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精神分析と映画をめぐる読書案内

スタンリー・カヴェルのマカヴェイエフ論

*Stanley Cavell : On Makavejev on Bergman, in Cavell on Film (SUNY, 2005)

 1978年、ベルイマン映画の自作コンピレーションを携えてハーヴァード大学を訪れたドゥシャン・マカヴェイエフが「ベルイマンと夢」という講演を行う。

 「ベルイマンを論じるマカヴェイエフを論じる」は、これに立ち会ったカヴェルが、マカヴェイエフベルイマン論を手がかりにマカヴェイエフ自身の映画(『スウィート・ムービー』『WR』)を分析してみせた論文。初出は Critical Inquiry 1979年冬号。

 いくつもの問題意識を投げ込み、雑多なレフェランスを詰め込んだこの論文。それじたいがマカヴェイエフの映画さながらの壮大で混沌とした宇宙をなし、アナーキーなエネルギーを横溢させた怪物的なテクストだ。


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 マカヴェイエフベルイマンについてこんなふうにコメントしている。

 ときとして、ベルイマンの映画は映画というより書物のように見えることがある。「トーキング・ヘッド」が部屋のなかをうろうろするというだけの映画に見えてしまうのだ。とはいえ、ベルイマンの映画における台詞のないシークェンスは、内的な意味と夢のような雰囲気に満ちている。……しかしながら、それらの場面は、プロットの平凡さによって「覆いをかけられ」、登場人物の心理的緊張があいまいにしか理解できないようになってしまっている。……この緊張は夢のようなやり方で提示され、あの「やさしい不安さ」を呈しているが、非現実的なものが絶対的にリアルなものとして提示されるとき、この感じがいつも現れる。思うに、ベルイマンが台詞のないシークェンスを多用するのは、ダイレクトな台詞のようなやり方でこの不安を露にすることへの恐怖によるものである。

 ところで、マカヴェイエフの『スウィート・ムービー』にも、やはり現実と非現実のあわいをたゆたうような台詞の(ほとんどあるいはまったく)ない長いシークェンスが三つある。

 ソ連の女性兵士が二人のローティーンを誘惑して裸踊りをする場面、ウィーン前衛芸術家オットー・ムエールのコミューンが繰り広げる酒池肉林の宴の場面、カティンの森からナチスが虐殺された死体を次々に掘り出すアーカイブ映像がそれだ。

 カヴェルは、前回紹介した論文「写真が思考と呼ぶもの」でも、『フィラデルフィア物語』に関連づけてこの作品に触れている。それによると、『フィラデルフィア物語』におけるニュースとゴシップの「悪趣味」(distaste) な混同が『スウィート・ムービー』では全般化している。この作品が告げているのは、われわれはもはや真実と虚構を区別することができない世界に住んでいるということだ。

 誘惑は夢と解釈されることも可能だが、その必要はない。この場面は、われわれが目覚めているときに経験するもっと見栄えのしない、それゆえもっと些細な誘惑とどこが違うのか。……カティンの森のリアリティが堪え難いとしても、それをわれわれの夢から払いのけられないとすればどうなるだろうか。

 デカルトが『省察』で語っている、自由の身になった夢から醒めまいと努力した奴隷とは違い、夢見ることで現実から逃避することはもはやできないのだ。カヴェルはマカヴェイエフの映画をそれとはちがった種類の夢と関連づけている。

 マカヴェイエフの映画は、眠って見る夢よりも、いわゆる覚醒時に見る夢、トランス状態に関係が深い。[……]前者は夢の個人的で幻覚的な性質を強調する。対して後者は夢の公的で催眠的な性質を強調している。前者は夢および覚醒に至らない状態を宗教に結びつける。後者は夢を政治に結びつける。

 じっさいに『スウィート・ムービー』は政治映画である。

 『スウィート・ムービー』は、「早すぎた埋葬」という(ポー的な?)モチーフに憑かれた映画であり、そこからの「出土」=「再生」の可能性を模索している。マカヴェイエフにとって、当時のアメリカソ連は、それぞれの革命の失敗を糊塗するために、砂糖の寝床やチョコレートのシャワーで人々を窒息させようとしていた。

 アメリカにとってそれは資本主義的な消費の楽しみであり、ソ連にとっては革命という甘い夢の継続ということになるのだろうか。

 しかし、生き埋めからの再生は、「腐った世界」を直視することを強いるだろう。それゆえ、マカヴェイエフの根本的な問いかけは、この腐った世界にふたたびスウィートな味わいを取り戻させることができるのかどうかということになる。

 問題になっているのは、いわば食の倫理なのだ。

 腐った世界に甘美さを取り戻すには、二つの行き方がある。

 (1)拒食症的態度。アメリカは革命への夢を放棄した。しかし、食物を拒否することは、人間の条件を超越しようとすることである。

 『スウィート・ムービー』では、これはカロル・ロール演じるミス・アメリカによって体現されるが、ほかに『断食芸人』『叫びとささやき』『赤い砂漠』『彼女について私が知っている二、三の事柄』が参照される。

 (2)カニバリスム。ソ連は革命の夢から醒そうとする分子を抹殺した。これは他者の否定である。

 殺人鬼アンナ船長がこれを体現し、カティンの森の虐殺が人食いとしてイメージされる。

 拒食症もカニバリズムも世界の否定につながる。同じ穴のムジナなのだ。マカヴェイエフはどちらの陣営に対しても容赦がない。


(1)の解決策

 世界を味わうものとしてではなく、眺めて慈しむものへと転換すること。

 世界という異物を呑み込みたくないという拒食症には、このような心的態度が内在している。それをつきつめ、世界との間にあえて距離を置くことによって、世界に触れたいという欲望を再び生み出すこと。

 ニーチェは男性にとっての女性の魅力をそのように説明している(『悦ばしき知識』)。男性が女性という他者を追い求めるのは、女性が男性の内なる半身、「よりよい自己」を体現しているように見えるからだ。男性は失われた自らの半身を女性のうちに追いかけるのだ。

 そして、世界の存在を、この場にないものとして差し出す映画というメディアも、世界に対する同じ欲望を生み出す。

 カヴェルによれば、こうした欲望、あるいは「リビドー」による主体のいわば「遠隔操作による行動」(ニーチェ)は、映画の魔術的な起源を説明する要素のひとつである。

 さしずめ映画の発明は、ニーチェにとっての理想の女性像の実現なのだということになろう。映画発明前夜に狂死したこの哲学者もまた、ボードレールらと並び(『眼に映る世界』)、映画の「予言者」のひとりであるということか。


(2)の解決策

 カニバリスムは、味覚の変容を要求する。それによって、美味でもないものがおいしく思えるようになるのだ。そのような五感の変革ないし「新たな美学」、「新たな遠近法」を積極的に目指し、吐き気を催させる世界そのものを否定するのではなく、自分の吐き気と折り合いをつける方法を模索しよう。

 夢とカニバリズムという『スウィート・ムービー』のテーマから、カヴェルはほとんど唐突にチャップリンの『黄金狂時代』を参照する。

 『スウィート・ムービー』のコンセプトと雰囲気とから、『黄金狂時代』が連想される。『黄金狂時代』はカニバリズムの脅威から笑いを引き出している。チャップリンは幻覚のせいで彼を感謝祭七面鳥だと思い込む荒くれ者の同宿者の想像力を、自分自身の想像力からはっきり区別する。チャップリンは靴を食物に変え、食物を靴に変えることができる。これは真のサバイバル術を証明する行為だ。荒くれ者がみていると思われる夢は[眠って見る夢と同じで]、犬がウサギの夢を見るのにひとしい。『黄金狂時代』から判断すると、文明を夢見ることと、さしせまった必要性を儀式的な宴(feast)とアートへと練り上げることは、みずからの子供時代、あるいは子供っぽさ、そして自分と他者を隔てる距離と他者の尊厳(splendors)を受け入れることを要求する。[……]荒くれ者の閉所熱(cabin fever)は、それ自体カニバリズムを表現しているが、それは彼が飢えているからだけではなく、彼が自分と一緒に飢えている小男の理解不可能な想像力を許せないからだ。この他人が自分とちがっているという謎に耐えられないのだ。彼はこの違いを体内化しようとしている。

 過酷な現実から夢に逃避する同宿者に対し、チャーリーのシュルレアリスム的な機転はサバイバルのための夢である。それは「アート」と呼ばれる。

 カヴェルのアクロバティックな連想はなおもとどまるところを知らない。チャップリンから、今度はハーポ・マルクス底なしの欲望へとカニバリズムのテーマを横滑りさせ、マルクス兄弟アナーキズムがオットー・ムエールのコミューンのそれになぞらえられるに至ったかと思うと、グルーチョの「ユーモア」がチャップリンの「アート」と並ぶ倫理的態度として称揚される。

 彼らのユーモアは、それゆえ、世界を憐れむあまり自殺してしまわないための努力を表している。[……]グルーチョのだじゃれへの好みは、彼のキャラクターの深遠な特徴である。というのは、彼のだじゃれがいつも可笑しいからではなくて(可笑しくもないことがよくある)、社会が使い方(意味)を押しつけるコインを拒否するというリアクションをきっぱりと表しているからだ。それゆえ、ユーモアは、ヒロイズムの道徳的等価物となる。(他者を体内化したいという願望を、ホラー仕立てではなく、上質のユーモアにくるんでテーマにした素敵な曲が二つある。「スウィート・ジョージア・ブラウン」(「彼女は色を塗ったわけじゃない。生まれつきそんな色なのさ」)。それと「ハニーサックル・ローズ」(「きみは甘いお菓子……」)だ。私が身につけてきた教養は、モンテーニュの深遠な関心事がファッツ・ウォーラーのよどみのない歌のなかにしばし憩いを見出すといった体のものである。)

 世界が狂っているからといって、この世界の外に生きることはできない。世界が押しつけてくるわけのわからないルール(「ヒエログリフ」)をいったん受け入れたうえで勝手に読み換えて、そのルールそのものを骨抜きにしてしまうことで、狂った世界が多少とも居心地のいいものに変わるだろう。グルーチョによる意味ずらしによる言葉の「流用」(ギー・ドゥボール)が高度に政治的な意味あいを帯びていることは言うまでもない。


 『スウィート・ムービー』の感動的なラスト。カティンの森から虐殺死体が掘り起こされる映像が、繭のようなビニールにくるまれ、川岸に並べられた登場人物たちの遺体にオーバーラップする。と、死体がもぞもぞと動き出し、次々に棺から体を起こしはじめる。この「再生」の場面は、カティンの森における発掘行為を、死の事実確認ではなく、早すぎた埋葬からの救出と大胆に読み換える可能性を示唆する。「甦った」俳優たちのうち、画面手前に映った少年(アンナ船長に誘惑された少年)がカメラの方を見ると、ストップモーションがかかり、音声が消えると同時にモノクロ画面にカラーが浮かび上がる。

 少年は画面の外に目をやる。つまり、マカヴェイエフは、少年に画面の外を見るよう、自分のほうを見るよう指示する。非難するように見よというのでは必ずしもないが、問いかけるように見よと。マカヴェイエフは自問しているのだ。私の映画は生まれ落ちたあとも生き永らえられるだろうか。ここまで続けてきた撮影を終えるにあたって、この作品に生命をあたえたことを確認できるだろうか。それとも、私は、生きた人間を使って、彼らの声をおしつぶし、彼らを彼らの死んだレプリカ、セルロイドに包まれたミイラに変えただけか。少年は画面の外の男を見る。その男は少年の人生経験について質問し、経験したことのない誘惑に少年をさらした。その男の人生について少年は逆に質問する。もしぼくがかつての無垢なあなたなのなら、あなたの芸術を作りあげた野心をぼくがまだ抱いているのなら、いまや、恐怖に満ちた世界を肯定している大人であるあなたは、ぼくがどんな世界を望めるようにしてくれたのか、あるいはどんな誠実さと美とをぼくが肯定できるようにしてくれたのか。マカヴェイエフが作品をこのような問いに委ねる危険を冒し、少年が遺言を受け取り、自分のなれのはてである大人の自分を許したことは、黒っぽく染色された画面がカラーへと花開くことによって表現されている。作品は生命へと連れ戻され、作者へと連れ戻される。俳優が監督を許すことは、マカヴェイエフが自分を許そうとしているということである——世界は実際よりもよくはないという事実と引き換えに。そして、世界をよりよくしたいと思う者は、そのような世界の落とし子として、自分のほうから働きかけなければいけないという事実と引き換えに。それは世界のなかで新たなはじまり、新たな動きを模索するための最良の基盤である。

 「死と再生」というテーマは、この作品を一連の再婚コメディーに近づけるだろう。

 このラストに希望を見出すか絶望を見出すかは観客の判断に委ねられる。陰鬱なモノクロームからカラーへの移行は前者をほのめかす。しかし、動きと音の消滅は後者をほのめかしもする。

 ここで最初の引用に戻ろう。ベルイマン映画の台詞のない場面から大いにインスピレーションを汲み上げているマカヴェイエフは、同じベルイマン映画の(やはりいかにもベルイマン的な)台詞劇の側面を、どちらかというと揶揄的に、「トーキング・ヘッド」という言葉で語っていた。しかし、『WR』の幕切れには、文字どおりの「トーキング・ヘッド」、つまり喋る生首が出てくる可笑しくも物悲しい場面が用意されていることをカヴェルは見逃さない。

 いかなる時代においても、映画の可能性は、その時代における人間のあり方(humanness)以上でも以下でもあり得ない。セラピーの目的に喋る首(talking head)を使う可能性以上でも以下でもあり得ない。われわれの首と体が一致しないかぎり、われわれはゴルゴンなのだ。神々と同様、われわれは人間の手前にいるのだ。

 頭部と体が一致しないモンスターであることは、ナルシシズム的な自己完結を許されない、神なき時代の人間の条件であるということらしい。