alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

ロバート・ウォーショーの「悲劇的英雄としてのギャングスター」

* Robert Warshow : The Gangster as Tragic Hero, in The Immediate
Experience
, Harvard University Press, 2001. 

 ロバート・ウォーショー(1917-55)は、Commentary、The Partisan Review などに寄稿していたエッセイスト、批評家。

 その主な文章は、論集『ダイレクトな経験』にまとめられている。現在、スタンリー・カヴェルの解説的文章を付したリニューアル版(2001年刊)が入手可能。

 論じられている対象は、クリフォード・オデッツ、アーサー・ミラーからチャップリンヨーロッパ映画(ドライヤー、ロッセリーニ)、コミックス Krazy Kat までと幅広い。

 (カヴェルをパクって)わかりやすく言うと、アメリカベンヤミンみたいな人、というスタンスになろうか。

 じっさい、マスカルチャーの意義の評価、都市と群衆への問題意識、マルクス主義への共感から、ユダヤ出自、そしてルックスにいたるまで、この二人のあいだには共通点が少なくない。

 狭義の映画批評家ではなかったものの、今回紹介する、文明批評的な味わいに満ちた「悲劇的英雄としてのギャングスター」(1948年)、およびその姉妹編とも言うべき「映画の年代記西部の人」(1954年)は、映画批評の絶対的古典としての名声をほしいままにしている。

                 *

 ジョージ・ワシントン以来、アメリカ人の人生の目標は「幸福の追求」にあると言われてきたが、ウォーショーはこの思想のイデオロギー性をするどく衝く。

 現代国家の隠れもない役割は、少なくとも究極的には、さまざまな社会関係を調整することだけではなく、human life 一般の性質とさまざまな可能性を定めることである。このようにして幸福は主要な政治問題となる。——そしてまさにこのことゆえに、幸福はいやしくもひとつの問題として取り扱われることができないのだ。もし一人のアメリカ人なりロシア人なりが不幸であれば、この事実は彼の帰属する社会に対する一種の異議申し立てということになり、それゆえ、こうした論理にしたがえば、われわれはみなハッピーであることの必要性を認めていることになり、ハッピーであることが市民としての義務となるのだ。

 まさに生-政治。驚くほど現代的な権力論ではないか。

 ウォーショーは、アメリカのマス・カルチャー、なかでもギャング映画のうちに、こうした状況へのアメリカ人の無意識の抵抗を見出そうとする。

 ギャング映画で描かれるのが暗黒街に跳梁するじっさいのギャングたちである必要はない。重要なのは、スクリーン上のギャングスターアメリカ人の観客にあたえる「感情的および美学インパクト」、つまり、ある意味で典型的な現代アメリカ人であるギャングスターに観客が心のなかでみずからを重ね、ギャングスターという現実をダイレクトに「経験」するプロセスである。

 ギャングスターの反アメリカニズムは、いわばアメリカニズムを完璧に体現することで、その本質を暴き立ててしまうことにある。たとえば、ギャングスターにとり憑いた成功へのオブセッション

 典型的なギャング映画は、手がたくのしあがっていく上昇のプロセスとそこからの急激な転落を描いている。そのような物語のなかで、暴力そのものが成功への手段でもあれば成功の実体でもあることが明らかにされている。——もっとも一般的な言葉によって定義された成功、つまり、出世とか特定の利得などではなく、単純に、無際限の暴力を生み出す可能性として定義された成功である。

 成功とは、他人を蹴落とし、排除する暴力をともなう。これは成功のひとつの結果ではなく、成功の本質そのものだということらしい。

 また、ギャング映画の舞台となる都市。都市もまた、現代世界の悪を集約する空間である。

 ギャングスターは都市の人間であり、都市の言葉を喋り、都市のことをよく知り、都市の狂った不誠実な手練手管とおそるべきむこうみずさを身につけ、おのが命を手づかみにして看板のように、棍棒のように持ち歩いている。ほかのあらゆる人にとっては、別の世界の可能性が理屈のうえでは存在する。[……]しかしギャングスターにとっては、都市しか存在しない。彼は都市に棲みつき、都市を具現する。じっさいの都市ではなく、想像のなかの危険で哀しい都市であり、そちらのほうがずっと重要なのであって、それは要するに現代の世界そのものである。そしてギャングスターも——じっさいのギャングスターがいはしても——、同じように、そして何を措いても、想像のなかの生きものなのだ。現実の都市は犯罪者しか生まないが、想像のなかの都市はギャングスターを生む。ギャングスターはわれわれがなりたいと思うものであると同時に、なることをおそれるものでもある。

 次は圧巻の結論部。

 『暗黒街の顔役』のオープニング・シーンで、われわれは一人の成功した男を目にする。彼が成功者であることは、いましがた豪勢なパーティーを開いたことによって、ビッグ・ルイと呼ばれていることによって、おのずからわかる。魔が差したように警戒心を解いて、彼はしばしの間、ひとりになる。これを見てわれわれはただちに、彼がすぐに殺されることを悟る。ギャング映画の掟のうちでもこれほど容赦のないものはない。ひとりになることは危険だという掟である。とはいっても、成功という状況そのものが、ひとりにならないことを許さない。成功はつねに「一個人」の卓越ぶりを他の人たちに認めさせることであるはずだから。この状況のなかで、成功は自動的に憎しみをかき立てる。成功者とは無法者なのだ。ギャングスターの全人生は、みずからを個人として認めさせること、みずからを群衆から抜きん出させることであり、彼は個人であるという理由でつねに死ぬ運命にある。最後の銃弾の一撃が、彼を背後へと押し戻し、結局、彼の人生を失敗に終わらせる。「なんてこった(Mother of God)」と死にゆくリトル・シーザーはつぶやく。「これがリコの最期なのか?」——このように自分を三人称で呼んでいるのは、消え去ってしまおうとしているものが、ひとしなみの「人間」ではなく、一個の名前をもった「個人」そのもの、「ザ」・ギャングスター、「成功」そのものであるからだ。自分自身にとってさえ、彼は想像のなかの生きものなのだ。T・S・エリオットの指摘によれば、シェイクスピア悲劇の主人公たちの多くも、このように自分を演劇的にながめる秘訣を心得ていたという。[……]実のところ、ギャングスターが破滅するのは成功へのオブセッションに憑かれているからであり、彼が用いる手段が法に外れているからではない。現代人の深層意識のなかでは、「あらゆる」手段は不法であり、成功へのあらゆる試みは暴力行為であって、ひとを孤独にし、罪にまみれさせ、並みいる敵のなかで孤立無援にする。ひとは成功ゆえに罰されるのだ。これこそわれわれの無慈悲なジレンマである。失敗はある種の死であり、成功はといえば邪悪で危険で、究極的には不可能なのだ。ギャング映画のおよぼす効果は、ギャングスターの人格にこのジレンマを体現させ、彼の死によってそれを解消することである。ジレンマが解消するのは、それが彼の死であって、われわれの死ではないからだ。われわれは無事なのだ。

 なんだ、古式ゆかしきカタルシス理論じゃん、と高をくくることなかれ。この文章で参照されているのが端的に文学ジャンルとしての悲劇であることをお忘れなく。「悲劇的英雄」と訳したタイトル中の言葉は、「悲劇の主人公」でもある。このへんのエスプリを味わいたいもの。

  そして、あまりにも痛烈な締めくくりの一節がくる。

 しばしの間、われわれは失敗に身を委ねることができ、失敗することを選びとることができるのだ。

 ギャング映画は、幸福という全体主義的な価値観に窒息させられそうなアメリカ人が、いっとき破滅という贅沢な夢に耽ることのできるオアシスなのだ……

 スタンリー・カヴェルは、上述の解説文のなかでウォーショーの「経験」というキーワード哲学的な意義を読みとっている。そのカヴェルが1963年、ハーヴァードで映画の授業を始めたとき、最初に使った教材が「悲劇的英雄としてのギャングスター」と「映画の年代記西部の人」であった。

 カヴェルの名高い映画論につけられた『幸福の追求』というタイトルの含意をつくづくかみしめたい。