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精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネーの『ツイン・ピークス』論

*Serge Daney : L'Exercice a été profitable, Monsieur., P.O.L, 1993.

 セルジュ・ダネーデヴィッド・リンチの映画を買っていなかったが(『エレファント・マン』の時評がある)、晩年にテレビの『ツイン・ピークス』をほめている。前回紹介した同じ遺稿集から(1990年5月25日付)。

 たとえば、コマーシャルの美をひとつの物語のなかで、つまりコマーシャルの短い脚本に縛られずに活用することの可能性だ。わたしがいうコマーシャルの美とは、作り物の美ということではない。わたしはむかしからいかにもアメリカふうの作り物のスター(ラナ・ターナーから『ダラス』に至るそれ)が大嫌いなのだが、このドラマで、若くて魅力的な男女が、ファッションショーから心理的連続ドラマへと見事な移動を果たしている眺めには大いに興味を引かれるものがある。

 かれらが特異なのは、かれらの「ルックス」の違和感(distance)がしっくりきているところだ。メイクや美顔整形が「しっくりくる」と言うときのように。「うわべをもちこたえること」が、これらのキャラクターの「内実」そのものになっているのであり、こうしたものを「まかり通らせて」いるのは、結末の定まらない連続ドラマ(および広がり過ぎて収集のつかなくなった脚本)ならではの自由さなのだ。

 こうした「ルックス」には二つの先例がある。ひとつはヒッチコック。もうひとつはB級映画ジャック・ターナー)に出てくる識別不可能なクローン的人物。しばらくまえから、わたしにはデヴィッド・リンチがいたって本気でヒッチコックの後継者であるような気がしている。二人の共通点ははっきりしている。猥褻とも言えれば偏執的とも言えるような強迫観念。そそらない体型とつるんとした面相へのいずれ劣らぬ嗜好。厳格な論理性と非合理なものの大胆な共存。観客への目配せ。形態上の、ないしは形式主義的なアイディア(観念)を次々に生み出す造形的な才能。ファションデザイナーとしての素養。フォルムそのものにこめられた、ときとして吹き出してしまうような皮肉[……]。主役の捜査官にはケイリー・グラントのような間(ま)があって、かれの辛辣な台詞が誰にとってもちんぷんかんぷんだったりするところがわたしは大好きだ。

 さらに、カイル・マクラクラン演じるこの捜査官の鉱物質なところときっちり撫で付けた髪が、ラングやプレミンジャーやターナーの映画でおなじみの究極のミニマリズム俳優ダナ・アンドリュースになぞらえられる。

 ダネーはこのドラマのフラッシュバックの使い方にも注目する。フラッシュバックが事情を説明するためというより、本の註釈みたいに本文の流れを遅らせ、とぎらせるさまが、エイゼンシュテインやヴェルトフのモンタージュみたいだ、なんて言っている。

 子どもがお気に入りの玩具を分解するように、あるいは魚を生け簀から取り出してその動きをじっくり観察するように、技法をほんらいの文脈(物語)から切り離して取り出し、観客にその仕組みを披瀝してみせるようなリンチのスタイルを、ダネーは「マニエリスム」の系譜に位置づける。

 そしてテレビの連続ドラマはそのようなスタイルにうってつけの媒体なのではないかとほのめかす。リンチの映画を好きでない自分がこのドラマを気に入っているのはそのためなのだと。

 『ツイン・ピークス』のマニエリスム的なスタイルからダネーの想念に浮かんだ映画が二本あるという。黒澤の『乱』およびコッポラの『ランブルフィッシュ』である。その根拠は……あえて書かないことにしましょう。考えてみてください。

 ダネーの考える「マニエリスム」については、『映画批評のリテテラシー』(フィルムアート社)所収の拙稿を参照していただければさいわいです。