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精神分析と映画をめぐる読書案内

スタンリー・カヴェルの『オペラ・ハット』論

*Stanley Cavell : What Photography Calls Thinking, in Cavell on Film  (State University of New York Press, 2005) ; Cities of Words
(Belknap Press of Harvard University Press, 2005)

 「写真が思考と呼ぶもの」の初出は1985年(Raritan 春号)。『眼に映る世界』(特に2章)と併せて読むことで、カヴェル映画論への恰好の入門的テクストとなるであろう。

 主な考察の対象となるのは、フランク・キャプラの『オペラ・ハット』。この作品は、『言葉の都市』でもほぼ同じ観点から取り上げ直されている。


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 金銭に執着のないお人好しのディード(ゲイリー・クーパー)が、急死した叔父の莫大な遺産をいやいや相続するはめになり、都会に出てくる。

 ときあたかも大不況時代。そこで失業者たちの窮状を目の当たりにし、彼らに職を提供するために遺産をつぎ込んで事業を立ち上げようとする。

 ところが遺産のおこぼれに与れなかった血縁者たちにはこれがおもしろくない。ディードの奇行癖を理由に、彼から財産管理権を奪い取ろうと裁判に訴える。ディードは失業者たちのために、自分が正気であることを法廷で証明せざるを得なくなる。

 ディードの数ある奇行のうち、まっ先に槍玉に上げられたのが、ときならぬ折にチューバを吹くという癖である。それに関するディードの痛快な弁論がこの作品のクライマックスになっているのだが、その弁論が映画のカメラの特性を見事に活用したものであることにカヴェルは注意を促す。

 ディードによれば、自分がチューバを吹くのは、考え事に没頭しているときに人が無意識に特定の動作をしたりするのと同様の癖なのであり、したがってチューバを吹くことは、自分が狂っている証拠ではなく、逆にものをよく考える人間(哲学者?)であることの証拠である。

 ディードは、それを証明するために、その場にいる裁判官や証人たちの癖をひとつひとつ数え上げてみせる。いたずら書きに耽るともなく耽っている人、しきりにペンを手で弄んでいる人、神経質に顔をしかめている人、等々をカメラがアップで捉えると、そこにディードの「ヴォイス・オーヴァー」による解説がかぶさるといった具合。

 言われてみれば、彼らの行動の方がディードの罪のない癖よりもよほど狂人とか幼児に近い。法廷に列席している人でさえ見逃してしまうような些細な身ぶりをカメラがその精密なレンズで容赦なく写し取るたびに、癖を見抜かれた人たちは、必死でそれを隠そうとするが、その行為そのものがディードに有利な証拠となってしまう。

 カヴェルによれば、ディードは動物の身体とは異なる、人間の身体だけに固有の真理を見極め、これを弁論に大いに活用している。

 その真理とは、「身体とそれがともなう精神がつねには一致しない」ということであり、人間の身体は本人の意図を忠実に伝えるものではなく、逆にすぐれてその意図を裏切るものであるということだ。

 デカルトは、思考が「精神が精神自身に対して現前していること」、つまり意識されたものであるとし、それゆえに、「私はいま考えている」(われ思う)と口にするたびごとに自分がたしかに存在していることが確認されるのだとしている。

 一方、エマソンによれば、人間は自覚的な言葉によって自分の考えを代弁させることができない。人の思考は、言葉ではなく、「すがた、態度、身ぶり、物腰、顔や顔のパーツ、人体の動き全体」、つまり身体をとおしておのずからあらわになる。それゆえ、私の考えを読みとることができるのは、私の身体に向けられた他者のまなざしであるほかはない(私の考えを私自身が知るのは事後的なことにすぎない)。

 そして、その精度において人間の視覚をはるかにうわまわる映画のカメラこそ、そうした他者の眼を究極的に体現するものであるとは言えまいか。とするなら、映画の発明以来、カメラがコギトにとって代わったのだとは言えまいか。つまり、「われ思う、ゆえにわれ在り」というデカルト的命題は、いまや「カメラが回っている、ゆえにわれあり」と言い換えられて然るべきではないのか。

 ただし、カヴェルはそうした断言にはとりあえず留保を置いている。

 デカルトにおいて、思考の証明は、思考がそれみずからを疑えないということにあった。エマソン以後、思考の証明は、思考が隠すことができないということにある。
 私は、このことを知るためにカメラが必要であると言おうとしているのであろうか。デカルトは、「私が『私は考える』と言うたびごとに、あるいは心のなかでそう思うたびに」私の存在が証明されると述べている。私は、カメラが回っているたびごとに(そのときにのみ)私の存在が証明されると言うべきなのであろうか。ここでしばらく猶予をいただきたい。私の考えでは、映画のカメラの発明は、すでにわれわれ[人類]に起こっていた何かを明らかにしているだけなのだ。その何かとは、われわれ自身がそれに抗う、われわれの存在についての基本的なことがらについての知である。[……]

 カヴェルは、写真の発明が人間の知覚のあり方を変えてしまったというようなテクノロジー決定論(『写真論』のスーザン・ソンタグのような)には与しない。写真および映画の発明は、人類古来のある願望をたまたま満たす条件を整えただけだ。これは、カヴェルがバザン(たとえば「完全映画の神話」)から継承し、『眼に映る世界』以来、一貫してとる視点である。

 これに続けて、上に述べたことのまとめ的なくだりが来る。引用しておこう。

 デカルトによる彼の存在の証明の代価が身体のつねなる後退であるとすれば(ある種の哲学的反-ルネサンス)、私の存在についてのエマソン証明の代価は自己のつねなる可視性、つまり、他者に対する、ひいてはわれわれ自身に対する私の現前に際しての演劇性ということである。カメラはつねなる可視性の象徴である。デカルト自己意識は、そのとき、困惑というかたちをとる。

 言うまでもなく、ここで言う「困惑」とは、カメラの眼を必死でごまかそうとする裁判官たちのそれにほかならない。

 ところで、ディードというキャラクターは、ゲイリー・クーパーという俳優の存在論的な寡黙さ(「はにかみ(shyness)に対する世界史的能力」)からインスピレーションを汲み上げている。言葉より先に拳固が出るこの寡黙な人物が法廷でついに沈黙を破るとき、彼はカメラの雄弁さに自らをすっかり委ねる。

 映画のカメラのメディウム的な特性を見極め、まさにこの作品を撮影しているカメラを見事に共謀者に仕立てている。

 人間の身体はもともと、その存在論な「落ち着きのなさ」(くだんの些細な癖)ゆえに、すぐれて運動性に満ちており、それゆえ映画のカメラとの共鳴(カヴェルはこれを somatograms と名づける)を呼びやすい。要するに、フォトジェニック被写体なのだ。

 クーパー=ディードがこのようなメディウムの特性を露にし、認知していることは、「アメリカ的な shyness の形而上学的活用」というべき快挙である。

 はにかみないし寡黙さとは、とりわけアメリカ映画がその歴史を通じて可能性を切り開いてきた偉大な映画的メディウムのひとつである。これについては『眼に映る世界』でテレンス・マリックの『地獄の逃避行』をコメントした注を参照してほしい。

 カメラの力におのれをすっかり委ねること。カヴェルはこの態度を新たなかたちの「勇敢さ」と呼ぶ。

 一方で、カメラに対するこのような完全な受動性は、ディードのすぐれて女性的な側面を明るみに出す。

 実際、キャプラのカメラは、クーパーの顔の美しさをおりにふれて強調している。のみならず、ベッドにしどけなく横たわる後姿を捉えたセクシー・ショット(?)まで用意されている。

 クーパーの女性的なポジションは、逆に相手役のジーン・アーサーの男性的な側面を浮き彫りにする。そのことによって、男女はかぎりなく似たものどうしとなり、ある種の平等性を帯びる。『オペラ・ハット』が再婚コメディーの一変種とされるゆえんである。