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精神分析と映画をめぐる読書案内

マニー・ファーバーのゴダール論:マニー・ファーバーの批評(6)

Jean-Luc Godard, in Farber on Film, 2009, The Library of America

 サミュエル・フラー論の前年にあたる1968年に、同じく Artforum に発表されたゴダール論は、質量ともに充実の論考。

 このあと、70年に入ってからのファーバーは、主としてパートナーのパトリシア・パターソンとの連名で、ファスビンダーヘルツォークニコラス・ローグといったヨーロッパの作家の映画や、マイケル・スノーらの実験映画を論じるようになっていく。


 まずは冒頭。

 ゴダールの一本一本の映画は、当然のことながら、その外見においても質においてもきわめてヴァラエティーに富んでいる。合成樹脂で塗装されたパネル(黒板)のような(Formicalike)彼の最近の作品のひとつのなかで、黒板にアフリカの動物のリストがさりげなく掲げられている。キリン、ライオン、ワニ。監督業のキャリアを終えるときには、おそらく百本くらいの映画を撮っていることであろうが、その一本一本が奇妙にも相異なった種(species)であり、そのそれぞれが途方もなく特徴的な骨格、腱、羽毛をそなえていることだろう。頑固で、執拗で、機敏で、博学で、口達者でお茶目な人格がその作品にはあふれ出しているが、カメレオンみたいに、作品の内容に応じて茶色であったり、緑色であったり、『カラビニエ』におけるようにツチスドリ(mudlark)のような灰色であったりするのだ。すでにゴダール動物園をひとつもっている。そこに飼育されているのは、ピンクのインコ(『女は女である』)、黒ダイヤのように輝く蛇(『軽蔑』)、鳴き声をあげる鶴(『はなればなれに』)、野うさぎ(『カラビニエ』)、モノグラムのにせウミガメ(『勝手にしやがれ』)である。[……]ゴダールは新種の創造者であり、彫刻におけるロバート・モリスの近い親戚である。無気力への嫌悪においても、<メディウム>への深い傾倒においても。軽快に歩き回り、一文無しで旅立ち(start clean)、うしろを振り返らない。これが行動作法(code du corps)である。

 さすがというかやはりというか、ゴダール映画の動物学的な側面から切り込んでいるところにファーバーの署名があきらかである。

 撮るものを極端に単調化し、最小限化し、空白化してしまうゴダールの「平板化の技術」ないしは「眠気を誘う能力」。諸刃のやいばであるこうした才能(あるいは才能の欠如)が功を奏しているかどうかが、ファーバーにとって評価の分かれ目になる。

 ファーバーの見立てによれば、ゴダールの生み出した「獣」たちのうち、最悪のものが「あらゆる時代をつうじてもっとも眠気を誘い、うぬぼれに満ち、鈍重な映画」である『女は女である』であるとするなら、「驚異的な純粋さ」に到達した作品として絶賛される『女と男のいる舗道』が(表向き)最高の達成であるということになるようだ。

 『はなればなれに』は「よい映画」、『カラビニエ』は「美しいがよくない映画」に分類され、『中国女』については始終皮肉にあふれた調子でコメントしているものの、救うべきところは救っているという感じ。たとえば、

 退屈とその付属物——変化のなさ、無気力、ミスを受け入れる寛大さ——は、ゴダールの映画をその本来の居場所につれ戻す。その居場所とは、純粋な抽象である。ゴダールの調子が文句なしにいいとき、彼の退屈さがいろいろなキャラクターやイメージを生み出して[観客の]心のなかに目を見張るような効果をいつまでも残し、あれほどまでにゴダールの映画の核心である病的なつまらなさ(nullity)が説得力をもつにいたる。つまるところ、『中国女』にきらきらしたユーモアをもたらしているのは、ほかならぬ、いやというほどの生気のなさ(deadness)である。ヴェロニクと彼女の恋人が、テーブルをはさんで、書き割りのように嘘くさいヴィクトリア朝式のエレガントな雰囲気のなかで腰掛け、優雅に紅茶を注ぎ合っている。この場面は隅から隅まで、子供向け絵本の愛すべきギミックのようである。頁をめくるとイラストが立体で飛び出し、頁を閉じるともとの二次元に戻るというあれである。テーブル越しにぼんやりしたまなざしを投げながら、ヴェロニクが「エトセトラ」と言い、ギヨームが同じ抑揚のない声でこの言葉をくり返すと、一音一音が弱く、絡みつくようなエルマーのねばつく音を帯びはじめるのだ。

 究極の2D映画としてのゴダール映画に実は3D的要素があった!? なるほど。

 ファーバーの批評の魅力のひとつは、ときとしてシュールな次元にまで飛躍するその描写の才能だろう。ジェームズ・エイジーの天才を想起するまでもなく、すぐれた映画批評は生き生きした描写なしに生まれない。このゴダール論においても、ファーバーの画家の眼は随所にいかんなく発揮されている。

 仮にほかに何ひとつなし遂げなかったとしても、ゴダールは、優雅で、ぎこちなく、低能の変わり者たちの一団を生み出したことで記憶されることだろう。考えられるかぎりスケッチ風に素描された役柄を自由気ままに演じながら、この人物たちは、『ディック・トレイシー』に出てくるチン・チラーかアンディ・キャップのように見え、歯並びに至るまで明確に造型され、ぎこちない足もとからトチ狂った頭までをスクリーンにさらけ出している(頭のおかしさは、いつも戯画的な小道具で強調されている。たいていは帽子かウィッグであるが、たまに、猥褻なまでにデカイ目玉のこともある)。
 こうした人物のひとりであるアルチュール(『はなればなれに』)は、毛編み帽を鼻のところまで下ろしてジム・ソープふうの悪人面のほとんどを隠した、格子柄のセーターのさえない恋人役である。三人組のなかの紅一点の心を射止めたラッキーボーイでありながら、くつわ鎖につながれ、腹を空かせたエアデールテリアのように執念深い目つきを保っている。クロード・ブラッスールがこのアルチュールを、くすねてきた消火器のようなしゃちほこばった卑屈さで演じている。
 これとは別の種類の、とはいえ同じ程度のクレージーさで、これに勝るとも劣らぬ詩情をかもし出しているのが、ヴァンプふうのメーキャップに古着屋であつらえてきた衣裳を重ね着してこぶ状に着ぶくれした『カラビニエ』の人物で、カトリーヌ・リベーロが年増になったギッシュ姉妹の片割れのように演じている。クレオパトラはしゃれのめし(primping)、おどりはねる(prancing)原始人(primitive)さながらであり、小汚い地区のはずれにあり、昔の映画で日めくりカレンダーがめくられていくみたいに手紙を吐き出す郵便受けのある薄暗い掘建て小屋の主婦である。
 レミ・コーション(『アルファヴィル』のエディ・コンスタンティーヌ)は、敵側にはリチャード・ジョンソンという名で知られているが、傷んだワッフル焼き器でつけたような皺の刻まれた食用ガエルであり、低所得層向けの無個性な「計画」団地のように融通が利く。彼の役柄は、廊下や部屋を歩きまわり、階段を上り下りすることに尽きているが、いつも、ないも同然の唇を噛むか、洪水のように押し寄せるライトの攻撃に目をしばたたかせているかのどちらかである。
 ケイリー・グラント演じる戦場の英雄のタップダンサーのようなのんきさに比べると、『カラビニエ』の低能な戦士ミケランジェロユリシーズは、建物から落ちてきた出来損ないの重たい煉瓦である。[……]監督のゴダールは、露天商さながら、スーツケースに詰め込んだぜんまい仕掛けの人形をひろげてみせて、おきまりのちょっとした曲芸を披露させる。

 次は文章のおしまい近く。

 こうした曲芸のいずれかが説得力をもつかどうかはゴダールにとってはまったくどうでもいいことだ。未成年の兵士が女性の捕虜を型通りに脅し、銃の先でスカートを器用に上げ下げしているところほど、不自然でいらいらする反戦的場面はない。軍隊の下劣さの告発(raking-under)というべきメッセージを込められたこの場面は、強姦の退屈で(slow)無作法な視覚的メタファーであり、家に火が放たれるところで終わっている。この場面のうちでもっとも珍妙なのは、大惨事がまったく無表情に遂行されることだ。「服のボタンをはずせ」と女性に命令するときのとぼけたさまが大いに強調され、これが壁にかかったレンブラントの自画像によってさらに際立たせられる。陵辱の雰囲気を出すどころか、それとは逆の感じが醸し出され、まるで隣の住人が砂糖を借りに立ち寄る場面か何かのように演じられている。トーンと内容のこのような容赦のない乖離がこの場面にグロテスクな空気を流れさせ、空想された漫画のような感じがスクリーンから漂い出、スカートが彼女の人格の中心部まで上げられていることによって、[アルベール・]ジュロスのぼんやりした流し目ともども調子はずれの邪悪さが表現されている。

 生真面目な編集者が書き足したかのような、わりと型どおりの論調だが、ここから先がポイントのようだ。

 彼[ゴダール]はぞんざいさと無骨さの達人である。彼はジュロスのまぬけな無能さを利用することで、アンチヒーロー的なとんまな銃剣の先の曲芸を生み出す。この種のどつきや表に表れない悪意は、彼の見事なまでに病的な(brilliantly deseased)メッセージの核心にある。

 要約的な締めくくりとオチ。

 映画史へのゴダールの遺産にすでに含まれているものを挙げるとすれば、奇妙な道化(clown fish)の一団と、知的な役立たずたちと、のらくら暮らしの生き生きしたコミュニケーションと、郊外のじめじめした屋敷に対する洗練された趣味と、どんな女優も人形かセットの一部に変えてしまえる能力と、怒りのエネルギーに満ちたいくつかのすばらしい固定画面と、リストのはてしない列挙である。思うに私はこれほど眠気を誘う力に満ちたシーンを目にすることはないであろうし、何も訴えかけてこないこれほど多くの大袈裟な言葉を耳にすることはないであろうし、ひとつの明白な観念の核心をつき、そこにあくまでしがみつく脚本に出会うことはないだろう。あるいは、敬虔さに満ちた態度で口にされた上品で高貴な言葉を耳にして、あるいは目にして、これほど啓発されることはないだろう。一言で言えば、ほかのどんな映画作家も、これほどまでに執拗に自分が間抜けなロバだと私に感じさせたことはない。

 ファーバーの批評にはほめているのかけなしているのかわからないものが多いとの発言を読んだことがあるが、まさにそんな感じ。


                 *


 若干の落ち穂拾い。

 ——『勝手にしやがれ』の核心はベルモンドのキャラクターとか編集のリズム云々ではなく、空港でのインタビュー場面であり、これがのちのゴダール映画のマトリックスになっている。

 言われてみれば、という指摘ではある。あるいは、

 ——ゴダールは「ものの映画作家」(thing director)である。

 ネーミング自体は陳腐だが、物体に魂をこめることのできるポランスキーとは逆の意味で、と断っているところで納得がいく。

 同じ1968年、やはりArtforum誌上に『中国女』のレビューも(『昼顔』のそれと抱き合わせで)掲載されている。『中国女』が微に入り細を穿って批判される一方で、『カラビニエ』がやけに持ち上げられているのが目を引く。

 いまや言うべきときである。『カラビニエ』は美しいと。Wretched Orchid あるいは Bleak Blouse 以来、もっともすばらしい荒涼とした写真(画面)であると。不吉で好戦的であるどころか、この擦り切れてほころびのある寓話は、チャーミングで(likable)、大地の匂いがする。凍りついた川、ゴッホの糸杉が立つがらんとした広場、日曜の朝のハイキングに出たボーイスカウトのような気分に満ちていて、男たちが、茂みのナメクジを見つけた子供たちみたいに敵のパルチザンの隠れ場所をつきとめる。

 「ポチョムキンふう」の外套を着込んだ「ゴム製のアヒルミケランジェロがファーバーはよほどお気に入りらしい。

 バスター・ラングドンふうに額の髪を手でかきあげ、ホッケーのクラブのように足を動かすこの俳優は、愚かさとサディズムと地の塩とをただひとつに集約した形態のうちに体現している。

 スタンリー・カヴェルのハーポ・マルクス賛を思い出した(『眼に映る世界』法政大学出版局刊)。