大な映画批評家のもっとも根本的なテクストがともに写真を題材に選んでいることは偶然ではない。

 『叙事詩人たち』(The Rhapsodes : How 1940s Critics Changed American Film Culture, The University of Chicago Press, 2016)において、デヴィッド・ボードウェルはエイジーを“ロマン主義者”と位置づけている。

 いわく、「おおくのロマン派とおなじく、芸術家エイジーは日常的な世界のなかに超越的な美を探求した」。

 本エッセーにはエイジーのこうした(バザン的ともいえる)一面が如実に現れている。

 このエッセーについては稿を改めてコメントしたい。

 チャールズ・マランドによる『全映画批評』の長大なイントロダクションには、職業的な映画批評家としてのエイジーについて知ることのできるあらゆる情報が盛り込まれている。

 たとえば、Time の専属批評家であった頃のある一週間にかれがどの会場でどの時刻にどの映画を見ていたかがリストアップされ、当時の文字あたりの報酬までが具体的に示されたりする。

 かれの批評をめぐる毀誉褒貶についても頁が割かれる。ファーバーからサリス、ケイル、シッケルを経てボードウェルにいたるまでの同業者らによる賛辞。あるいはぎゃくに、共産主義への幻滅を吐露したカーティスやドンスコイ作品への否定的な評価が The Nation 読者のあいだに掻き立てた反発……。

 ジョナサン・ローゼンバウムはマランドがエイジーのうちに「カイエ」=サリス的な「作家主義」の先駆を見出そうとすることがエイジーの批評の本質を覆い隠すことにつながりかねないと懸念している。

 ローゼンバウムによれば、エイジー映画作家の自己表現よりも、俳優の身振りや作品の雰囲気や画面の視覚的な肌理といった要素に敏感であったのだ。