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精神分析と映画をめぐる読書案内

カトリーヌ・マラブーのフロイト論

*Catherine MALABOU : Les Nouveaux blessés, De Freud à la neurologie, penser les traumatismes contemporains (Bayard, 2007)

 『新しい負傷者たち(傷を負った新たなものたち?)』は、可塑性の概念をめぐる思索の書であり、トラウマというアクチュアルな問題に対して一石を投じる論争の書であり、現代脳科学の知見に依拠しての精神分析批判の書である。

 本書が執筆されたきっかけは、著者の祖母がアルツハイマー患者になったことである。アルツハイマー患者の示す無関心や情動の不在を著者はグローバリゼーションの時代における最大の病理と位置づけ、心的装置の機能停止イコール人格の喪失と見なす精神分析がこの病理に対して無力であると断罪する。

 著者によれば、アルツハイマー患者は人格を喪失したのではなく、脳の損傷を通して新たな人間へと生まれ変わったのだ。著者は外傷(器質的なそれであれ、心的なそれであれ)を癒すべき病理とみなすことなく、本質的にクリエイティブなものと考えている。

 ところが心的現象をもっぱら性的な因果性によって定義する精神分析にとって、外傷は内的な葛藤を顕在化させる「きっかけ」になるかぎりで「意味」をもつにすぎない(外傷は「事後的に」のみ「意味」をもつ「出来事」になる)。こうして外部的な出来事は内的な因果性に還元され(両者の「溶接」)、偶然は必然に回収される。フロイトは Ereignis(出来事)を Erlebnis(体験)に対して二次的なものと位置づけ、ついで両者の区別さえ消去してしまう。つまり前者は後者に完全に同化されてしまう。こうしたヒエラルキーは、アリストテレスを参照したラカンの tuché と automaton のあいだのそれ(および「燃えている子供」の夢の解釈)に引き継がれるだろう。

 アルツハイマー患者の症状は子供返りであるとしばしば口にされる。これは精神分析理論を支える「退行」という発想にも染むものだ。フロイトによれば心的生は「不滅」であり、心的生の核(幼年期)は生涯を通して不変なままである。つまり人間のアイデンティティは不変である。
 
 著者は「破壊的可塑性」という独自の概念によってこれに異議を唱える。アルツハイマーにおける心的生の終焉を精神分析は人格の破壊としか定義できないが、著者によれば、それは古い人格の破壊を通じての新たな人格の創造である。つまり個人のアイデンティティは可変的である!(その証拠として著者が持ち出すのは、ダマジオ経由のフィニアス・ゲージであり、オリヴァーサックスチック症患者である。) 

 フロイトにおける可塑性(plasticité)の概念は、心的装置の外郭(「衣服」)にしか適用されずにその核心には及ばず、もっぱら補完的・修復的な方向に作用するだけの、予定調和的な「弾力性」(élasticité)にすぎず(要するに慣性ないし恒常性の別名)、現代脳科学における可塑性の観念もやはりその轍を踏んでいるのに対し(両義的な「レジリエンス」概念)、著者は全般化された可塑性の概念として「破壊的可塑性」ないし「否定的可塑性」というヴィジョンを提示している。そしてほかならぬフロイトの「死の欲動」の概念のうちにその可能性を読みとろうとしている。

 フロイトにおいて、死は本質的に内的な過程であり(死の固有化)、死という現実の出来事は自己を消滅させることへの内的な要請(「終焉=目的」)を実現させにやってくるにすぎない。フロイトは欲動を終止二元的なものととらえたが、死の欲動は生の欲動(エロス)と対にされることでどこまでも生存という目的に奉仕させられる。

 「快原則の彼岸はない」という前提に精神分析の決定的な限界を見出す著者は、二元的な欲動を分離(désunion)したところに想定される、「生存」から切り離された「死の欲動そのものの形象」に「破壊的可塑性」の表現を見出し、「新しい負傷者たち」の「人格」(無関心、情動の不在)をそれに重ね合わせようとしている(「新たな一元論」としての脳科学にそのヒントがあるとされる)。「人間は死者になる前に死ぬことができる」と書いた「スピノザは正しかった」(ダマシオ)というわけだ。

 著者が精神分析に最後に手向けるキャッチフレーズは「転移の死」という勇ましいもの。なお、精神分析がすぐれて今日的な心の苦しみ(暴力、残酷さ)に対して無力であることは『精神分析の état d’âme[心理状態=心の迷い]』のデリダも主張しているところだが、デリダ脳科学を嫌悪し、今日的な心の苦しみを引き受ける責任をすべて精神分析に負わせようとしていることはやはり著者の批判の対象になる。また、著者は現代脳科学がともすると精神分析的な発想にすり寄りがちなことに釘を刺すことも忘れない。

 第一次大戦開戦から一世紀。すでにデリダが述べていたように、いまこそ新たな「戦争はなぜ?」が書かれなければならないときである。3・11以後を乗り切るためのヒントを提供してくれそうな点でも、わが国に紹介される価値のある本だろう。