alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

マリ=ジョゼ・モンザンの映画論

*Marie-José Mondzain : Images (à suivre), Bayard, 2011.

 モンザンはフランス哲学者。10世紀の偶像破壊運動に対抗して書かれたニケフォロス2世の神学的文書の翻訳と註釈により注目を集め、この時代の偶像破壊論争への深い知見を武器に、よりアクチュアルな問題をも視野に入れた広汎なイメージ論を精力的に展開している。ジャンルイ・シュフェールやユベール・ダミッシュよりは若く、ディディ=ユベルマンと同世代だったと思うが、やはり美術史と映画と哲学精神分析)に通じた論客として、彼らと同じくらい注目されている。四方田・堀編『ゴダール・映像・歴史』(産業図書)の豪華な執筆陣のひとりとしても名を連ねているが、本格的な映画論を出したのははじめて。

 掲げられるテーマは、あらゆる意味における poursuite(追跡、探求、口説きストーカー、告訴)、およびその行為がともなう持続、距離、未決定性(suspens =宙吊り状態)。

 このおおまかなテーマのもとに、チェイス、群衆、祝祭性といった映画になじみの深いモチーフをめぐって、連想の赴くまま、ゆるやかな筆致で、スケールの大きな省察がくりひろげられていく。

                *

 全体がエッセーふうの本書のなかでも、「フォローされた映像[images suivies]」と題された最初の章はいちばん断片的でとりとめがないが、なかで目を引くのは、『糧なき土地』についての長いコメントだ。

 あからさまに道徳的・宗教的あるいは優生学的な意味づけに満ちた『糧なき土地』のナレーション(タイトルも)は、ブニュエル自身による映像の解釈ではなく、映像と音響の分離という映画の存在論的な条件を利用して、逆に映像そのものからそのような意味づけをはぎ取り、映像をして純粋に「政治的な暴力」(=貧困)を告発させようとするブニュエルの「賭け」であったとされる。

 この作品を同情や神秘主義のモードで受け取ることはできない。ここには言葉(le verbe)と映像(l'image)のあいだに乖離がある。つまり、キリスト教からの乖離があるのだ。

 要するに、キリスト(すぐれて似姿=映像)が神の御言葉をちゃんと「受肉」していないということだろう。ブニュエルキリスト教に対するアンビバレンツを、いわば映画媒体そのものが内包する反キリスト性によってとらえようとするのはおもしろい着想だ。

 『糧なき土地』は神の摂理と[優生学的な]科学に向けられた兵器(machine de guerre)である。

 ちなみに、モンザンの訳したニケフォロス2世も、イコンの聖性が、その可視性(モデルの描かれた姿)そのもののうちに宿るわけではないという主張に賭けて聖像を擁護したのだった(否定したのではない!)。そのかぎりでニケフォロス2世は反キリスト教的であったことになる。

 第2章は「狩り」と題されている。

 チェイス(もしくはハント)というモチーフがむかしから映画で好まれてきた理由は、このモチーフが映画のメディウムそのものに内在しているからだ。

 つまり、映画とはカメラで被写体をどこまでも追いかけ、被写体に肉薄しようとする営みである。とはいえ、映像は被写体を忠実に写し取りつつも、ついにそれは現実の被写体そのものではない。被写体への欲望を無限にかきたてつつ、それにじっさいに触れることを許さない。(こうした条件ゆえにクリスチャン・メッツは映画がフェティシズム的な状況を純粋化するとしたのであった。)現実を確実に射程に収めつつ、それにけっして追いつけないというこうしたパラドクスは、アキレスと亀のそれにもなぞらえるべきものである。

 ここにモンザンは映画の狩猟学 (cynégétique)、あるいは映画という狩猟術の特異性を見出す。
 
 ちなみに、こうした逆説は、フロイト的な無意識のそれでもある。モンザンもさすがにこの点を見落としていない。フロイトの考えでは、夢に現れる謎めいた映像や言葉は、精神分析による解釈が可能だが、あくまでその解釈は無意識の謎への最終的な答えではあり得ず、その解釈それ自体がさらなる解釈を必要とするひとつの謎にとどまるのである。かくしてフロイトがその遺作で口にしているように精神分析とは「終わりなき」営みなのであり、無意識とは所詮、無限に近づいていくことしかできないものなのだ。

 そして、このような条件は、狩猟術の前提をなす「追うもの/追われるもの」という二項図式を内側からつき崩さずにはいない。たしかに、ミイラ取りがミイラになる式の話がスクリーンで何度物語られてきたことか。

 モンザンはドゥルーズガタリが有名にした「蜜蜂と蘭」の話やラカン擬態論などに言及し、ドゥルーズラカンの意外な親近性をほのめかしてみせたりしている。

 『若き日のリンカーン』、『疑惑の影』、『鳥』、『狩人の夜』、『勝手にしやがれ』、『泳ぐひと』、『Solution』(キアロスタミ)、『Tropical Malady』(アピチャッポン・ウィーラセタクン)、『GERRY』などなど、ランダムに選ばれた事例がわりとざっくりコメントされていく。

 第3章は、「行き当たりばったりのキャスティング」と題され、群衆ないし民衆という、やはりむかしから映画になじみのあるモチーフが扱われる。

 この章では、poursuite というテーマが、「来るべき民衆」の模索というかたちで変奏されているのだといえばよかろうか。

 群衆はフォトジェニック被写体である以前に、映画館に集う観客そのものがひとつの群衆である。のみならず、映画はあらゆる共同体を支えているフィクションを提供することができる。

 映画は社会的・政治的に共有されたあらゆる世界のMitsein(共生)を支えるのに必要な信仰(croyance)を生み出す。美学は、こうした共有以外の倫理をもたず、あらゆる共同体が必要とするフィクションを機能させることを目指している。 

 こうしたフィクションを可能にするのが、映画におけるキャスティングの本質的な恣意性である。これは、スクリーンでは無名の顔が映えるという映画のメディウムそのものに結びついた事実であって、そういう無名の顔には観客ひとりひとりが容易に自分を重ねることができるのだ。

 ベンヤミンランシエールに大いに色目を遣いつつ、モンザンは映画におけるキャスティングの本質的な恣意性が、誰でも権力の座につけるという民主主義そのものの孕むパラドクスランシエールによる「籤引き」礼讃)に通じる高度に政治的な問題であることを論じていく。

 事例としてとりあげられるのは、『群衆』(キャプラ)、『群衆のなかのひとつの顔』(カザン)、『日曜日の人々』(ジオドマク=ウルマー)、『群衆』(ヴィダー)、『セブン』、『誰でもかまわない』[直訳は『行き当たりばったりの男』](ドワイヨン)といった作品。

 前二者は恣意的にキャスティングされた「俳優」がメディアを通して権力者に祭り上げられるという話であり、つぎの二つは文字どおり素人(ないし本職のエキストラ)を主役にキャスティングしている作品と、チョイスがちょっとベタか?

 最終章は短く、「宙吊り(suspens)とカーニヴァル」がテーマである。

 vacance という言葉は、ほんらい空位の状態、ないし宙ぶらりんの状態をさしている。ヴァカンスとしてのサスペンス、あるいはサスペンスとしてのヴァカンスとは、ヒッチコックが発見し、ロメールが深めたテーマであった……。

 ただし、ここでモンザンはサスペンス映画論を展開しているのではなく、ストライキや革命(デモも?)がもともとヴァカンス気分のなかで行われ、祝祭的な雰囲気にあふれた営みであることが、またしてもランシエールを引いて想起させられ、バフチンカーニヴァル論などへの目配せをちりばめつつ、ヴィゴの『ニースについて』が「カーニヴァル映画中のカーニヴァル映画」(Film carnaval)と高らかに命名されたかと思うと、「詩人たちの言葉のなかになにほどかの真理がふくまれているならば、わたしは生きていける」というゴダールの言葉が引用されて、ハッピーエンドというべき楽天性に満ちたしめくくり方で本書は閉じられている。

 結末の言葉はもちろん、(à suivre)[つづく、フォローせよ]。