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精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネーのサミュエル・フラー論

*Serge Daney : La rampe (Cahiers du cinéma, 1983)

 D-Day 70周年。だからというわけではないが、ひさしぶりにダネーの『最前線物語』評を読んでみた。初出は Cahiers du cinéma 1980年5月号で、’’Fureur du récit’’(物語への熱狂/物語の怒り)というタイトルがつけられている。

 かれの作品が50年代のフランスの(一部の)批評家たちの気にかくも召したのは、フラーが「カイエ」で現代的な映画作家として採用されたのは、まさにかれが、ほかのどんなアメリカ人にもまして、actualité という観念に憑かれた映画作家であったからだ。過去の出来事を物語るときでさえ、かれはいつもこのような「今回がはじめて」という印象、映画がいままさに発明されつつあるという印象をもたらす。まるでかれ以前にはだれひとり映画を撮ったことがなかったかのような印象を。[……]かれが暗黙のうちに前提している考えがある。「観客はなにも知らない」、あるいはほとんど何も知らないという考えだ。アリゾナ男爵やオミーラ軍曹やウェアヴォルフヒトラーが何者かを言うために、フラーはけっして観客の予備知識をあてにしない。[……]じっさいよりも無知とみなされることに腹をたてて、「進歩的な」観客はつねにフラーの映画を毛嫌いし、侮辱を浴びせてきた。というのも、フラーにあってひとを困惑させる——あるいはぎゃくにあぜんとさせ、いやおうなく納得させてしまう——のは、かれのがえんぜないイデオロギー的信条のゆえではなく(フラーは左翼ではない)、情報(すべての外示しうるもの、すべての名をもつもの)と虚構を始動させるもの[虚構のうちに暗示されているもの](すべての内示しうるもの、変装しうるもの)との沈殿物[齟齬]であるからだ。一例をあげよう。『赤い矢』において、南北戦争終戦をむかえたところであることをどうやればてっとりばやく伝えられるか。新聞の見出しや興奮した端役が終戦の知らせを告げるところを映すことはもちろんできる。なるほどてっとりばやいやり方ではあるが、フラーの手腕はまさに、リーがグラントに歩み寄って降伏の意を伝えるようすを、すばやく、もったいぶらずに、ほとんどインサートショットみたいに撮ることのうちにあった。

 ここで注釈が入る。

 そこからの帰結:フラーにあっては「端役[figurant]」はいない。あるいは、全員が端役だ。いつの日か「登場する[faire figure 重きをなす]」という運命しかたどることのない者の視点から映画史が書かれるべきだろう。

 おもしろい指摘であるが、残念ながらダネーはこの指摘をルノワール(「万人に理あり」)やホークスロッセリーニ(非職業的俳優)をめぐるありふれた議論につなげてしまっている(ブニュエルの名前がそれとなく出てくるのは興味深いが)。このくだりはたとえばスタンリー・カヴェルがフラーについて書いた一節(『眼に映る世界』法政大学出版局刊)とあわせて読まれるべきであろう。もしくは、収容所ユダヤ人が Figur と呼ばれていた事実とかさねて探究されるべきであろう。

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 フラーが現代的なのはそこにおいてだ。actualité のめまいと一時的な遠近法の不在においてだ。すばらしくも予言的なある低予算のささやかな映画(『戦火の傷跡』)において、かれは『ドイツ零年』のロッセリーニと結びつく。『最前線物語』をみながら想念にうかぶのもロッセリーニのことだ。観客と兵士たちが同時に発見するのだ。戦争と戦争以上のものを。風景および背景と予備人員の役を務める民衆をだ。もうひとりの現代的作家ゴダールのことも想念にうかぶ。ただし、ゴダールにあっては、外示(ゼロにもどすこととこのようなもどしの魅惑)への情熱が物語への嗜好をついには凌駕する。フラーにあっては正反対である。物語がすべてをさらっていき、すべてを逸脱させ、すべてを偽造する。JLGはほとんど物語らない。SFは過剰に物語る。前者はスローモーションをかけ、後者はクイックモーションをかける[fuite en avant 打開策]。しかし結果は同じである。かれらはアウトサイダーになり、危険な映画作家になる。
 [……]フラーはほかの人たちがドラッグに身を捧げるように虚構に、物語に身を捧げる。かれは虚構の中毒患者だ。
 このような熱狂は50年代のB級映画において思うさま花ひらいた。逆説的なことだが、このおなじ熱狂のゆえに、あらゆる期待に反して、サム・フラーは万人に先駆けながら、(レイとともに)じぶんがつけることにあれほど貢献した火の中の栗を拾わなかった。ましてやイデオローグにはなり損なった。
 [……]もうひとつのゴダールとの共通点。紋切り型[langue de bois]への関心だ。紋切り型がかれに嫌悪と快楽とを同時にもたらす。かれらの映画はどうかといえば、言語[langue]から出発し、森[bois]に火を放つだろう。両義的な火だ。

 かくしてフラーは火の映画作家である。これはフラーのパウル・ツェラン的な一面といえるかもしれない……。

[……]かれらは部族の言葉で話さねばならない。[……]actualité を体感することは、万人の言葉、メディアの言葉を話しつつ、その言葉が「本当に」起こったことと一致しないという経験——洗練されたものであれ野蛮なそれであれ——をすることだ。こうした言葉を告発し、それに留保を付すことは、議論を巻き起こし、いっそうの知性に訴えることではあろうが、actualité のなかにいるという——つまり生きているという——めまいの感覚を失ってしまう。[……]おもうに偉大なアメリカ人たち(グリフィスであれウェルズであれ)がやはりそうしてきたように、部族の言葉を括弧にくくることによってではなく、その言葉を過剰にし、くるわせ、浪費し、地滑りをおこさせることによって。

 フラーの映画は観客をまったき臨場感のうちになげいれることで、観客からその状況をいいあらわす言語を剥奪する。虚構が真実の擬態を過剰に演じきることで、真実なるものを内破させてしまうのだ。

 『最前線物語』は、それまでの戦争映画のありようを一新した『地獄の黙示録』と同年に発表されている(しかも不本意なバージョンで)。後者の華々しさとの比較においてこの作品が当時とうぜんまとっていたであろうアナクロなみかけに隠されたフラーのラディカルな歴史=映画思想をダネーは明るみに出そうとしている。このような歴史家としてのフラーの顔は近年ますますクローズアップされるようになっている(ジョルジュ・ディディ=ユベルマンのフラー論など)。