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精神分析と同性婚の問題:最近の記事から

 フランスでは来年、同性婚(および同性カップルの養子縁組)がやっと合法化されそうだ。このところ、ファナティックな反対派のデモなども一度ならず報道されている。いうまでもなく、この問題をめぐっては精神分析関係者の発言もさかんである。

 そうした状況を受けて、「同性カップルの親(Homoparentalité):分析業界の人々よ、黙ろうではないか」というタイトルの記事が25日付けのル・モンド(電子版)に掲載されている。

 署名者はシルヴィ・フォール=プラジエ。『無意識の赤ちゃんたち:現代の女性の不妊を前にした精神分析家』(PUF, 2003)という著書がある。

 反対派のなかには、同性カップル子どもは単性生殖の幻想を育んで精神病になるとか、「原光景」に接することができないとか(原光景がじっさいの出来事であるかのように!)、象徴界の法を体現する父親がいないので規律のない破壊的な子どもになるとかの極端な意見があるそうだ。

 筆者によれば、これらの意見はいずれも「個人の自律的な心的生活」を否定するものであり、同じような議論が20年前に人工授精で産まれた子どもをめぐって展開されたことがあるが、根拠のないものであることが明らかになっている。

 象徴界への参入(symbolisation)は、われわれ自身のこころの能力であって、じっさいの家族組織の結果ではないとわたしはおもう。子どもを産むために親たちが払う大きな努力が[無意識を]構造化する効果を生まないことがあるだろうか。いま現れようとしているのは、養子であれ、人工的な手段の恩恵による生殖であれ、じぶんは「子どもを産みたいという欲望の子ども」であるという新たな原幻想の萌芽なのではないだろうか。

 ほかのヨーロッパ諸国ではじぶんの身体を自由にできる権利があるのに、フランスでは身体を自由にできないことが法律できめられている、と筆者の立場は相当にラディカルだ。けっきょく、臨床例が事実上ない以上、分析家が世論の代弁者や立法者を気取るべきではなく、「余計なことを言うのはやめようじゃないか」というのがかのじょの結論である。

 ラカン派のコーズ・フロイディエンヌのサイトにも、24日付けでクロチルド・ルグーユの署名になる一文が掲載されている。 題して、「“万人のための結婚”[mariage pour tous]を前にした精神分析」。

 現在、一部の分析家の言動により、精神分析ホモフォビアであるとの思い込みが広まりつつあることを危惧した内容。

 しかし逆に、「不適切にも“万人のための結婚”と呼ばれている法案をめぐって現在起きている議論は、フロイトラカンの後継者にとって、性的な選択は道徳的判断の対象とはならないということを示す機会となるであろう」と筆者は言う。

 “万人のための結婚”という名称がよくない理由はこうだ。

 精神分析にとって、“万人のための”はいつでも、おのおのの個人にとってしか意味をもたず、主体にそのひと独自の選択をせまる問題に背を向ける方法なのだ。

 個人主義の国フランス精神分析がはやるのも納得できる。

 なお、大統領同性婚支持を表明したアメリカでは、精神分析学会同性婚擁護の立場を正式に打ち出している。