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精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネーの『リオ・ブラボー』論:ダネー著作集を読む

*Serge Daney : Un art adulte, in La maison cinéma et le monde, tome 1. Le temps des Cahiers, 1962-1981. (P.O.L., 2001)

 すでに全三巻が完結し、ときどき引っ張り出しては拾い読みしていた分厚い著作集。わざわざ年代順に並べてくれているのだから、最初から順にぜんぶ読まなきゃ損、とふと気づいた。というわけで、第一巻の巻頭に置かれているダネーのデビュー作を再読する(「カイエ」のダネー追悼号に再録されたのを読んだのはずいぶんまえのことだ)。齢18のみぎりの『リオ・ブラボー』論。「大人の芸術」という洒落たタイトル。初出は Visage du cinéma 創刊号(1962年)。すでにして超一流の批評文だ。リヴェット(「ハワード・ホークスの天才」)以下の「カイエ」の批評を読み込み、じゅうぶんに咀嚼したうえで、『リオ・ブラボー』を、ホークスの映画術の到達点と位置づけている。たとえば、冒頭で提示されるテーゼ。いわく、『リオ・ブラボー』は『脱出』のあるしゅのリメイクであり、『脱出』で素描された「フーガの技法」の完成形である。「フーガの技法」とはすなわち、「ひとつひとつの旋律が他の諸旋律との関係において、他の諸旋律に依拠することで、はじめて存在している」ことの謂いであるとされるのだが、ここにリヴェット的なことばづかいの反響を読み取ることはむずかしくない(たとえば、『私は告白する』論)。この若き批評家によると、すみからすみまで西部劇でありながら、『リオ・ブラボー』は「西部劇ならざるもの」(a-western)である。誇張や神話を拒否し、リアリズムを徹底させた『リオ・ブラボー』。そのリアリズムは西部をものめずらしい見世物に仕立て上げるためではなく、あくまで心理的な必然性に奉仕している。登場人物のキャラクターは、もっぱらひとつひとつの身振りや行為をとおしてあきらかにされる。すぐれてホークス的な空間としての監獄。囚われからの自由ホークスの活劇のすぐれて精神的な目的地だ。盲目から明視への歩みという形而上学的冒険譚。たとえば、ジョン・T・チャンスは自己を過信しているがゆえに盲目であり、囚われの身なのだ。ウェインの登場シーンを見よ。仰角はかれの無敵ぶりをあらわしている。とおもうや、一瞬後にはたちまちディノ・マーティンに殴り倒されている。このきわめて「ベティカー的」な強者の失墜劇にすでにしてこの人物の変容の兆しが宿る。ホークス的人物は「現状維持[immobilisme]の拒否」「停滞への怖れ」「麻痺への強迫観念」につきまとわれている。『暁の偵察』『シーリング・ゼロ』しかり。『赤ちゃん教育』では「運動の受肉、それゆえ生の受肉」であるヘップバーンケイリー・グラント化石から人へと変容させる。『リオ・ブラボー』はラストで冒頭と同じシーンにもどる。しかし、形式的には同一でも、その意味あいは異なっている。フーガの技法は円環ではなく、螺旋である。「永続的な生成変化をくりかえすミクロコスモス」としてのホークス的宇宙が閉じられているとすれば、それはホークスの映画が徹底して人間の世界を舞台としたものであり、超越的な世界から絶望的なまでに切り離されているという意味においてである(人間の目の高さに据えられたカメラ)。そのいみでホークスは「もっとも唯物論的な映画作家」である。天晴!