alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネーのテレビ論(1)

*Serge Daney : Beauté du téléphone, in Devant la recrudescence des vols de sacs à main, Aléas Editeur, 1991.

 カヴェルのテレビ論が発表された5年後の1987年、リベラシオン紙上でセルジュ・ダネーによるテレビ批評の連載がスタートする。

 ダネーもまた、シネフィルとしての立場を出発点にしてテレビというメディアにアプローチした。

 ダネーのテレビ論においてことのほか有名なのは、「イメージ」と「ヴィジュアル」という二項図式ではなかろうか。

 ヴィジュアルとは、純粋に技術的な機能の光学的確証である。ヴィジュアルには切り返しショットがなく、何ひとつ欠けたものがなく、閉じている。ポルノグラフィックな見せ物が性器の機能の、そして性器の機能だけの、恍惚的確証にすぎないのにやや似ている。イメージ(映像)、われわれが卑猥なまでに愛し抜いた映画館のイメージ(映像)は、むしろ逆である。イメージはつねに二つの力の場の境界に身を置き、ある種の「他者性」を証言するべきものである。つねに堅固な芯をもっているにもかかわらず、つねに何かが欠けている。イメージはつねにそれ自身以上か以下なのである。
(「強いられたモンタージュ」)

 「イメージ」は映画の映像であり、「ヴィジュアル」はテレビの映像であると単純に理解してしまってよいのだろうか。

 ダネーは、映画なりテレビなりのメディウムを本質化してしまっているのだろうか。

 たしかにダネーには、映画とテレビの関係をゴリアテダヴィデのそれにかなりあからさまに重ね見ていたところがあったと思う。

 とはいえ、映画に対してテレビを貶めていたのだろうか。そうではなかろう。


                 *

  1950年代のテレビの台頭期、少なからぬ映画作家がそこにみずからの映画作りの理想のかたちを見出した。

 ルノワールロッセリーニなど、なまの現実をフィルムに定着させることを指向する映画作家たちにとって、複数カメラと生中継という条件は、映画撮影につきものの束縛をついに逃れさせてくれるように思われた。

 しかし、ダネーが「テレビは現代映画を完成した」と書くとき、そこには大いなる皮肉がこもっている。

 すべてを見せる。これがテレビのメリットであったはずだ。しかし、テレビは何かを見せることによって、別の何かを覆い隠してしまうことが徐々に明らかになりはじめた。

 ところで、すべてを見せるというテレビの使命を見事に裏切ってみせた喜劇的ともいえるイベントが、湾岸戦争である。

 CNNは「生中継の戦争」を高らかに謳った。しかし、夜間の空中戦を中継する画面には、ほとんど何も映っていなかった! ミサイルの砲弾だけが虚しくとどろき、ときおり閃光が走るだけの薄暗い画面を、世界中の視聴者が白痴のように長時間見守った。そのとき、テレビ画面はある種の抽象絵画にかぎりなく近づいていた。


 あなたはバグダッドで「何も見なかった」。

 しまいに、湾岸戦争は「起こらなかった」と言い出す者まで現れた。

 実際、湾岸戦争は歴史を何ひとつ変えていない。 

 ダネーも述べている。「湾岸戦争は、ゴダールのような人が過去十五年間にわたって繰り返し述べていたことを単に確認させてくれただけだった」。

 つまり、「一般的にテレビは映像で動いているのではない」という事実である。


                *

 以下の抜粋は、1991年1月23日、つまり国連軍による空爆開始から6日後の日付をもつ「電話の美」という文章からのものである。

 疑いもなく、われわれが視聴し(regarder)ていた時間に戦争が起こっていたのだが、それはわれわれが戦争を目撃し(voir)たという意味ではない。むしろ、戦争が聞こえたというべきだろう。バグダッドの真っ暗な夜に向かってホリマンが小型録音機を向けたことは、「報道」(l'info)の歴史に残るエピソードになりかねない。とはいえ、爆撃されたバグダッドの真相を伝える映像が欠如しており、人はそれをいまだに一度も目撃していないということをわれわれはちゃんと理解しているであろうか。
 「生中継の戦争」を目撃することは幻想である。それは『トップ・ガン』でトム・クルーズが搭乗する戦闘機の機内に自分も居合わせたいと願う一兵卒たちの幻想であるだけでなく、われわれの文明がすっかりその餌食になっている容赦ない覗き見趣味を欲すると同時に嫌悪する黙示録口調の道徳家たちの幻想でもある。どちらの幻想も失望させられる恐れが大きい。テレビ画面を前にしたわれわれにとっては、ワーテルローファブリスと同様、戦争はなににも増して抽象的なものなのだ。この不可避的な抽象性の見返りとして、「事後的に」大量の戦争映画が撮られもするわけである。自分が経験したこと、経験しなかったこと、他の人たちが経験したことを、あとから理解するために。そうしたことをもっとも得意とするのは、やはりアメリカ人である。というのも、彼らはもっともシニカルだからだ。CNNのタイトル画面をあなたは見ただろうか。ゴールドと血の色の文字で War In The Gulf と謳っていたのを。まるでシュワルツェネッガー主演の heroic  fantasy か何かのように。まったくもって胸が悪くなる。このように前もってスペクタクルを神聖なものに祭り上げてしまうことは、イラク政府との deal にじゅうぶん匹敵するおこないである。
 この戦争は、たぶん、魔法使いの弟子たち[=手に負えない事態を引き起こす人]が、ポーカーの勝負[のはったり]みたいに、「試しに」起こしてみただけの戦争なのだ。これを起こしたら、「その後」世界地図がどう変わるか見てみるために。いまのところ、われわれが目撃しているのは映像ではなく、テレビ曲のスタジオのセットと、アナウンサー(speakers)の顔と、鉛色の空を舞う閃きと、バグダッドワシントン、パリとリャドを結ぶ「22 à Asnière」[テレビで人気を博した芸人フェルナン・レーノーによる電話回線を題材にした有名なネタ]である。スペクタクルとして見ることができるのは、あらゆる場所を結ぶ接続網(connection)だけだ。同時に、戦争が起こっていなければ、偉大なフェルナン・レーノーへのオマージュはかなり感動的なものであっただろう。ともかく忘れてはならないのは、テレビは新聞雑誌や映画の親戚ではなく、電話の親戚であるということだ。
 たぶん、われわれがおかれているような時代においてこそ、映画が何の役に立つのかを理解することができるのだろう。他者についてのひとつの観念(よいものであれ悪いものであれ、正直なものであれ悪意のあるものであれ)をもつことである。テレビはどうかというと、われわれの破壊用機材がいかにすぐれているか、およびわれわれの「完璧な」外科手術への夢がいかにすぐれているかということの証人としてわれわれを立てるのだ。パトリオット機がスカッドミサイルと鬼ごっこをしているのを映したものを映像と呼ぶことができるだろうか。できはする。ただし、もっぱら、ヴィデオ・ゲームが映像であるという——狭い——意味においてだけだ。つまり、われわれ(北半球にいるわれわれ)は、映像がもはや権力の視点だけからのものでしかない、つまり、切り返しショットのないショット(切り返しショットを無効にするショット)しかないような時代に突入したということなのだ。われわれがテレビ画面に見ているのは、電子的破壊行為が繰り広げられている青ざめた小スクリーン[=テレビ画面]なのである。われわれが住まっているのは映像の文明ではなく、画面(écran)の文明である。われわれの正面には古風ゆかしきサダム・フセインが、決闘すべき相手、あるいは牽制すべき相手として、依然として他者の姿で控えている。そこから、捕虜になったパイロットたちを使った演出がでてくる。この映像は、こちら側から見ると、野蛮そのものに映る。イコン的テロリズムだ。他者の顔の不在に、いまや、他者がさらしものにするわれわれの歪められた[顔]が応えるのだ。
 というのも、どんどん不透明になっていくもうひとつの画面が、われわれを南半球から切り離すからだ。南半球でも、アラブは、——これはまったくもって惨事なのだが——自らの映像(イメージ)を、自分たちを軽蔑する者たち(われわれ)を通してしかもてない文明であり、不幸にもそのことが意味をもっている。というのも、こちら側から見ると、戦争がヴィデオ・ゲームにすぎないとしても(そのヴィデオ・ゲームにおいては、地元の傭兵のおかげで、われわれの武器どうしが戦いを繰り広げている)、南半球から見ると、自殺的で集団的な取っ組み合いの現場なのだ。その切り返しショットは、やがて起こると確言されている地上戦である。こちらの映像は、おなじみのものである。

 実際に地上戦はこの文章が掲載された23日にはじまったが、勝敗がほぼ瞬間的についてしまったのは周知のとおり。