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ゴダールが絶賛したロジェ・タイユールの『動く標的』論:新・映画批評家列伝(1)

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Roger Tailleur : Viv(r)e le cinéma (Actes Sud / Institut Lumière, 1997)


 フランスジャン・ドゥーシェのロング・インタヴューが刊行されたのを機に、かの地のシネフィル文化について再考してみようとおもいたった。さて……

 シネフィルとはひとつの歴史的概念である。たとえばダンディスムがそうであるのとおなじように、時代的・地理的にはっきり限定された価値観であり、世界観であり、教養の体系である。ジャン・ドゥーシェ、ミシェル・ムルレ、ジャック・ルールセル、リュック・ムーレら(思いつくまま挙げただけ)と並び、1950年代フランスでこのカルチャーを主導したカリスマ的批評家が『ポジティフ』を拠点に執筆したロジェ・タイユール(1927-85)。


 ジャン=リュック・ゴダール1966年テクストにこう書きつけた。
 「『ポジティフ』にタイユールの瞠目すべき『動く標的』論。『カイエ』でこれだけのクオリティーをもった散文をますます読めなくなっているのは残念」(「映画の3000日」)

 以下はその名文の試訳。

 すべてのショットが美しい。美しいというだけでなく、ショットのなかにたえずなにごとかが起こっている。思いがけない演技、はっとするような撮影、舞台となる場所の見事さ、台詞のひらめき、カメラワークの躍動、急展開する場面、リズムのダイナミズム演出の洗練[……]一連の展開の教訓は、挿話の凡庸な水準だけでなく、ナラティブスペクタクルの芸術の本質そのものにまで達している。ここでわれわれはさながら連続上映会に立ち会っている。しかもそれは二本立てである。他人をたのしませることと自己を認めさせることがともども実現しているのだ。[……]

 [監督のジャック・スマイト、製作のエリオット・カストナーにつづく]talent trust の第三の男は、撮影監督コンラッド・ホールだ。この人は巨匠テッド・マッコードの弟子で、レスリー・スティーヴンスがひいきにする撮影技師だ。ありし日のシネマスコープテクニカラーの暖かみがあって包み込むような美はかれにしてはじめて再現できた。そして色彩の洗練。きわめてハーパーズ・バザーっぽく(と言わざるを得ない)、気取りを削ぎ落としたミネリふうのスタイルから出発して、『赤い砂漠』のアントニオーニの世界にいきついている。抽象的な機械群、夜の工場、打ち捨てられ錆び付いたタンカー、ブルーのラインの塗られた滑走路、スクリューと錨の墓場。コンラッド・ホールの力量は、かれが腕をふるうべく選び抜かれた舞台装置のフォトジェニーと不可分だ。ハイパーリアリズムカリフォルニアの一部始終がわれわれの目の前に姿を現す。その挑発的なへんてこさは、作家たちが頭のなかでこれみよがしにでっちあげたものであるどころか、舞台となるこの街になくてはならない要素となっている。
 サンフランシスコにオフィスを構えていたハメット、ロサンジェルスとベイ・シティの周辺で仕事をしていたチャンドラーいらい、この Golden State は、private eye のサーガにとっての選ばれた土地であるようだ。まずもってこのロケーションが西部劇とスリラーを繋ぐある種の系譜をうちたてる。いまもなお驚異的に拡大途上のこの州は(つねなる大量の移民は前世紀の Go West がいまもってアクチュアルであることをしめしている)、永遠のフロンティアを生きているようにみえるのだが、そこにあるのはごった煮、豪奢とおぞましい貧困の恥知らずの共存であり、調子っぱずれのコントラスト、爆音を轟かせる outlaws の徘徊、映画のヒーローのような見かけをしたますます個人主義的で反動的になっていく政治家、West Coast の反社会的な放浪者、海岸にたむろするビートニク、本人と同じくらいの長髪をなびかせたダニエル・ブーンの末裔たち、そしてそのすぐそば、ネヴァダとの州境を一歩越えれば、ラス・べガスの騒がしい酒場兼賭博場。『動く標的』は、フィルム代を惜しむことなく、山から海岸に至るまで、華美と色彩、ドラッグ宗教、フルーグとワトゥーシ、自家用飛行機と油田のまぜこぜになった堕落したエデンを証言してまわる。ここでは、信仰イカれた女たちの寺院がメキシコ労働者人身売買の隠れ蓑になり、豪奢なワンルームマンションに占星術イカれた女たちの寝室が潜んでいる。そしていたるところで「ロサンジェルスでいちばんキケンなトモダチ」が暗躍するが、かれらは正確にいえば「世界でいちばんキケンなトモダチ」にほかならないのだ。
 賢明にヴァージョンアップされたこのチャンドラー的世界は、『高い窓』の著者の最良の弟子といわれているロス・マクドナルドの手になるものであり、『動く標的』はその著書の映画化である。[……]
 1949年[原作出版年]にたちもどることは、ローレン・バコールを起用し、ワーナー・ブラザーズのスタジオの『三つ数えろ』が撮影されたのと同じセットでカメラをまわすことだ。『三つ数えろ』とそっくりのオープニング・シーンを用意することだ。ボガートが半身不随の将軍からかれに託されたミッションの大筋を聞いていたそのオープニングで、同じように動けないボガートの未亡人がニューマンにどういう仕事をしてほしいかを伝えるのだ。酷暑の温室と豪華な家具の並ぶ巨大な居間。どちらのセットもその異様さにおいてはひけをとらない。そしてローレンの声。歳月によって磨かれ、ひび割れかけた[on the rocks]その声。その皮肉。その威厳。そのフォトジェニックな皺。いずれもが偉大なハンフリーの遺産だ。そこかしこでノスタルジックな観客に対してオマージュが捧げられる。下品な目配せも、人知れず頭を振るしぐさもない。そういうオマージュはたぶんかれらにしか理解できないが、他の観客たちが作品を理解するさまたげにはならない[……]。もっとも美しいオマージュは、ウィリアム・ゴールドマンマクドナルドチャンドラーの頭を通り越してハメットに、それも二度にわたって捧げたそれである。ハーパーがサム・スペイドから譲り受けた探偵ならではの敬意を、ある朝、「まだ捜査が終わっていないから」と、前の晩の約束を破って、わざと妻を捨て、犠牲にするとき、そしてその捜査を終わらせるために、罪を犯した友人を警察に突き出すことを決意するときに見せるのである。こうした理想、こうした傲慢さ、正義のまえでは、愛も友情ももはや存在しない。主人公は最後の最後で、まだ銃を構えている友人に背中を向けることでそのことの弁解をする。
 こういう重要なディティールはマクドナルドには不在であるものの、マクドナルドの原作は理想的なかたちで脚本化されている。しかしゴールドマンはもともと「犯罪小説」の作家ではない。かれの小説はむしろ、敬意を表してたとえるならトマス・ウルフに比すべきものだ。とはいえかれの脚本は、いましがたお目にかけたかれのすみつく新世界を隅々まで知り抜いていることと、台詞の技法における驚くべき手腕とをともどもしめしてあまりある。味わいがあり、ひょうきんで、辛辣で、ひきしまり、奥行きがあり、はっとする台詞がつぎつぎ登場するのだが、この手腕はまた、その映画的な構成においても存分に発揮されている。原作のどうでもいい一行の台詞からハーパーの妻(ジャネット・リー)のキャラクターを創り出した点はとりわけひらめきにみちている。この人物のおかげで、主人公の孤独、年齢、弱さ、疲れが伝わってくるのである。ミランダ(パメラ・ティフィン)がハーパーのうちに潜む「死の欲望」を暴き出してみせる別の会話から、かれは友情と無気力とによる「同意のうえでの自殺」のラストシーンを引き出している。おそらくスマイトにそそのかされてのことであろう、かれはマクドナルド文体にみられるユーモアを人物の行動やコミカルな描写においてこれでもかと強調している。[……]
 登場人物が[原作にくらべて]賢くなってはいても、感情や情熱が犠牲にされることはない。逆に、犯罪映画のなかでこれほど強烈な感情、これほど感情こまやかな関係、情熱的な緊張をまのあたりにしたことはないだろうし、ありふれた心理描写に対してこれほどがつがつしていない映画もまたないだろう。[……]ひとりひとりの登場人物のきわめてたしかな存在感は、マクドナルドの原作にはっきりと読み取れる。マクドナルドにあっては、ハメットと同様に、そしてチャンドラー以上に、探偵が脇役たちを霞ませてしまうどころか、逆にかれらの引き立て役をつとめ、仲介者をつとめている。とはいえ人物たちのこのような存在感は、犯罪ドラマのクリシェよりも複雑でリアルな登場人物への関心をもっぱらとするゴールドマンという「大」小説家によって究極的なかたちにまで押し進められている。行方不明の夫への憎悪が妻の心を占め、ついにはその殺害をそそのかす。ジュリー・ハリスとロバート・ワグナーの熱愛から、すぐれた心理学者であるハーパーはしまいにロバート・ワグナーの正体を見抜く。ハーパーとその敵(トロイついでペドラー)はほとんど友だち同士のような親しさだが、それにもかかわらずきわめて狂暴である(「このうすのろが!」[old stick]とかれらは微笑みを浮かべながらかれを痛めつける)。アーサー・ヒルのパメラ・ティフィンに対する異常な愛はかれにとり憑いて犯罪へと駆り立てる。ティフィンとローレン・バコールの毒のある関係。ハーパーと妻の憐れみと欲望、母性的な弱さと男性的なおせっかいとのいりまじる苦渋にみちた関係。そしてとりわけハーパーとロバート・ワグナーの恋愛にも似た友情である(かれらは“Lew baby”、“Beauty” とハリウッド式に呼びかけあう)。けっきょくロバート・ワグナーはじぶんが殺そうとしたハーパーの腕の中で息絶え、ハーパーは「かれが無罪であったなら!」と嘆く。同じくハーパーとアーサー・ヒルを繋ぐ友情。幻滅と挫折した夢。超人的な疲労。哀歌的といってよい苦み。命知らずの男の見せかけだけの脱出。磔にされたかのように肩をそびやかすポーズ。パパ・ヘミングウェイ晩年の熱心な話相手であったA.E.ホッチナーならこの友情に嫉妬したことだろう。

 西部劇はタイユールの偏愛したジャンル。さらにこの人にはすばらしいボガート論がある。

 『動く標的』は 1966年の Festival du Cinéma Nouveau に出品された。監督のジャック・スマイトは当時、同じ映画祭が輩出したバート・ケネディー、フィル・カウフマン、ジェイムス・B・ハリス、モンテ・ヘルマンらに並ぶ期待の新鋭作家と見なされていたようだ。『動く標的』が売りにしたモダニズムは、現在では逆に作品をふるめかしく見せてしまっていることがいなめないが(この点はたとえば『ロング・グッドバイ』といった作品とすこしちがう)、タイユールの批評は作品ほんらいの魅力をうまく伝えているといえよう。