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オーティス・ファーガソンのヒッチコック論

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*Otis Ferguson, Hitchcock in Hollywood, in The Film Criticism of Otis Ferguson, Temple University Press, 1971.


 オーティス・ファーガソンは、1934年から42年まで The New Republic で時評欄を担当していた映画批評家(43年戦死)。

 アメリカ最初の「大」批評家とされ、とくにジェームズ・エイジーとマニー・ファーバーにあたえた直接的な影響が指摘されることが多い。

 本ブログの第1回目で、マニー・ファーバーのつぎのような一節を引用したのをご記憶か。

 どうやらアメリカ人には、自国のもっともタフでもっとも正統的な才能を歴史が葬り去るに委せておくという特殊な傾向があるようだ。オーティス・ファーガソンウォーカーエヴァンズ、ヴァル・リュートン、クラレンス・ウィリアムズ、J・R・ウィリアムズをほぼ忘却の彼方に追いやってしまった同じ波が、いまや、大不況期以来の映画館にわくわくするような荒くれ者の映画をとぎれることなく供給しつづけてきた一群の人たちを呑み込もうとしている。
(「地下の映画」)

 ここでまっ先に名前の挙がっているファーガソンが現在のような名声を獲得するに至ったのは、その業績のかなりの部分を集めた評論集が1971年に刊行されてからのことにすぎない。

 流行語をちりばめた俗語表現、ユーモアとアドリブ満載の軽快なテンポ、ドライで簡潔なタッチ。ジャズ批評家としてもならしたファーガソンの文章は、よくジャズになぞらえられる。 

 ファーガソンが映画に求めたものもまた、ジャズ的な美徳であった。ファーガソンにとって、そんな映画の理想を典型的に体現するのがフレッド・アステアである。

 アステアがなににもまして手のうちにしていること、それはジャズというものの、かつてこの国に現れた最高の視覚表現である。俳優としてはダンサーであり過ぎ、パントマイムに近い。一方、ダンサーとしてはときとしてあまりに ballroomy である。しかし、複雑で、予期し得ず、たえず変化し、しかもシンプルなさまざまな人物像を、みたところ努力もせずに創造していく手腕は、バンドのホーンセクションとリズムセクションが一体化してビートを刻みはじめる瞬間さながらである。——このような能力において彼に比肩する者はどこにもいない。彼は飛び抜けて高級な才能をもっとも大衆的で月並みなアートにもたらしている。ジャズのいくつかの側面——そのハスキーなものがなしさ、ときとしてやかましいほどの力強さ——は、アステアにはない。しかし、その最良のエッセンスは、やさしい足音の sandman のナンバーや、山高帽に杖という出で立ちの男たちの隊列の足許を照らし出すライトが、ステージのリズムにのせてステップをスウィングさせるナンバーにおいて鋭く表現されている。フレッド・アステアは、どんな作品でどんなことをしようとも、ビートを生み出し、スウィングを生み出し、屈託がなくて反抗心みなぎる荒々しいリズムを生み出す。そのビートとスウィングとリズムは、陽気な無頓着さと無責任さにあふれているが、それはこの国が音楽の歴史に貢献することのできる最良のもの、最良のアメリカン・ジャズにつきものなのだ。
1935年10月2日)

 そしてここにもう一人、その「身のこなしと手さばき」ゆえに、ファーガソンをして「この男の仕事ぶりを目にするのは、音楽を聴くのに似ている」と言わしめた人がいる。ヒッチコックだ。

 以下、1940年9月16日付けの『海外特派員』のレビューより。

 ヒッチコックオランダの画家のようにディテールを愛し、セットをディテールでいっぱいにする。風車のすばらしい機械(ヒッチコックインテリアもかくや)、のしのしとうろつくグレートデーン、仕切りのついたランチ皿みたいな目をしたラトビア人、愚かしい婦人、全員がオランダ語を話す地元の警察、などなど。ヒッチコックはセットにそうしたディテールを詰め込むが、そのせいでストーリーがもたつくようなことはない。それに、すべてのものと人が筋に直接関係しているわけではないので、こんなに部品が多くても生き生きしているのであり、実生活で目にするような犬やさりげない通行人も、筋にまったく関係がないのにリアリティにあふれている。ヒッチコックエキストラひとりひとりを登場人物にしてしまう。
 そのほかにヒッチコックの得意とするのは、あなたを出し抜くこと(show you the little birdie)——つまり、あどけない顔の女性ややさしい老婦人が悪の化身だったり、狡猾そうな面相の男が実はいい人であるという設定を好む。この作品でも、ヒッチコックはいろいろな類型をシャッフルしているので、もはや常識的な見方は通用しない。[エドワード・]チャネッリ氏とその一味はじゅうぶんに陰険で、拷問室の場面は身震いが尾を引く。もうひとつのヒッチコックの得意わざは、風向きと逆に回転する風車、殺人者のカメラ、消え失せる車といった奇妙な機械学だ。そしてヒッチコックは、高いところや危険な場所であなたをこわがらせるのがすきだ。
 なににもましてすぐれているのは、サスペンスの効果をだすためにサウンドやものや人間を使いこなすセンス。それは画家の色彩感覚やミュージシャンの音感さながら。[……]ヒッチコックは風や雨を使うのがすきであり、自然の音楽や(雰囲気をだすためのスコアではなく。もっとも、この作品はそういう音楽であふれているけれども)、内容までは聞き取れない人の会話とか街の物音とか機械の立てる音とか、たんに風や雨が立てる音が背景に聞こえているのがすきである。ヒッチコックには、自分の思いえがいた効果を得るためにどこにマイクとカメラを置けばよいかがわかっており、多くの仕掛けを抱え込んだその複雑なアートの全体を完全に手のうちにしていて、誰かが人気のない建物や薄暗い路地に足を踏み込んだりしようものなら最後、出てこられないのではないかと本気でその人の身の上を心配してしまうのだ。
 それから集団の場面。動きのある場面であろうとなかろうと。映画を撮る人たちにとってもっとも習得がむずかしいことのひとつは、多くのもののうちのひとつだけに気をとられ、そこだけにスポットをあててしまわないようにする技術だ。それにもまして見事なのは、絶望的なまでにたくさんの人物が入り乱れるのにもかかわらず、焦点を見失ったり、結論が混乱してしまったりすることがないことだ。
 付けくわえるにユーモア。ヒッチコックはサスペンスがタイトすぎてはいけないことを心得ている。そんなわけで、いつもなんらかのばかばかしい side-talk が、よくその脇で進行している。この作品ではもっぱらロバート・ベンチュリーがコメディーリリーフを買って出ていて、ほかの人たちがたえずめまぐるしく飛びまわっているなかで、水運搬用荷車にあわてふためいて飛び乗ったり、海外特派員の仕事についてうんちくを傾けるところは、じっくり味わうべきポイントである。[……]
 一言で言うなら、およそ映画だけに特有な美を味わわせてくれるもっとも軽快でスピーディーな映画の旅を経験するにはどうしたらいいかを知りたいなら、この映画に一度足をはこんでみて、さらに見逃したところをたしかめ、あらためて研究するために、もう一度見に行けばいいのである。

 まとまりがいい文章だけにファーガソンの批評としては多少かしこまった印象があるものの、ディテールを即興的に列挙していくことで作品の空気を見事に伝えるセンスは、エイジーやファーバーに確実に受け継がれているといえよう。

 ファーガソンの評論集は現在のところ絶版状態だが、さいわい好アンソロジーAmerican Movie Critics (The Library of America, 2006)にこのヒッチコック論を含めた十数篇の文章が収録されている。

 さいわいにしてというか奇跡的にというか、ジャズ批評の一篇が村上春樹の手によって訳出されているとはいえ(『象工場のハッピーエンド』所収の「サヴォイでストンプ」)、ファーガソンについての日本語文献はほとんどない。そんななかで、『映画批評のリテラシー』(フィルムアート社)所収の濱口幸一氏による的を得た紹介文は貴重。ぜひ参照していただきたい。