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精神分析と映画をめぐる読書案内

スタンリー・カヴェルのテレビ論

*Stanley Cavell : The Fact of Television, in Cavell on Film (State University of New York Press, 2005)

 『ルーツ』、『ダラス』の大ブレイクをきっかけに全米のブラウン管を連続ドラマが征服しつつあった頃に書かれ、いま読んでも読みごたえ十分のテレビ論。

 カヴェルの映像論のなかでも重要なテクストのひとつであり、特に『眼に映る世界』と併せて読まれるべきテーマをもっている。初出は Daedalus (1982年秋号)で、その後『課外の諸主題』に収録され、『カヴェル映画論集』にも再録された。

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 テレビの本質を定義するにあたって、カヴェルは映画のメディウムとの対比に訴える。

 ここで言い添えておけば、カヴェルはいつものようにテクノロジー決定論あるいはメディア本質主義に与しない。問題になっているのは、人間の知覚のいくつかのありようであり、それらのいずれかが特定のメディアでは強調される傾向があるということにすぎない。ましてやどちらがすぐれているかなどは問題にしていない。

 『眼に映る世界』においては、映画の物理的基盤がこう定義されていた。

 連続的な自動的な世界の投射
(a succesion of automatic world projections)

 一方、カヴェルはテレビの物理的基盤を次のように定義する。

 同時的な出来事の受容の流れ
(a current of simultaneous event reception)


 この定義を構成する言葉のうち、(1)「同時的」(2)「出来事」
(3)「流れ」については説明が必要だろう。

 ちなみにカヴェルはテレビのメディウムにとって放送(broadcasting)という要素は二次的であると見なし、テレビとそれに大きな影響をあたえたラジオとの存在論的な異質性を強調している。


 (1)同時的

 録画テープが高価だった時代、テレビは基本的に生中継であったことを思い起こそう。

 スタジオで起こっていることを鏡で映すように即時的に、無媒介的に茶の間に届けるテレビは、視聴者がカメラを媒介させずにスタジオの人たちとじかに対面しているような幻影を強化する(「他者たちのカメラへの現前とわれわれへの現前の間に何も割り込まない」)。

 それゆえ、テレビは「仲間の提供」という機能を果たす。「他人たちがそこにいる」、他者とつながっているという安心感を生み出し、自分は一人ではない、あるいは「一人であることはつらいことではない」と確認させる機能をもつ。

 テレビにあふれる「トーク」は、この幻影を支える手段だ。「トーク」とは本質的にモノローグであり、言われる内容よりも何かが言われることそのものが重要であるとされる。実際のトークのみならず、番組のフォーマットそのものがトーク的である。


 (2)出来事

 テレビは、「世界」を「出来事」(事件)として表象する。つまり、日常を非日常としてドラマ化する。

 そもそも人間には、日常よりも非日常に引かれる傾向がある。

 自分の生きている世界をわかりやすく把握したいという欲求から、世界を演劇化してとらえようとするのだ(『眼に映る世界』の「カラー」の章も参照)。

 しかし、テレビでは、出来事(事件)が「何も起こらないこと(事件のなさ uneventfulness)」のように見え、ほんらい一回的で想定外で珍しいものであるはずの出来事なるものが、「反復されたもの」、「反復的なもの」「親しみのあるもの」のように見える。

 カヴェルによれば、映画の本質が「見ること」(viewing)であるのに対し、テレビの本質は「モニタリング」である。

 ビルの管理人がときどき目をやる監視モニターを考えるとわかりやすい。

 監視モニターの役割は、変わったこと、見慣れないことが起こっていないことを確認することだ。事件(出来事)を目撃すること自体が目的なのではなく、事件(出来事)が起こっていないことを確認することこそがほんらいの目的なのだ。

 それゆえ、テレビには、世界を事件に仕立てようとすると同時に、新奇なものを敵視し、締め出そうとする逆方向のバイアスがかかっている。

 それに寄与するのが本質的に反復可能なフォーマットにほかならない。あり体に言えば、コンテンツがフォーマットを決定するのではなく、フォーマットがコンテンツを決定するということであり、しかも、それが絶対的な要請になっていることが重要なのだ。

 フォーマットをはずした「スペシャル」を謳う番組でさえ、そこで起こった「スペシャル」な出来事(たとえば、バレエの奇跡的な名演)から再利用を前提したフォーマットが生み出されることによって、その出来事の一回性を事後的に消してしまう。

 テレビのホストは、新奇なものを見慣れたものにしてしまう(安心感の供給)。

 カヴェルはこうしたフォーマットの支配ゆえにテレビを批判しようとしているのではない。逆に、テレビのメディウムにとって本質的なこういう反復可能性をつきつめたところにテレビの美学的な可能性が見出せるかもしれないとほのめかしている。

 監視モニターに話題を戻すと、たいていフィックス・ショットであるモニターの映像は、それゆえ本質的に多数的であり、監視人の視線は、それら複数のモニターをたえず往復する必要があるため、映画館の観客のように、単一のスクリーンと向き合い、熟視するということができない。

 それゆえ、テレビの視点は本質的に断続的なのだ。テレビでは「切り替え(switching)」が映画における「連続」にとって代わっているのだ。「切り替え」ゆえの散漫な視点がテレビというメディアには内在している。

 そして視聴者がテレビ画面に見ているのは、「世界」そのものではなく、製作者の眺めているモニターの画面である。

 テレビの本質である「モニタリングの条件」を明らかにすることで、テレビは美学的な価値をもち得るだろう(ある種のヴィデオ・アートがしているように)。

 ところで、テレビで放映される映画がスクリーンで見る映画と本質的に異なる点はどこか。

 カヴェルによれば、テレビでは、受像機がスクリーンとしてではなく、ムーヴィオラとして使われているという。視聴者は観客というより、モニターであり、編集者なのだ。

 ここでもカヴェルは、上映される映画とテレビ放映される映画の優劣を問題にしようとはしていない。

 むしろ、放映された映画ならではの可能性をつきつめることで、そこからクリエイティブなものを生み出せると考えているようだ。

 シンフォニーのピアノ編曲版が単なるスケールの縮小にとどまらない「再組織化」(reorganization)であるように、テレビ放映された映画はほんらいの映画とは本質的に別のメディアたり得る。
 
 逆に言うと、テレビ的なフォーマットを映画として「再組織化」する可能性さえ、あり得ないことではないとカヴェルはほのめかしている。


 (3)流れ

 さしあたって「流れ」と訳しておいた current には、「現在の」という意味あいも込められているようだ。

 カヴェルは、テレビの連続ドラマの物語話法を古典的な物語話法と比較して次のように述べている。

 古典的な物語話法は、ある状況がある出来事によって崩され、新たな状況が再確立されることで発展する。

 一方、連続ドラマの物語話法において、出来事は、状況を切断し、変化させるはたらきをするのではなく、ひとつの同じ状況を、発展なしに持続させるためのアクセントとして機能している(出来事が「何も起こらないこと(uneventfulness)」に帰着する)。

 この意味で、連続ドラマの物語話法は「非弁証法的」である。

 さらにカヴェルは、連続ドラマの放映時間(物語の時間が視聴時間よりも短い)が、「歴史を免れる」可能性、少なくとも、従来の(小説的に)ドラマ化された歴史概念を変えてしまう可能性を示唆している。


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 「テレビの真実」は、こんなふうに面白い指摘にあふれている。以下は若干の落ち穂拾い。

 すでに触れたテレビの演劇性という話題に立ち戻るなら、カヴェルはニュースの朗読の演劇性が、ニュースそのものの真偽にも増して切実な問題であるとほのめかしている。
 
 あるいは、映画にすると「テレビのように」見えてしまうバレエオペラが(ベルイマン魔笛』など)、テレビでは面白く見られるのは、これらアートの特殊な様式性をテレビの演劇性が際立たせるからかもしれないと述べているところなども興味深い。

 さらに、コマーシャルがいわゆる「番組」よりも面白いことがあるとの指摘。

 それゆえカヴェルは、コマーシャル、各種スポット、テストパターンなどの break が、単なる中断ではなく、テレビのメディウムに本質的であるのではないかと考える。

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 論の最後で、カヴェルは、当時の知識人たちが表明していた「テレビへの恐怖」を、テレビの低俗さへの嫌悪として片付けるべきではないと警告している。

 その「恐怖」には、ある「テレビの真実」が反映されているのであり、その恐るべき「真実」からゆめゆめ目をそむけるべきではない。

 では、その「真実」とはどのようなものなのか?

 カヴェルは、テレビが第二次世界大戦直後、すなわち強制収容所原子爆弾の存在が明らかになった直後に登場したことは偶然ではないのではないかとほのめかす。

 つまり、テレビには「人類が人類そのものを滅ぼす可能性」を告げる力が宿っているかもしれないのだ。

 映画はこの世界が住むに足る場所であるという確信をあたえてくれる。これは『眼に映る世界』の最大のテーマである。

 『眼に映る世界』は、自然が私よりも生き延びることは確かであるといった文句で結ばれていた。

 カヴェルはテレビがそれを否定するかもしれないとほのめかす。

 「テレビへの恐怖」は、こうした漠とした予感への恐怖なのだ。