alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

ロジェ・タイユールのハンフリー・ボガート論

* Roger Tailleur, Viv(r)e le cinéma (Actes Sud/Institut Lumière, 1997)

 ロジェ・タイユールの Humphry Bogart, de solitude et de nuit と題されたテクストより。初出は1967年

 若きロジェ・タイユールがアメリカを発見したのは、ポケット辞書を片手にペーパーバック版のハメットに読みふけることによってであった。セリ・ノワール叢書はまだ刊行されていなかった。フランス語訳はあったが、テンポののろい翻訳はよむにたえなかった。ハメットの暗黒小説のテンポを唯一忠実に翻訳し得ていたのは、映画という媒体だった。『マルタの鷹』の吹き替え版を見て(かれの暮らしていた地方都市では字幕版は公開されなかった)かれはボガートを知った。そしてその数ヶ月後、『三つ数えろ』をすっ飛ばし、タイユールにとって決定的な一本との出会いがおとずれる。その映画、『大いなる別れ』(1947年)においてかれははじめてボガートの声を耳にする。

[……]『大いなる別れ』は議論の余地なくうつくしい。おおくの偉大な映画たち(監督の知名度は関係ない)と同じく、『大いなる別れ』は、はじめからおしまいまでひとつのディティール、ひとつの言葉によってつらぬかれている。戦の雄叫びでもあれば、死のさけびそして愛のさけびでもあり、共犯のしるしでもあれば、激励、さよならでもあるその言葉は、そのつどあらたな光のもとに五度ないし六度口にされるのだが、さまざまないみあいを経由した果てに、幕切れのメタフォリカルなショットにかぶせられる。その言葉とは「ジェロニモ」であり、昔話の親指小僧のように消えてしまった友人がマードックに残していった言葉なのだ。毒の盛られた酒でマードックが乾杯をささげるのはその「ジェロニモ」に対してである。「ジェロニモ」はまた、サーチライトの環のなかを開いて落下していくパラシュートの映像でもあり、それがぼこぼこにされて気を失うリップにかさねあわされる。皮肉なことに、その言葉はいやいや見張り役を務めさせられる黒人の家政婦にかれが投げるかけ声でもある。コラルが、そのすぐあとに始末しなければならないとわかっているマードックと別れるときのみせかけのさよならにもなる。「ジェロニモ! リップ」と、一抹の後悔をかみしめながら。ラストシーンでは、言葉と映像が結びついて、それまで「ジェロニモ」にこめられてきたあらゆる意味をひとつにまとめあげてとつぜんの深い感動をよびおこす。息を引きとろうとするコラルに、リップは新米のパラシュート隊員たちにかけつづけてきた助言をあたえてやるのだ。「勇気をふるいおこせ。なりゆきに身をまかせろ。おまえがはじめてじゃないんだぜ。おおぜいのやつら、しかも最高のやつらがやってのけてきたんだ」。コラルの意識が遠のいていくとき、リップはダチのジョニーにも別れを告げる。かのじょは死ぬ。かれは「ジェロニモ」とつぶやく。大きな白いパラシュートが夜の空を下降していく。

 シュルレアリスム系譜につらなる極上の甘美さをかもしだすこのラストシーンは、同時にブレッソン的な厳粛さにみちている。白装束リザベス・スコットは『ブーローニュの森の貴婦人たち』のエリナ・ラブールデット(「たたかうわ……」)と同じようなアングルでフレームにおさまってはいないか。死の床にあって、かのじょたちは戦いに赴く決意をかためているところだ……。と、以上はわたしの余計な感想。

 これはその結論が先送りされた『マルタの鷹』の新版であるが、ハメットヒューストン版のような冷酷な沈着さはいっさいない。それにとどまらず、悲劇を通り越して最高にノワールな伝説のバロック的な裏道へと通じている。マードックは警察署へと車を走らせる。コラルはかれの脇腹に銃をつきつけ、車を止めろと言う。かれはめいっぱいアクセルをふみこむ。かのじょは射つ。雨の夜、時速150キロでの心中劇。しかし、死ぬのはコラルだけである。
 ロマン主義にやつしたノワール狂い咲き、おそるべき女性嫌悪、いたるところに見てとれるマゾヒズム。そうしたものがこの映画では戦友たちの兄弟愛によっていやましに際立つものとなる。フィルム・ノワールに戦争映画がつけくわわり、「戦争スリラー」というべきジャンルに結晶している(ロバート・モンゴメリーRide The Pink Horse のような。ただし、こちらには女性恐怖はみられない)。

 「戦争スリラー」は、「ハリウッドのジャンル映画のなかでも例を見ないカクテル」である徒花的なジャンルである。『大いなる別れ』を再発見しよう。 
 
 タイユールは、バコールという相棒を得てからのハッピーエンドで終わるボガートの映画(『三つ数えろ』『潜行者』『キー・ラーゴ』)よりも、『マルタの鷹』からそのバージョンアップ版である本作へとつながる流れにボガートほんらいの精神のありようを見出している。

 実人生と同じように、単純な話だ。Bogart gets the girl. そういうことだ。かれは結婚し、アウトロー生活者用の車——装甲車であれ、爆弾の仕掛けられた車であれ——を自慢げに並べてみせる。[……]いまや命知らずの孤独な男はしあわせな夫におさまった。