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精神分析と映画をめぐる読書案内

<その後>の時:ジャック・ランシエールのタル・ベーラ論

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*Jacques Rancière : Béla Tarr, le temps d'après, Capricci, 2011.

 タル・ベーラの世界をハンディに概観できる好著をランシエールがものしている。おそらく最初のタル・ベーラ研究書のひとつだろう(フィルモグラフィー等はついていない)。ランシエールの映画論としてはかなり読みやすい。ランシエール映画論の入門にももってこいかもしれない。

 タル・ベーラの映画は大きく二つの時期に分かれる。『家族のねぐら』(1979年)から『秋の暦』(1985年)までの初期作品は、家族問題をみつめ、社会への怒りをストレートにぶつけたリアリズム路線。『刧罰』 (1988年)以後、れいの重厚長大なスタイルに変わる。

 タル・ベーラの映画がコミュニズムの挫折以後の絶望の世界についての“寓話”であるとはよく指摘されるところだ。

 やむことのない雨あるいは突風。晴れることのない霧。朽ちかけた建物。狂気に冒されたような不動で寡黙な人物。止まってしまったような時間。果てしなくつづく地平線。

 タル・ベーラの映画の舞台となるどこともしれない見放された土地は、なるほどコミュニズムの“廃墟”あるいは“砂漠”のようにみえる。

 しかしランシエールによれば、そこに終末論的なニヒリズムを読みとるべきではない。

 ランシエールタル・ベーラの世界に流れる時間を「その後の時」(le temps d'après)と規定するが、これは何かが終わったあとの時間という意味ではない。「その後の時」は、そもそもそのような継起的で直線的な時間もしくは物語的な時間とは異質の時間性であるのだが、タル・ベーラがデビューした70年末のハンガリーにおいて支配的であったのは、典型的に直線的で物語的な時間性、つまりコミュニズムの実現という究極の一点にすべてが収斂されるような目的論的な時間性にほかならなかった。

 タル・ベーラがそれに対置してみせたのは、いわばはるかに徹底した「唯物論的」な時間性であった。

 “その後の時”はふたたび見出された理性の時でもなければ、待たれていた厄災の時でもない。それはもろもろの物語の終わりの時であり、物語が計画された終わりとじっさいに到来した終わりを繋げてショートカットしてしまうそのあいだにある感覚的な生地にひとびとの興味がちょくせつ向かう時である。

 ようするに「その後の時」とは、物語における終末ではなく、およそ一切の物語なるものの終焉のあとにやってくるものであるようだ。

 ランシエールタル・ベーラを究極の「時間イメージ」に到達した映画作家と考えているらしい。

 「原因→結果」という因果性の論理に倣った物語的な時間性が機能しなくなったときに、世界の肌理そのものをなす純粋な時間性(=持続)が露わになり、ひとびとの感覚や情感を直撃するという、れいのドゥルーズ的ヴィジョン。

 かれがソビエト破局のあとにつづく時間(時代)の終わりを描く映画作家であるとかんがえてはならない。“その後の時”は、もはやなにも信じない者たちののっぺりした陰鬱な時間ではない。それはもろもろの純粋な物質的出来事の時間であり、人の生が信仰を保ちつづけるかぎり、その信仰はそうした出来事に向けられるのだ。

 タル・ベーラ自身が述べるように、かれの映画はいささかも「寓話」などではない。ぎゃくに、上のような意味でのラディカルなまでの唯物論なのだと言えよう。

 じっさいタル・ベーラの映画の真の主人公は、世界の感覚的な現前としての大地そのものである。

 人間が土地に住み、ものを使用するのではない。まずもののほうが人間のところにやってきて、かれらをとりかこみ、かれらに侵入する、ないしはかれらを追い出すのだ。それゆえカメラはおそるべき回転運動をしてみせ、まるで大地が動き出して、登場人物を迎え、かれらを画面外においやり、あるいはスクリーンぜんたいをおおいつくす黒い目隠し布のようにかれらのうえにおおいかぶさるような印象を生み出すのだ。それゆえにまた、セットはいつも、登場人物がそこに足を踏み入れるまえからそこにあり、かれらが通り過ぎたあともそこにあるのだ。

 タル・ベーラが描いているのは物語的時間の軛を解かれて「崩壊」した世界そのものであり、その映画のなかで展開するひとつひとつの「崩壊」の物語は、このようなより大きな「崩壊」という状況のなかの一エピソードにすぎないものへと還元される。

 あらゆる物語はおそらく崩壊の物語なのであろうが、この崩壊はそれ自体、雨の帝国のなかでの任意の一エピソードにすぎない。

 登場人物さえもこうした状況そのもののひとつの結節点でしかない。人間はそこでは徹底して無力で受動的な囚われの身であるようにみえる。

 直線的な物語の時間が終焉したあとで、あらたな出発にむけてのあらゆる試みは挫折し、その都度ふりだしにつれ戻される円環的な時間の無限地獄が人間を閉じ込めている……そんなふうに解釈することもできる。

 たとえば、『サタンタンゴ』と『ヴェルクマイスター・ハーモニー』の原作者であり、『ニーチェの馬』の脚本家であるクラスナホルカイ・ラースローの文学には、そのようないわばショーペンハウアー的なペシミズムが流れているといえる。

 しかし、ランシエールによれば、タル・ベーラはクラスナホルカイ・ラースローの文学世界を映画化するに際して、そうしたペシミズムをかならずしも踏襲していない。あるいは、そこにかすかな亀裂を走らせ、一条の希望の光を差し込ませている。

 たとえば、『サタンタンゴ』のひとつのクライマックスをなす少女の自殺シーン。毒を飲んで横たわる少女の映像に原作から引かれたメロドラマふうの一節がナレーションでかぶさるが、死に場所へと歩いていく少女の、ぬかるんだ地面をものともしない力強い足取りには、原作のペシミズムに回収され得ないエネルギーがみなぎっている。

 あるいはその直後の葬儀の場面。少女を殺したのは村人の金銭欲であると責め、かれらから多額のお布施をせしめる詐欺師。原作では演説する詐欺師と村人のリアクションが交互に、いわば「切り返し」のように描かれ、詐欺の「効果」がことさらに強調されることによって、その場の状況が“天才的な詐欺の手口”として物語化されるのだが、タル・ベーラの映画は村人のリアクションを見せず、詐欺師の顔だけをアップでとらえつづけ、その顔の上に詐欺師という意味づけには収まらない夢想家としての一面を思いもかけず浮かび上がらせる。

 そして詐欺師の夢想が村人たちの内部に目覚めさせた自尊心は、それがたとえ騙されたかれらの愚かさの表現であるのだとしても、その強度において本物であり、詐欺という状況を凌駕している。

 原作はかれらのあらたな出発(コミュニズム寓意化)を失敗と決めつけるかのように冒頭と同じ場面に戻ることによって閉じられるが、タル・ベーラはあえて詐欺師の「共犯者」としてふるまい、かれらの出発に積極的な意味あいを見出そうとしている。

 あるいは『倫敦から来た男』の幕切れにおいても、不幸のどん底に突き落とされた女性のクロースアップに読みとれる自尊心が、シムノンの原作に流れる同じようなペシミズムを裏切っている。

 『ニーチェの馬』のラストにしてもそうだ。闇の中、うつむいたままテーブルでむかいあう父娘の不動の姿勢と放心した表情に終末を受け入れた諦念を読みとるのは早計である。じゃがいもの皮をほとんど無意識のうちに剥くともなく剥いている父親の手の執拗な動きは、それまで毎朝かれらが忍耐づよくくり返してきた身振りとすこしも変わっていない。

 ここに読みとるべきなのは、人間たちと馬に辱められた生活を余儀なくさせている「勝者たち」、手に触れるものすべて、「夢や不死の命にいたるまで」のすべてを私有財産に変えてしまうことで腐敗させてしまった者たちに対する映画作家の毫も変わらぬ怒りである。

 閉じられた円環はつねに開かれている。

 これがタル・ベーラのメッセージだ。『ニーチェの馬』に読みとるべきは終末論ではなく、「その後の時」への開かれである。『ニーチェの馬』がタル・ベーラの最後の作品になるとしても、円環はけっして閉ざされないだろう。

 タル・ベーラの映画は希望を語らない。それじたいが希望なのである。

 そして、タル・ベーラの映画においてそのような希望をもたらす要素がふたつある。

 ひとつは「白痴」的な人物である。

 「白痴」は、そのだまされやすさ、つまり、すべてを文字どおりにとるという特異な能力によって、みずからを閉じ込めている「環境を吸い取り、[逆にその]環境の敗北に賭ける」。

 たとえば、『ヴェルクマイスター・ハーモニー』の青年の幻視的なまなざしは、世界を意味づけることなくそのまま写しとる。アトラクションのはりぼての鯨を、だれもがそうするであろうように“悪の寓意”と見なすことなく、純粋に神による創造の驚異に打たれることがかれにはできる。

 あるいは『サタンタンゴ』の少女は、金のなる木という嘘を信じたばかりに自殺に追いやられるが、じぶんの命と引き換えにその嘘を(村人たちの多額の香典というかたちで)文字どおりに実現させてしまう。

 タル・ベーラのカメラがその顔にドン・キホーテのおもかげを透かしみる『サタンタンゴ』の詐欺師もまた「白痴」的人物の一員である。

 ランシエールによれば、「白痴」とは本質的に映画的な存在である。

 『サタンタンゴ』の少女からブレッソンのムシェットやロッセリーニエドムントを連想することはほとんどの観客がしていよう。ランシエールもこれらの幼い自殺者には当然のごとく言及しているが、それにとどまらず、死んでいく少女が大事そうに抱えている(じぶんの殺した)猫の死骸を、『走り来る人々』のジニーが手放すことのないウサギ形のバッグにいみじくもなぞらえている。言われてみれば、シャーリー・マクレーン演ずるかのじょはなるほど映画史における偉大な「白痴」的キャラクターのひとりである。

 そして「白痴」的人物とならんでもうひとつ、タル・ベーラの映画には世界から一切の意味づけを剥ぎとって一陣の微風を送り込む要素がある。音楽だ。

 タル・ベーラが希代のいわばミュージカル映画作家であると信じるわたしもこれには同感だ。このひとは映画史上もっとも美しいダンスシーンのいくつかを撮っている。

 なお、本書の出版にちなむランシエールの講演(仏語のみ)のようすが You Tube で見られます(『サタンタンゴ』の抜粋上映を含む)。