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精神分析と映画をめぐる読書案内

二つのジェリー・ルイス論(その1):ジャン=ルイ・ボリの批評

*Jean-Louis Bory : Des yeux pour voir(10/18, 1971)

 ジャン=ルイ・ボリ(1919-1979)は、フランスでもっともリスペクトされていた批評家のひとりであろう。ゴンクール賞を受賞した小説家であり、パリの名門リセ、アンリ四世校の文学教授(専門はバルザック)を長年務めた。

 映画批評に本格的に手を染めたのは四十をまわってからのこと。トリュフォーらも筆を執った Art (1961-66)、次いでメジャー週刊誌 Nouvel Obs (1966-79)でミシェル・クルノを襲うかたちでレヴューを担当したほか、週末のラジオの批評番組 Le Masque et la plume で保守的な論客ジョルジュ・シャランソルらを向こうに回してふるった弁舌によって、ハードコアシネフィルから一般の映画ファンに至るまでの広い支持を集める国民的な批評家となった。

 わたしがボリという批評家の魅力をはじめて実感したのも、六、七年前だかに刊行されたこの伝説的な番組を回顧した書籍に付いていたCDの番組ハイライト集で『ヴェニスに死す』といった作品を滔々と擁護する雄弁を耳にして以来のことだ。

 カミングアウトした同性愛者であり、マイナーな映画、とくに実験性の強い映画や第三世界の映画を熱狂的に擁護した(フランス映画批評家協会刊行になる『フランスの映画批評』という本に収録された名文のアンソロジーには『内なる傷跡』論が採られている)。六十歳の誕生日を迎える直前、自ら命を絶った。

 ボリの批評の持ち味は、その明晰さと痛烈な皮肉と偏見のない自由な精神であろう。映画批評のヴォルテールとでも言えばよいか。

 以下は、ジェリー・ルイスフランク・タシュリンと組んだ最後の作品である『底抜け棚ボタ成金』(1962年)のレヴューから。

 かれには物についてのパーソナルなヴィジョンがある。おおくの精彩を欠くコメディアンのように、ペンキのバケツにつまずいたり、歯を剥き出しておおげさに口ごもったりすること(しかも、コンテクストの如何にかかわりなく執拗に、単調にこれをくりかえす)だけに甘んじることなく、かれの身のまわりの物体にまでじぶんの刻印をおしてしまう。しかめっ面をつくる技術を芸術品の域にまで高めるすべを知っているだけでなく、みずからの浸透性のつよい[envahissant]パーソナリティによって、人であれ物であれ、まわりの世界を変化させてしまうことができる。ジェリー・ルイス的な[<> ]宇宙というものが存在するのだ。監督としても俳優としても、ジェリー・ルイスの笑いは周囲を巻き込む[engager]。もっと正確に言うと、巻き添えにする[compromettre]。きみがどんなふうに笑うか、何を笑うかを言ってみ給え。きみがどんな人間だか言って進ぜよう。

 注釈を入れておくと、ジェリー・ルイスの作品世界をルイス・キャロルのそれになぞらえる見解はフランスではめずらしくない(ロベール・ベナユーンの名著『こんにちは、ムッシュー・ルイス』など)。つづけて、少し先のくだりを引く。

 この薹の立った坊やは、ぶきみなほどの身体的早熟を示していながら(体毛の節操のない繁茂をみよ)、その精神年齢はきわめておさなく(コミックスに目がなく、ご婦人方をこわがっている)、信じがたいほどに身体をもてあましている。かくも勇壮な[見事な]不器用さを演じてみせるにはまれにみる柔軟性が必要なことはおわかりだろう。あらゆる芸当をことごとく失敗させる道化師こそ最高に見事な曲芸家である。熟達した道化師として、ルイスはこの不器用さ、この身体的不自由を演じてみせる。欠陥や不足に由来する不器用さではなく、過剰さに由来するそれである。一歩で済むところを、ルイスはおお慌てで三歩踏み出す。四つの身振りのうちの三つは余計である。このようなたえまのない興奮が言葉にまで伝染する。台詞が一言しか必要でないとき、あるいは沈黙が必要とされているときに、ルイスはたえまなく喋りつづける。ルイスはスクリーン——世界——を混乱した興奮[un bouillonnement brouillon]でみたす。
 そしてこの過剰からしかめっ面が生まれる。このしかめっ面は、このような混乱した興奮、このような全開の発熱状態、このような過剰な不器用さが表情のレベルに移し替えられたものだ。しかめっ面が得意な人として、ルイスは――スカラムーシュモリエールのような―― << gestueux >>[ジェスチャーで笑いをとる人]の偉大な伝統につらなる。顔の変形が、それまでその顔を覆っていた仮面や白粉から解放され、人間による喜劇の本質的な要素になったのだ。わが国のコメディアンのなかで、フェルナン・レーノーは――言葉の切れ端、鼻息、よく動く口をつかって――頭脳的にしかめっ面をつくることのできたわずかなものたちのひとりであるようにおもわれる。フェルナンデルはどうか? 歯を剥き出して、ハイ、それまでよ[ça fait la rue Michel]。そしてその歯は、一度だけ見れば、また見るためにわざわざ別の映画に出かけるまでもない。タチは? タチが持ちネタにしていたのは正確に言えばしかめっ面ではなく、せいぜいのところパントマイムだ。あるいは「しかめっ面」を歩き方に応用したのだと言うべきか。タチのギャグは、チャップリンのギャグに近く、ルイスと同じ系統にはない。ルイスにあっては、しかめっ面が表情の錯乱の域に達している。たとえば、考えごとに頭を絞りすぎたために寄り目になったとする。するとわれわれは、超高速での驚くべき「変顔」のフェスティヴァルに立ち会うことになる。それはゴムでできた顔である。あるいは、ひとつひとつの筋肉が自立している。寄り目をつくっているというだけでは十分ではない。目で曲芸を演じているのだ。そしてこの一瞬のうちの百面相にさまざまな物音がともない、これらの物音が、すでにして幻覚的となったしかめっ面に音響的な次元をつけくわえる。顔と同じように、言葉が人間のそれであることをやめ(とはいえ、expressif [表現力に富む、表情に富む]であることをやめずに。そこが巧妙なところなのだ)なんとも表現のしようのない錯乱に満ちたものとなり、これが笑いによる抗議を呼び起こす。
 このしかめっ面をつくった不器用さをなにものも免れることはない。こんなにも感じのいい若者が片っ端から破壊のかぎりをつくす。かれはいやいやながらの-おそるべき-ワルガキにされてしまう。いやいやながら? そう言ってしまうのは早すぎる。ジェリー・ルイスアメリカ文明のいくつかの側面に対して個人的に落とし前をつける必要があるかのようなのだ。——このことはかれの監督作のなかではずっとはっきりしている。

 ジェリーの「不安を催させるまでに」「幼稚化する世界観」(暴力的なまでに類型化された女性像、戯画的に機械化の進んだ生活)にアメリカ社会そのものの「幼児化」を反映させているということらしい。