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精神分析と映画をめぐる読書案内

マニー・ファーバーを読む(4)

 引き続き、「白象の芸術 vs. 白蟻の芸術」を読んでいこう。

 さて、映画における白蟻の芸術の事例として三つめに挙げられているのはジョン・フォードの『リバティ・バランスを射った男』におけるジョン・ウェインの演技である。『三つ数えろ』、『Hog Wild』の事例ほど暗示的ではなく、20行ほどの踏み込んだ記述があるとはいえ、あいかわらず晦渋な表現で、前二者の事例以上にわかりづらい。

 この場面を簡単に振り返っておこう。リー・マーヴィン扮するこてこてに着飾った無法者が、二人の仲間をしたがえて、あぶみの音もものものしく食堂に入ってくると、それまでたのしげに食事とおしゃべりに興じていた客たちの顔が一斉に凍りつく。ウェインは、店の奥の壁際に席をとっている。店の娘であるガールフレンドヴェラ・マイルズ)をデートに誘うつもりで、こちらも土曜の夜向けの思いきりめかした服装。退屈した子供みたいに、椅子を背後の壁によりかからせ、背後に体重をあずけて、揺り椅子みたいにわずかに揺すってバランスをとっている。ほぼ無表情、ほかの客たちとは対照的に、穏やかなまなざしで遠くのマーヴィンのほうをさして関心もなさそうに眺めるともなく眺めている。

 ここでのウェインの身ぶりは、そう言われてみるとたしかにおもしろい。ちょっとはずしたというか、意表をつくようなところがある。それでいて、計算づくであるとか、これみよがしなところは微塵もない。この人物のキャラクターとか、この場面での心理から逆算して選びとられたポーズだとは思えない。およそ説明的な演技ではなくて、この登場人物の矛盾とか複雑さをこのおよそ言語に翻訳不可能な多義的な身ぶりに集約させているという感じだ。ジョン・ウェインの自然体でミニマルな演技スタイルの骨頂と言えようか。直観的な身ぶりのもつ魅力、そのリアリティを、キャラクターの一貫性とか心理的な整合性という秩序に従属させることで殺してしまっていない。
 白蟻のイメージは、ウェインのゆっくりとした身のこなしと、壁際の目立たない位置どりから喚起されたものかもしれない。ところで、ここでの壁際の位置取りは、偶然的なものではなく、ウェインの演技の本質に関わっている。ウェインの持ち味は、余計な芝居をせず、演技に余計なアクセントをつけないアンダーアクティングもしくはミニマリズムにある(たまにオーヴァーアクティングに走っている作品もあるが、きまってよくない)。余白とか沈黙に多くを語らせ、行間に多くを読みとらせようとする演技法だ。明示せず、暗示するだけ。それだけに演技の重要な部分が水面化あるいは地下で進行しているという印象が強い。表に現れているのは、そのほんの一部、水面下で人知れず精力的に進行している演技のいわば痕跡(「切れ端」)だけ、と言ったらよいか。こんなところも、白蟻的演技たる所以かもしれない。こういうスタイルを活かすために、フォードやホークスといった、ウェインから最高の演技を引き出した監督たちは、ウェインをこのんでもの影とか目立たない場所に立たせさえした。 
 ところで、スクリーンのなかのウェインはたいてい何かに寄りかかっていたり、すがりつくように何かを抱えている(たいていはライフル)。昔、蓮實重彦氏も指摘されていたと思うが、空手で大地に立ちはだかるといったポーズをまずとらない(腰に手をあてていることが多い。それゆえ、手の雄弁は封印されている)。尻を振りながら内股でよちよち歩くおなじみの特徴とならんで、この特徴は、活劇のヒーローらしからぬウェインのキャラクターの両義性(ジェンダー的なそれをふくめて)を生み出している。この場面では、壁際という位置どりが、ウェインの存在を目立たなくすると同時に、もたれかかる対象(壁)を提供しているわけで、ウェインの特徴がひときわ発揮されやすい状況を用意していると言える。
 批評家で映画作家でたまに俳優もやるリュック・ムーレは、『俳優主義』(Politique des acteurs) という痛快きわまりない俳優論のなかで、ゲイリー・クーパージョン・ウェインケイリー・グラントジェイムズ・スチュアートの演技を、具体的な身体の動かし方という観点からマニアックに分析してみせているが、ウェインに関してだけは、上述したいくつかの一般的な特徴をあげてみせるだけで、ディテールの分析に深く踏み込んでいない。ムーレは、この本の執筆にあたり、詳細なメモをとりながらヴィデオを見直していたそうだが、ほかの俳優の場合は手元のメモ用紙が足りなくなって困ったのに対し、ウェインに関しては、メモはほぼ白紙のままであったという。ムーレによれば、ウェインには、おのれの存在をその作品の空気に溶かし込んでそのマッシヴな身体を不可視にするカメレオン的な才能がある。それだけに、『リバティ・バランスを射った男』におけるさりげない身ぶりに鋭く着目したファーバーの慧眼が光ろうというものだ。

 すぐれた映画批評家がつねにそうであるように、ファーバーにあっても俳優の演技への着眼が批評の重要なポイントになっている。「白象の芸術 vs 白蟻の芸術」では、ここ以外にも俳優の演技をコメントしたくだりがある。そのひとつは、やはりこの文章が書かれた年に公開された『Requiem for a Heavyweight』(監督ラルフ・ネルソン)におけるアンソニー・クインの演技だ。引用しよう。

 Requiem for a Heavyweight は、きらびやかなテクニックをあまりにも仰々しくちりばめているので、たったひとつの場面でだけ——ほとんど字も読めなさそうなボクサー(アンソニー・クイン)があり得ないほど親切な職員の手玉にとられる職業紹介所の場面——、クインのぼろぼろの毛布みたいな消耗品の演技を味わうことができる。この演技は、聡明な洞察に沿って這い進み、演技の素材に完全に没入している。

 この作品でクインは、試合で目を負傷して再起不能になった元世界チャンピオンを演じている。この作品のクインは一貫して、その屈強な体躯に似合わぬ、はっきり聞き取れないほどの弱々しく、か細い声で台詞を言っている(『生きる』の志村喬を思わせる)。職業紹介所の場面では、黒っぽい壁がいやがうえにも狭苦しさを強調する個室のなかで、クインは大きな身体をもてあましながら、座った女性職員を前に、終始立ったまま喋っている。メソード俳優のジュリー・ハリスが、目尻の上がった眼鏡をかけた漫画風の職員を演じている。会話の途中で、かかってきた電話に応対するハリスを画面手前にアップで捉え、所在なげに部屋のなかを眺め、背中を向けてコート掛けをいじったりしているクインを画面奥に捉えた演出過剰のショットがあったりする。ほとんど何も置かれていない、背景の消された狭い空間のなかを、身ぶり手振りも豊かに、身体をひとまわりさせてみたり、歩き回ったり、ドアに寄りかかったり、激昂したかと思うと天使のような穏やかな調子で長い台詞を滔々と弁じ立てるという、俳優にとってはいかにも演じ甲斐のありそうなおいしいセッティング。観客の注意は、いやがうえにもクインのいわば一人芝居に集中する。漫然と見ている観客には見逃されてしまう『リバティ・バランスを射った男』におけるジョン・ウェインの不可視の演技とは対照的と言ってよい。
 クインの演技は、文字通り一人芝居にふける俳優のようで、目の前のジュリー・ハリスがいわばその観客といった体なのだが、クインは、おのれの芝居に酔っているというよりは、ハリスの冷静かつあわれむような視線にとまどっているようにも見える(実際にはクインを見上げているのだが、見下ろしているように見える)。たしかに名演技だとは思うが、この場面のどこがそれほどファーバーの気に入ったのかはよくわからない。

 もう一箇所、やはり同じ年に公開されたトニー・リチャードソンの『長距離ランナーの孤独』(1962)のなかの無名女優の演技に言及しているところがある。

 リチャードソンの俳優たちのほとんどは、信じがたいほどおそろしく退屈させるが、ただひとりだけかなり好感のもてる俳優がいて、それは『長距離ランナーの孤独』におけるドライザーの小説に出てきそうなぽちゃっとしたガールフレンドなのだが、彼女は白蟻的なスタイルで、ほとんど恩寵の状態にあるような演技を見せる。

 このコメントにもやはり頭をひねってしまう。実際に作品を見直してみると、出番も少なく、特に印象に残る演技をしているわけでもない。いつももっさりした厚手のコートを着込み、髪に田舎臭いスカーフを巻き付けている印象がある。身ぶりも表情も少なく、発声もか細くて抑揚がない。セットにいるのが気詰まりで、演技に集中していないようにさえ見える。ただ逆に、この力の抜けた、浮いた感じがいいのかもしれない。主人公の目を見据えて問いつめるといった演技が期待されそうな場面でも、どこか遠いまなざしを主人公のほうに投げるともなく投げるだけ。この大きな瞳が宿す深さと静けさには、演技をよせつけない何かを感じさせる——と好意的に解釈することもできるかもしれない。どう見ても大根だが、明らかに女優本人のものである屈託のなさとか動物的な物憂さが、力みまくった社会派ドラマに亀裂を入れるとまではとてもいかないが、スクリーンのなかの彼女の周囲のほんの小さなスペースだけに遠慮がちに異質な空気を漂わせることにはかろうじて成功しているかもしれない。
 概してファーバーは、自然体の演技を好み、メソード演技に代表される入れこんだ演技を嫌っているようだ(Requiem のジュリー・ハリスもけなされている)。以上の三つの演技の事例においては、ほかのキャストがいかにも、という熱演をしてしまっているなかで、ひとりだけ浮いた、ないしゆるい(多義的な、ということにも通じる)演技をしているという共通点が見出せるかもしれない。周囲の一律なトーンに慎ましく異質なトーンを導入し、映画そのものに風穴を空けているわけだ。


 長い注釈になってしまったが、『リバティ・バランスを射った男』についてのコメントのすぐ続きの部分を読んでおきたい。ここでは、絵画や映画以外の分野における白蟻的なアートの事例が挙げられている。

 白蟻の芸術の最良の事例は、映画以外のいろいろな領域にも見つかる。そういう領域は、文化として華々しくスポットライトが当てられることがないだけに、職人たちが強情で浪費的であることができ、頑固に自分だけに向き合い、結果を考えずに、全力を挙げて芸術に取り組むことができる。わくわくする出来事に我を忘れた熱中型のスペシャリストがときどき新聞に書くコラム(大統領選挙期間中のジョー・オルソップやテッド・ルイス)や、ペナント争いのプレイオフで長年のライバルたちを前にして剛球を甦らせる手だれの投手(ディック・ヤング)。テレビドラマ『氷人来る』でのマイロン・マコーミックジェイソン・ロバーズたちの気怠げでざわついた演技のすばらしい事例の数々。ロス・マクドナルドの最近のいくつかの探偵小説と、数年前に人知れずまとめられたときにはさして注目されなかったものの、実は現在読むことのできるすぐれた大衆的批評のひとつである書簡集のなかでの、レイモンド・チャンドラーの蟻の這うような饒舌と冷静な真実の洞察の数々。その脱線の妙と鋭い反論の才能を捨て、ジェームズ・メレディスのいかにもミシシッピ大学体育会に似つかわしい冒険[adventures]のようなアホな問題[od issues]に手裏剣のように?飛びついてしまう以前のウィリアム・バックリーのテレビ討論。

 ファーバーお得意の“列挙”という修辞がフルに炸裂した目のくらむような一節だ。JFK選挙キャンペーン(ジョー・オルソップ)、公民権運動(ジェームズ・メレディス)などなど、ひとつひとつの話題は、1962年当時のアメリカの読者にはなじみ深いものばかりなのであろうが、とはいえ、このようにてんでんばらばらのジャンルを貫いてひとつの精神的傾向の存在を探りあてようとするこのような視点は、当時のアメリカの読者の目にとってさえ、謎かけとしか映らなかったのではなかろうか。


 白象の芸術に対置されるかぎりで、白蟻の芸術というカテゴリーは一見とてもわかりやすい。ジョナサン・クレイリーは、この対比に、“ツリー(樹木)/リゾーム(根茎)”というドゥルーズ=ガタリの二項図式との類似を見てとっている。

ファーバーによる白蟻というモデルは、ドゥルーズの“リゾーム”という概念を15年も先駆けるものである。白蟻の植物バージョンである根茎は、垂直的な成長や育成という植物[樹木]の論理からは独立した迷走的に領土を拡大する地下茎のシステムである。
(Film Comment jan-fev 2005)

 それ自体は妥当な指摘であると思われる。とはいえ、同じく比喩的なイメージに基づく図式化ではあっても、ドゥルーズ=ガタリの図式が自然科学上の分類学に根拠をもっているのに対し、ファーバーのアナロジーは、純粋に詩的なものであり、それゆえ、ファーバーの図式は、ドゥルーズ=ガタリのそれよりもよほどゆるく、言い換えれば、微妙なニュアンスに富んでいると考えられる。ファーバーの文章でわかりづらいのは、白蟻の芸術というカテゴリーの定義そのものよりも、その定義と具体的に挙げられている事例との結びつき方だ。もしかしたら、この人の文章特有の暗示に満ち満ちた省略法だけにその原因を求めることはできないのかもしれない。白蟻の芸術というカテゴリーの本質の一部として、何が白蟻の芸術なのかを見抜くこちらのセンスを問うという性質が含まれているような気がする。その意味で、白蟻の芸術は、たとえば、ヒップとかキャンプとかいう価値観と同じような主観的で秘教的なカテゴリーだと言えるだろう。


 最後に、締めくくりの一節を引用する。『長距離ランナーの孤独』のトニー・リチャードソンや『突然炎のごとく』のトリュフォーが、白象の芸術への指向によって、彼らがもともともっていた白蟻的なセンスをだいなしにしてしまったことが論じられ、『夜』と『太陽はひとりぼっち』のアントニオーニが白象の芸術の権化として全否定されたあと、ファーバーは極東で撮られた一本の映画のなかに白蟻の芸術の精神の正統的な継承者を見出す。黒澤明の『生きる』がそれである。

 黒澤の『生きる』は、画期的な拾い物であり、自己に沈潜する新たな方法を提示している。この作品は、白蟻の芸術が目指すものが何であるかをほぼ完璧に要約している。目印も目標もなしに、小さなスペースに微細な虫のように侵入し、その隅々まで、一瞬じっと釘づけになって集中し、とはいえ、そこを特権視することなく、その瞬間が過ぎ去ると、すぐにおのれの所業を忘れてしまう。すべては消耗品であり、掘り返し、削り捨てて、仕立て直して使うことができるとでもいうかのように。

 映画のちょうど中ほどで突如視点が転換し、別の映画がはじまってしまうようなアナーキーで迷走的な構成をはじめとして、『生きる』は全編、白蟻によって雑然と食い散らされたみたいに、いくつものジャンル、いくつものトーン、いくつもの視点に引き裂かれた映画であるが、この狂躁、この猥雑さ、この混沌にこそこの作品の価値があることは言うまでもない。

 見苦しく、頭が悪く、貪欲で、まがまがしい存在として、通常、蔑まれ、忌み嫌われる白蟻をあえて価値づけているところにファーバーの概念の魅力はあるのだろう。