alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネーのフィリップ・ガレル論

*Serge Daney : Ciné journal, 1986, Cahiers du cinéma.

 セルジュ・ダネーは傷だらけの批評家である。彼が批評家として活動していた時代は、映画がかつてなく不毛な時代であった。それ以前に、彼の世代そのものが深い政治的な挫折を味わっていた。さらに不幸なことに、その痛みを代弁してくれる芸術家を同世代にもたなかった。

 そんななかでダネーが同世代のただひとりの偉大な映画作家とリスペクトしていたのがフィリップ・ガレルだ。ダネーの仕事のなかでガレルへの言及はけっして多くないが、『秘密の子供』の時評はダネーの残したもっとも美しい文章ではないだろうか。

 1983年2月19日のリベラシオンに掲載された。ガレルの近作2本の公開にあたって読み直してみることにしよう。

 ひとりの男がじぶんのくるしみを伝えている。ひとりの映画作家がこの男はじぶんの世代のために証言しているのだと語っている。ひとつの経験がひとつの物語として書かれるべく格闘している。凍りついてしまうことがついにできず、いまだに熱を帯びた物語だ。これは映画なのだろうか。もしそうなのだとしても、『秘密の子供』は、フランス映画の世界でこんにち「うまくいっている」ものとはたいそうちがった見かけをしている。「くるしみ」「証言」「経験」「物語」。どれも評判がわるく、人を怖じ気づかせるふるくさい言葉だ。
 男はくるしみを味わったが、それほど不平を口にはしない(この男はダンディである)。かれの世代? 敗北した世代だ。もちろん。そもそも、われわれの世代なのだよ。経験? 泣きたいほどありふれたものだ。ふたりの元ブレッソンの役者(アンヌ・ヴィアゼムスキーとティエリ・ドゥ・モーブラン)によって演じられる、聖書ふうの名前をもった男と女(エリーとジャン=バチスト)。もしくは、パリの屋根の下での電気ショックとオーヴァードーズの出会い。ふたりのあいだには、ひとりのこどもという隠しきれない秘密。名前はSwan。白鳥のSwan[Swan-le-sygne]、ふたりにさずかった生の証し[signe  de vie(消息)]であり、生き残りの証しだ。ふたりのこどもたちのこどもだ。Swanはちょっと、ゆらめくスクリーンから生まれてきたような子だ。そして物語は? いまではもう誰も物語など撮らない。ひとつひとつの瞬間が火打石のように削られ、あるいは掌ですっぽりつつまれた小石のようにそっと触れられ、はじまりとおしまいがあり、そのまえとそのあとがある。

 すばらしい書き出しだ。このまま全文訳出したいきもちをぐっと抑え、ことのほかすきなくだりをもう一箇所引いておくにとどめよう。

 このフランスで、すべてをスペクタクルのために犠牲にしようなどと思うのはまちがいなのだ。なぜなら、フランス映画はスペクタクルをかなり苦手とし、経験を、そして実存的なことをとても得意にする映画なのだから。もともとそういうものなのだ。要約不可能な物語、航海日誌か日記から「引き破ってきた頁」のような画面、モノクロ、ヴォイス・オーヴァー。こうしたものがフランス映画をユニークなものにしているのだ。『愛の唄』、『スリ』、『オルフェの遺言』、『小さな兵隊』、『裸の少年時代』、『狂気の愛』、ユスターシュの全作品、そしていま『秘密の子供』。

 「ゴールデン・エイティーズ」が華やかに幕を開け、フランス映画は物語をじっくり語ることを放棄し、きらびやかなヴィジュアルだけを売りにしたバブリーな映画の全盛期に突入しつつあった。そのさなかに下されたかつてなく鮮やかなフランス映画の定義。

 ある小屋の最前列で神々しいモノクロ画面に見入ったのを思い出す。