alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネーのガス・ヴァン・サント論

Serge Daney : L'Exercice a été profitable, Monsieur., P.O.L, 1993.

 ガス・ヴァン・サントは最晩年のダネーが高く評価した若い才能の一人であった。ダネーの死後、コンピューターに残されたテクストをそのまま起こした本のなかに、『ドラッグストア・カウボーイ』を論じた断片がある。日付は1990年12月4日。

 もはや「道義的責任を負って(charge d'âme)」いないと感じた途端、アメリカ映画は、避けることのできない事実、その日その日のアメリカの現実、日常的で複雑な現実を、とてもシンプルな手つきでふたたび物語り始める。そのようなささやかな映画の魅力は、きわめて深刻な問題を扱う手つきの堂々たるさまである。ここではドラッグの問題だ。

 この作品の頭のよさは、ドラッグ社会問題にせず、この男自身の問題に組み込んでいるところだ。ドラッグをライフスタイルにしている変わった「ヒーロー(主人公)」であるボブ・ヒューズは、ドラッグのありとあらゆる恩恵を被っており、かれがドラッグをやめるのはもっぱら、思っていたよりも少しばかり複雑な理由のせいである。ドラッグはある時点で、たんにとどめの一撃として、まったき疲労と恐怖に変わるのだ。その時点から作品はかなり大胆なリアリズムを辞さない。

 このうえなく巧妙なのは、社会学的なシナリオを逆転させ、小説的なシナリオにとって替えていることだ。社会学的なシナリオは、ある階層の市民(労働者階級の若者)にとって、人生の苦難が堪え難いあまりドラッグが人工楽園となることがいかに避けられないないことかを示す。小説的なシナリオは、いかにして若いジャンキーとその一味が、突然自信を失い、更生しようと決心して労働者になるかを示し、いかにこの更生が、作品にとって、万人にとって、真の問題となるかを示す。それだけにこの作品の結末にはあっけにとられてしまう。(だいじょうぶなのだろうか?)

 この作品は、ドラッグを出発点にして、まさしく映画とは何であるかを語っている。おおざっぱに映画とは、そのつぎにくる瞬間の予感であり、兆候を読む技術(迷信)であり、分岐の実践である。これこそこの作品のうってつけの定義である。この作品はまさにこのような自由な運動にあふれている。

 作品そのものの身の丈に見合い、飾らない文章が心に滲みる。この時点でこの映画作家の本質を見抜いているのはさすが。