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精神分析と映画をめぐる読書案内

マニー・ファーバーを読む(3)

 引き続き、「白象の芸術 vs. 白蟻の芸術」を読んでいく。なお、この文章の初出は、Film Culture (Winter 1962)。

 前回の引用部分で、映画における白蟻の芸術の事例として二つめに挙がっていたのは、ローレル&ハーディーの映画であった。その部分をあらためて引用しておくと、

 ローレル&ハーディーは、Hog Wild といった彼らのもっとも消化不良で、もっとも可笑しいいくつかの作品で、「成功する方法」といった指南本を片っ端から読破した人の恰好のパロディーを提示しているが、身につけた知識をいざ応用する段になると、本能的に白蟻的なふるまいに立ち戻る。

 ローレル&ハーディーのどたばたコメディーは、もともとファーバーお気に入りの映画で、彼の絵画作品にはこのコンビをモチーフとした作品もあったりする。ファーバーは『Hog Wild』によって彼らの白蟻的な作品群を代表させているが、このコンビの代表作にこの作品の名前を挙げる人はかならずしも多くない。
 
 とりあえず、あらすじを書いておく。

 ラジオのアンテナを設置するよう妻に言われたオリー(ハーディー)が、ローレルに手伝わせて梯子で屋根に上るが、梯子で窓を割ったり、何度も屋根から転落して下の池にはまったりというありさま。梯子が短いので、ローレルの車を台代わりにしていたのだが、ふとしたはずみで、オリーをのせた梯子ごと車を発進させてしまう。走る梯子の上で、必死にバランスをとろうとするふとったオリー。パニックに陥りながらも、並走するバスの乗客にうやうやしくあいさつしたりするギャグが挿入される。しまいに梯子は倒れ、路上にたたきつけられるオリー。そこへ入ってきた路面電車にあやうく轢かれそうになる。間一髪で身を守るも、駆けつけた妻を含めた三人をのせた自動車に、路面電車が後ろから追突し、無惨な形状に変形した車で消沈した三人が退場していくところで映画は終わる。

 「『成功する方法』といった指南本を片っ端から読破した人の恰好のパロディー」という紹介の仕方は、あいまいでわかりにくい。単に、自信満々である仕事に着手した人が失敗して笑いを引き起こすということなのか、あるいは、ちょっと深読みをして、彼らの映画が、いわば「失敗する方法」を理論的に突きつめたものであるという、以下で考察するようなこのコンビの本質に、より関連させて受け取るべきなのか。

 さて、そもそも、ローレル&ハーディーの映画の特徴とは何か。まず、多くの人が指摘しているように、それまでの、ピン芸人が圧倒的に主流だったスラップスティック・コメディーの世界に、本質的な(つまり、偶然的ではない)コンビ芸を最初に導入したこと。これは、ファーバーも重視している点で、後年(1977年)のインタビューでは、これを、コメディーにおけるフレームの変容という事態に結びつけている。

 セットのなかでのローレル&ハーディーのポジショニングは革命的だ。その位置取りは拡散的である。……チャップリンのような、空間に対する名人芸的な統率者であるかわりに、彼らは自分のまわりの空間を溶解させる。……ローレル&ハーディーで興味を惹かれるのは、彼らがいわばフレームの中で行き迷っていて、それを作品の完成度の観点からも、彼ら自身の損得の観点からも、有利に導くことができないということだ。それこそ、デュラスやリヴェットの映画であれほどエキサイティングなところなのだ。おびただしい現実や真実が存在するのであり、それはそれはふしぎである。物語や出来事における直線的な構成という考えは忘れてしまうのだ。フレームの縁、今日における芸術はそこにある。
(「リチャード・トンプスンによるインタビュー」Negative Space 所収)

 インタビューという形式でも、ファーバーはあいかわらず暗示に富んだ文体を駆使している。

 ローレル&ハーディー以前のコメディーでは、チャップリンであれ、キートンであれ、ピンの主人公がフレームの中心に位置取りし、その絶対的な中心をめぐってギャグが求心的に組織されるものであったのに対し、ローレル&ハーディーにおいては、この中心が二重化し、フレームが多焦点的で多視点的な(「おびただしい現実や真実が存在する」)ものに変わっている。こうした空間的な位置取りそのものが、彼らのギャグの性質やプロットの形式(後述するように「直線的」なストーリーラインとは異質なそれ)、ひいては彼らの映画の思想を根本的に規定している。彼らは、フレームのなかをとめどもなく迷走し、ついにはフレームをはみ出していこうとさえする拡散的ないし散逸的な性質をもつ(フレームの縁、ひいては画面外のスペースの活用は、現代映画の重要な課題である)。フレーム全体をその隅々までひとつの秩序で統一しようとするのが白象の芸術であるとすれば、彼らの映画はそれとは反対のベクトルによって規定されていることになる。ここで使われている「革命的 (revolutionary) 」という言葉には、字義通り天文学的な意味あい(revolution には「公転」の意あり)を読みとるべきであろう。ローレル&ハーディーは、コメディーの歴史において、いわば“コペルニクス的転回”を為し遂げたということだ。

 ベケットの『ゴドーを待ちながら』のコンビのモデルのひとつであるという説もあるくらいだから、ローレル&ハーディーが、リヴェットやデュラスによる、直線的な物語話法を排した多視点的なスタイルの典型的な現代映画になぞらえられていてもいまさら驚くことはないのかもしれないが、やはりここには、ファーバーらしい刺激的な類推のセンスが健在である。

 ところで、ローレル&ハーディーのひとつひとつのギャグには目新しいところはまったくない。彼らのギャグは、すでにそれ以前のコメディアンたちによって使い古されてきたものばかりである。これは、彼らがサイレント映画のコメディアンのなかでは、もっとも後発組に属しているという事実とも関係があるだろう。彼らが(ピン芸人としての長い下積みを経て)コンビを結成した時期には、すでにサイレント映画の枠内で可能なギャグのパターンはあらかた汲み尽くされていた。名著 The Silent Clowns のウォルター・カーが言うように、「彼らはギャグの歴史を変えなかった。……彼らは何も発明していない」。(そのギャグがすべて先行者たちからの借り物であるという意味では、彼らは白蟻的な寄生者である。)

 とはいえ、彼らは先行者から借りたギャグを、先行者たちと同じようには使わなかった。そこに彼らのオリジナリティがある。結論から言うと、彼らはギャグを人を笑わせるための“手段”として使うことをやめ、いわばギャグそのものを映画の主題にしたのである。借り物のギャグで笑いをとるのは潔くない、あるいは、芸人としての自尊心に背くとでもいうかのように、彼らはあらかじめギャグのネタを割るようなふるまいをたびたびしている。次に繰り出されるギャグがあえて観客にはっきり予想できるようにギャグを仕込むのだ。いわば、雷管をはずして、ギャグを不発の状態にした。そのうえで観客の目のまえで、目覚まし時計かなにかを修理するときのような手つきでギャグを解体し、その仕組みや機能や使用法を詳しく説明してみせた。カーの言い方を借りれば、彼らのギャグは、ギャグそのものというよりも、ギャグの分析であり、「解剖」である。実演販売の売り子よろしく、観客に対して、彼らはひとつひとつのギャグの仕組みや機能や使用法を丹念に、方法的に、網羅的に、実証してみせる。

 ジョークで人をからかうかわりに、彼らはすべての人にジョークを「見せ」、懇切丁寧に説明し、解剖してみせた。はい、ここでハーディー氏が歯痛に苦しむローレル氏のためにお湯をとってきてあげようとベッドを這い出します。はい、ここでベッドとバスルームの間の床を見てください。鋲が落ちていますね。はい、ここで堂々たる体格のハーディー氏が甲斐甲斐しくやってきますが、身に迫る危険を感知していません。はい、ここでハーディー氏が鋲を踏み、痛さのあまり大声を上げ、素足から錨を引き抜きます。……
(Walter Kerr : The Silent Clowns)

 彼らは、不意打ち的なギャグで笑いをとったり、めまぐるしくギャグを繰り出すことで観客にわれを忘れさせて“笑いの渦に巻き込む”ことを潔しとしなかった。観客に対して、理性的に、というのが言い方として正確でないにしても、少なくとも自覚的にギャグを味わうことを要求した。彼らのコメディーの「儀式」(カー)のようなスロー・テンポ、ギャグとギャグとを分断する独特の“間”(相棒ないし観客に対する目配せ的なクロースアップが挿入されることが多い)は、ここからくる。

 彼らの映画には典型的なパターンがあり、それは「ひとつのきわめてシンプルな状況が、方法的な進展にしたがって、そのあらゆる可能性において汲み尽くされる」というもので、その結果、「彼らは一連の小さな離れ業を為し遂げるのだが、それは一言二言で要約することができるにもかかわらず、実際には、本質的に言葉で語ることができない」(Jean-Pierre Coursodon : Keaton & co., Seghers, 1964)。たとえば、『極楽ピアノ騒動』(二人は長く狭く急な階段をピアノを担いで上る)で、彼らは「このような状況で思いつき得るあらゆる困難——および、思いつくことの不可能ないくつかの困難にさえ[階段の途中でなぜかゴリラと出くわしたりする]」遭遇する。「Hog Wild」においても、いわば、梯子からの“転落”というただひとつのギャグが、ひたすら反復され、変奏される。

 ギャグそのものはすべて使い古されたものばかりだが、そのかわり、彼らはひとつのギャグをあらゆる方向、あらゆる角度から、ためつすがめつ眺めまわし、ひっくり返し、なでまわし、なめまわし、徹底的に使い回し、しゃぶりつくす。彼らの映画で笑いを呼び起こすのは、ギャグの内容そのものではなく、このような反復の方法性、網羅性、偏執狂的な徹底性である。笑いは、もはや彼らが「何を」するかではなく、「どのように」するかということにもっぱらかかっている。音楽的な比喩で言えば、反復される主題よりもひとつひとつの変奏ないし展開のほうが重要なのであり、主題そのものは実は何でもよくて(たいていは借り物にすぎない)、その曲の価値をきめるのはもっぱらひとつひとつの変奏の方なのだ。
 たとえば、代表作の一つ『世紀の戦い』では、二人の人物の間ではじまったパイの投げ合いが、一投ごとに無関係な人を巻き込んでいき、ついには通り全体が壮絶なパイ投げ合戦の舞台となるに至る。ジェイムズ・エイジーはそのプロセスを次のように描写している。

 最初のうち、パイは、ほとんど哲学的といってよいくらいに深い考えに基づいて投げられていた。そのうち、罪のない傍観者がその渦に巻き込まれたかと思うと、たちまちのうちに大決戦場と化す。だが、すべてはきちんと計算されているので、映画の幕切れに大混乱が巻き起こるまで、ひとつひとつのパイがそれ独自の落ちを決め、それ独自の笑いをつみ重ねていく。
(ジェイムズ・エイジー「コメディーの最も偉大な時代」)

 最初はパイ投げというアクション自体のおもしろさが笑いの引き金になったのだとしても、同じアクションが延々反復されるうちに、そのアクションそのものからは笑いが抜き去られ、笑いはヴァリエーションの妙から生まれるようになる。

 ジャン=ピエール・クルソドンが彼らの映画のストーリーラインの特徴を明解に要約している。クルソドンによれば、ローレル&ハーディー(あるいはそれに典型的なハル・ローチ製作のコメディー)の二つの根本原則は、「単一のギャグのあらゆる形での変奏」と「典型的なリアクションが連鎖をなして漸進的に増幅していくこと」であり、その結果、それ以前のコメディーの「直線的な構成が、周期的に出発点に戻る循環的な進展、あるいはジグザグの進展にとって代わられる」。
 彼らの映画のストーリーラインは、それ以前のどたばた喜劇に典型的な、ギャグが次から次へと連鎖して、最後の落ちまで観客を一気呵成に導いていくようなスマートな直線を描かない。ひとつのギャグを慈しむように何度となく反芻し、そこからひとつひとつのヴァリエーションを紡ぎ出す作業に、高価な工芸品を彫琢する職人のようなきまじめさと律儀さと愚直さで淫しながら、のろのろ、ずるずる、いきあたりばったり、多方向的に、見苦しく歩を進めて行く。これこそ、彼らの映画が白蟻の芸術たるゆえんであろう。

この項つづく