マニー・ファーバーのサミュエル・フラー論——マニー・ファーバーの批評(5)
* Samuel Fuller, in Farber on Film, 2009, The Library of America.
マニー・ファーバーの名文より。
今回はサミュエル・フラー論をよもう。
チェスター・グールドほどのスタミナも影響力もなく、ファッツ・ウォーラーのように無限にクリエイティブでもないが、サム・フラーは意図されたものではない魅惑に満ちた映画を監督し、その脚本を書いている。その映画にはいくつもの美点がある。抒情、真の意味での偶像破壊、意識せずに醸し出されるユーモアといったものだ。
これは冒頭。三つの固有名詞の並べ方をみてほしい。一行目からファーバーの文章であることが歴然としているではないか。
次は、ファーバーもフラーの代表作と認める『拾った女』についてのコメント。
ウィドマーク演じるスキップという人物が満員の地下鉄の車両に仕事をしに行く場面には、このような軽々したタッチと、構成されたものと瞬間への注視との見事なバランスがみられる。『スリ』のブレッソンも、このダイレクトさと鮮烈さには遠くおよばない。フラーはカットを細かく割ったり、トリック撮影にたよることなく、カメラを据えつづける技量の持ち主だ。素早くカメラにおさめられていくのは、どれも強烈な印象を残す乗客たちの顔、ウィドマークの骨ばって皮膚の薄い童顔、車両内で獲物のジーン・ピータースににじり寄っていくウィドマークの動き、世にも思いがけない細かいショットによって示される、彼の手がアザラシの感度のよい水かきのようになって新聞の下に潜り込み、ハンドバッグのなかに差し入れられるさま。この場面のユーモアは、女性を尾行している最中に思いもかけずプロの掏摸の仕事現場を目撃することになった二人のFBI捜査官の、あっけにとられた仰天ぶりからも醸し出されている。
註釈を入れておくと、ジーン・ピータース演じる女性は破壊活動家の愛人で、極秘のマイクロフィルムを所持している。
動物の比喩はファーバーのトレードマークといえよう。これは「白蟻」の章でも述べた。この文章でも存分に駆使されている。
たとえば、フラーお気に入りの俳優で、「スクリーンでかつて見たことのあるなかでもっとも田舎じみた(がさつな)男の一人」であるジーン・エヴァンズの「グロテスクな動物性」。
『鬼軍曹ザック』の冒頭、さいしょは塹壕からヘルメットだけをのぞかせている彼がおもむろに顔を見せるところが亀に、あるいは、この映画のなかでたえず口にくわえている葉巻(!)から煙を吐き出すさまが鯨目になぞらえられる。
ちなみに、アザラシという比喩は文学史(文化史)のなかでも好まれてきたもののひとつであろう。
続きの部分。
この映画にはいかしたイメージが山盛りだが(大通りを横切る若い女性、川べりの掘建て小屋のなかで立ったままビールを飲むウィドマーク)、そういうイメージはいつもフラーのトレードマークである親密さ[coziness]から生まれていて、観客の注意を釘付けにする。アパート代わりのちっぽけな巣ないし隠れ家。ベッド代わりのハンモック。冷蔵庫代わりの河に沈められた箱。やむことのない暴力。その暴力には、ジーン・ピータースを殺しかけたあとでウィドマークが歯を剥いて親しげにニカッと笑ってみせることも含まれる。フラーの集中力は、子猫の好奇心に似たところがある。ピータースのよさは、彼女のヒステリックな反抗や無邪気でとどまるところを知らない饒舌が、女優の小芝居以上にひとりの女性の憂いや薄幸さをよく表しているところだ。
仏語訳を参照すると、coziness が「具体的なディテールへの感受性」と意訳されている。
次は『鬼軍曹ザック』をコメントしているパートでの意表をつく指摘。
そのみすぼらしく、特徴のないセットと、自分を賢いと思い込む下層階級の主人公たちと、原始性(カット割りの不在、俳優の演技の不在、ワンテイクで撮られたはじめからしまいまで荒々しい挿話)において、『鬼軍曹ザック』は、同じようにプロパガンダふうのゴダールの映画を先駆けている。むきだしでなにもないセットから、数枚の紙切れに書きつけられ、小さな新聞のように映画のなかから送りつけられた、おおげさで、ひねりまくったメッセージにいたるまで、フラーのみすぼらしい登場人物たちは、ゴダールにとってのサンタ・クルス近辺での戦争を戦っている同じくらい阿呆な登場人物たちの、手に負えない従兄弟である。舞台となっている国はどこの国とも知れず、二人ともにそのキャリアを通じ、二つの世界に股をかけている人々、正常と異常(『ショック集団』)、ブルジョワと革命家(『中国女』)のあいだに股をかけている変節漢たちへのオブセッションをもちつづけている。
少し先には、『赤い矢』でロッド・スタイガーが呪文のようにくりかえしつぶやく I don't like Yankees. 云々が、『ウィークエンド』でジュリエット・ベルトが吐き捨てる呪詛の言葉(「あんたたちは私の恋人を殺した。かれはハンサムでリッチだけど、あんたたちは不細工だ」云々)になぞらえられるというアクロバティックな一節もみえる。
フラーは際限のないサディズムに純粋な詩情を溶け込ませようとしたさいしょの人のひとりである。このサディズムは無邪気に、クロースアップで表現されるが、その舞台は田園詩ふうのノスタルジーに浸されていて、そこにはまだ神話の世界がかいま見えているのである。
コローの絵のような田園風景でくりひろげられる『赤い矢』の冒頭などにそれが確認されるという。
美術への言及は、これにとどまらない。『拾った女』でセルマ・リッターが尋問の末に殺されるうらぶれたアパートの部屋からダイアン・アーバスの写真が連想され、『鬼軍曹ザック』のジーン・エヴァンズの、重力を視覚化したかのような重々しい足取りが、ブリューゲルによる松葉杖の農民のデッサンになぞらえられるといった具合だ。
説明的でない構図の作り方(『赤い矢』)、他ジャンルのアートでは不可能な純粋に映画的なテクニック(アニメーションで示される矢の軌道)、ナンセンスな台詞や人物名など、ほかにも目を開かれる指摘は数多い。
この文章は1969年に発表された。やはり同じ時期に、ハワード・ホークス、ラオール・ウォルシュ、ドン・シーゲルらについて、それぞれの仕事を回顧した秀逸な作家論が発表されている。追って紹介しよう。