alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

二つのジェリー・ルイス論(その2):ミシェル・クルノの映画批評

*Michel Cournot : Au cinéma (Melville, 2003)

 映画批評の無頼派詩人ミシェル・クルノ(1922-2007)のグラフィック・アートをおもわせるスタイルの文章を、アントワーヌ・ドゥ・ベックは critique-transe と形容している(Dictionnaire de la pensée du cinéma)。1957年アンリ=ジョルジュ・クルーゾー『スパイ』の撮影ルポをガリマール書店から出版。週刊誌 L’Express (1960-63)、ついで Nouvel Obs (1964-68)の映画欄を担当、ロベール・オッセン、クロード・ルルーシュからゴダールマルグリット・デュラスまで、ほとんどアナーキー的というべき審美眼を以てフランスの映画批評の世界に一時代を画した。68年に唯一の長編映画作品 Les Gauloises bleues を撮って映画批評の世界から足を洗い、その後は長年にわたり Le Monde に劇評を書いた。

 以下は、ジェリー・ルイス底抜け再就職も楽じゃない』(1979年)のレヴューの試訳(ほぼ全文)。

 道化師(Un clown. Un auguste.):鼻に赤い玉をつけ、ぶかぶかのズボンからいろいろなものをとりだしてみせる人。

 道化師のメイクでいるとき、ジェリー・ルイスはノーメイクのとき以上に素顔をさらしており、無防備だ。両の頬に塗られた木炭の黒さは炭坑での作業を思い起こさせ、あるいは作業場で不眠の一夜を過ごしたばかりの肉体労働者の無精髭を思い起こさせる。先の尖った睫毛は、極度に誇張されることでなにがしかの不安を催す。そして口の周囲を覆う純白にさえ、堪えがたいなにごとかを思い出させるものが宿る。おそらくはペスト患者の吹く白い泡だ。

 メイキャップの喚起するいろいろな悲劇的な連想の助けを借り、そしてそれらの見かけを突き破って、ジェリー・ルイスの良心[職業意識]がたしかにそこにある。道化師の人工的に塗りたくられた顔の上に。とはいえそのすぐあとで、ジェリー・ルイスの安らぎ、しかめられていないすっぴんの顔は、単純にひとつの疲れを伝えている。
 
 われわれは道化師の顔から蒼白い顔への移行を目にする。道化師が仕事をしているサーカスが閉鎖の憂き目を見るのだ。銀行はもう資金融資してくれない。

 顔のこのような逆転という作用[演技]、このような「視覚効果」(賽の目が心のシャッター音と同時に一瞬にして上下を逆転するような)は、「二重の外見」というモチーフの幾多の例のうちのひとつにすぎない。このような「二重の外見」ゆえに、ジェリー・ルイスの天才はどちらかというと目につかないものになっている。

 かれの新作のタイトルからしてがそうだ。Hardly Working は、「苦労して働いて」というより、むしろ「ほとんど働かずに」と翻訳できる。[……]

 オリジナル・タイトルの二重の意味が、この映画のストーリーを物語っている。サーカスをクビになったジェリー・ルイスは別の仕事を見つけようとするが、その都度、いろんなアクシデントが起きて、かれじしんは「苦労して」仕事をこなすのだが、その職は「ほとんど」長続きせずに終わるのだ。

 この失業者の冒険をジェリー・ルイスは二つのベクトルに沿ってくりひろげる。

 最初のベクトル:もともとひとつでしかない二つの現実の両立不可能性。一例を挙げる。ガソリンスタンドに雇われたジェリー・ルイスはいろいろなアクセサリー商品や油の缶の置いてある倉庫のなかを雑巾で熱心に掃除している。何度も雑巾をかけているので、やりすぎではないかとおもっていると、まったくそうではなく、埃を払っているだけである。

 ガソリンスタンドの経営者がやってきて、ただちにそれをやめるように命令する。かれが言うには、ガソリンスタンドでは「掃除などしないものだ」。

 一連のやりとりはあまりにも素早く進行するので、経営者の断言が正しいかのようにおもえてしまう。そもそも、ジェリー・ルイスが掃除している油の缶はもともときれいであるようにみえる。ところが経営者の断言は間違っている。もし掃除をしなければ、ガソリンスタンドは当然不潔なままであろう。おもてむき、観客は瞬間的にジェリー・ルイスがへまをやらかしているとおもってしまう。メカニックな身振りと断言は否定しようがないからだ。しかし、事態をよくよく考えてみると、ジェリー・ルイス不条理と罪悪感とナンセンスと不正と知覚の錯誤と権力の濫用などなどの縄の結び目にからめとられている。これらひとつひとつの構成要素がたがいに同じくらいの現実性をもっているのだ。 

 ジェリー・ルイスは現実と現実の不一致を利用している。いつもかれはただひとつの行為においてある出来事の相反する側面を結合させ、これらの逆行する諸力の板挟みになって、そこから脱出できない。

 そして二つめのベクトル。かれはうまくやるが、こんどは想像のなかでであって、あらゆるものを倒しまくり、あるいは破裂させる。この作品では、あらゆる場面で、あらゆるものが倒れまくる。ジェリー・ルイスがドアを開けたり、書類を差し出したりするだけで、積まれた物体が、壁が、セット全体が、崩れ落ちるのだ。

 想像上の行為であるのはある時点までである。というのは、あらゆるものが崩れ落ちるという何度もくりかえされ、その都度ツボにはまるこのギャグは、その具体的で現実的な対応物を思い起こさせるからだ。爆破事件のことであり、テロのことである。事実(社会という事実、企業という事実)の撹乱に対して、ジェリー・ルイスはもはや撮影セットの爆破にしかその対応物を見出さない。

 映画は完結する。というのは白いシェービングクリームをつけたジェリー・ルイスが一瞬、鏡のなかに昔の道化師の顔をかいまみるからだ。かれは作品中ただひとりの「ノーマルな」登場人物を家によぶ。ノーマルとはつまり、不在ないし非在のなかにたてこもっていないということであり、ジェリー・ルイスがそのとき働いている郵便局の同僚なのだが、ジェリー・ルイスはかれにこう言う。「ちょっと待て」。すぐにわれわれが耳にするのは、これまでのように物体やドアの破壊される騒音ではもはやなく、爆音、爆弾が滝のごとくに鳴り響くきわめて明瞭な音である。

 ジェリー・ルイスはこんどはすべてを投げ出して道化師の服装とメイクで現れる。作品の冒頭とおなじように。そして通りで郵便物を配達しはじめ、観客は途方に暮れる。アンハッピー・エンディングだ。

 ジェリー・ルイスは映画をまるまる一本、ひとりで手がけている。撮影、録音、カメラワーク、台詞、意識の与件。かれは詩人であり、一見したところ錯乱した想像力によって現実を表現する。

 『底抜け再就職も楽じゃない』が上映されているパリの映画館の客席はほぼ無人である。ジェリー・ルイスが見捨てられたのは、かれの撮っている映画があまりにも率直であるせいだ。詩の真理はヘマに宿る。そのヘマが笑いを引き起こす。できるかぎり避けて通りたいとだれもがおもう。今朝の新聞で読んだのだが、フランスのどこかで、ひとりの女性がまる九日間を死んだ夫の傍らで過ごしたあと、隣家の女性のところに行って言ったのだという。「夫をみにきてください。具合がよくないらしいんです」

 わたしはジェリー・ルイスがこれを映画に撮るところを想像する。かれひとりで夫と妻と隣人の三役をつとめるのだ。かれであれば演じ切ってみせることだろう。これほどの不安を。これほどの愛を。道化師の赤い鼻と黒い頬の裏側で、この場面[の尊厳]にふさわしい身振りを見つけることだろう。

 この作品の製作意図について、ジェリー・ルイスは、失敗だけが人を評価する基準になってしまった社会を笑いにまぶして批判したかったと語っている。

 ジェリー・ルイスアメリカ社会にとっていかに危険分子であったかは、ボリの『底抜け棚ボタ成金』評からもうかがわれよう。このもっとも反アメリカ的な映画作家を発見したのはフランス映画狂たちである。

 この時期、世界は爆弾テロに対する強迫観念にとりつかれていた。十年におよぶ[事実上の]強いられた沈黙を経て撮られたジェリー・ルイスのカムバック作がルイス・ブニュエルの遺作と同時代の作品であることを忘れるべきではない。