alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

ジョルジュ・ディディ=ユベルマンのサミュエル・フラー論

*Georges Didi-Huberman : Remontages du temps subi, L’œil de l’histoire, 2 (Editions de Minuit, 2010)

 サミュエル・フラー米軍第一歩兵師団(Big Red One)第16連隊の一兵士として、終戦とほぼ同時にファルケナウの強制収容所に踏み込む。そこで想像を絶する情景を目にしたかれは、母親に送らせてあった Bell & Howell の16ミリカメラをまわし、21分のサイレント映像を撮影した。

 「職業的な殺し屋たちについてわたしが撮ったさいしょのアマチュア映画だ」とのちのフラーは毒のある笑いを浮かべながら回想している。フラーが長年公にしなかったそのフィルムは、現在ではエミールヴァイスによる『ファルケナウ、不可能のヴィジョン』(1988年)というドキュメンタリー映画のなかで見ることができる。

 この映画のなかで、フラーは『ショアー』の証言者たちのように、ファルケナウの収容所跡をたずね、当時を回想して語っている。それだけでなく、当時自分が撮ったサイレントの映像のバックで(あるときは映像の「前」で)映像をコメントしている。この点は、アーカイヴ映像をけっして使わなかったランズマンの映画とちがうところだ。ランズマンは、ショアーを映像化することは、ショアーという特異な現実を一定のかたちにあてはめ、それを理解したつもりになってしまうことであり、ひいてはショアーという現実を矮小化することだと考えていた。一方で、ヴァイスの映画は、フラーの映像そのものをショアーという出来事の「証拠」として召喚しているというより、カメラのまえで映像と撮影者とを対峙させることで、そこから過去の真実がどのように立ち現れてくるのかを見つめようとした映画であると言えよう。したがって、フラーのコメントもまた、写真のキャプションのように映像の真実を教示するという資格で召喚されるものではあり得ず、映像によって影響されたもの、映像によって喚起された「エモーション」というフィルターをとおして発されたひとつの声にすぎないものと位置づけられる。

 インタビュー集『映画は戦場だ!』(筑摩書房)には、まさに「映画はエモーションを甦らせる」と読めるが、一方でフラーはこうも述べている。

 戦争はエモーションを事とするものではない。戦争はエモーションの不在を事とする。この不在、この空虚こそが戦争のエモーションだ。 
A Third Face

 『最前線物語』のリー・マーヴィンの表情は、この「空虚」の最たる具現ではあるまいか……。

 くだんの21分間の映像について、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンが「収容所を開く、眼を閉じる:映像、歴史、読解可能性」と題された秀逸な考察を発表している(『堪え忍ばれた時間の再編集——歴史の眼2』所収)。

 ディディ=ユベルマンはランズマンらのあからさまに偶像破壊的な立場を批判してきた。アーカイヴ映像を拒絶することは、けっきょくはホロコースト否定論者を利することになるだろう。真実を知る手がかりになりそうな映像が残っているのなら、利用できるだけ利用しつくすべきである。目を見開いて、映像に刻印されているかもしれない事実の痕跡を見つけ出すべきである。『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』(平凡社)では、アウシュヴィッツガス室で隠し撮りされたらしい何葉かの写真の切れ端をとりあげ、キャプションを絶望的に欠いたそのピンぼけ写真のフレームの内側から立ち現れてくるかもしれない真実にしつように目をこらそうとしている(そこでは、構図の傾き、ブレ、ボケさえもが真実をあぶり出すための手がかりとして召喚されることになるだろう)。

 ディディ=ユベルマンからすれば、偶像破壊者たちのように映像が真実を伝え得ないなどと姑息にも考えることは、ぎゃくに映像の力を過小評価しているということになるのであろう。大いなる偶像崇拝者(?)ディディ=ユベルマンにとって、それは瀆神的行為にひとしいということなのだろう。

 フラーの映像の冒頭には、ボール紙に無造作に書きなぐられたクレジットが映し出されるが、そこに撮影者フラーの名前は記されていない。アウシュヴィッツの写真の切れ端と同様、フラーの映像はいわば「作者」を欠いた映像である。ディディ=ユベルマンは、この匿名的な映像とその撮影者の声との「モンタージュ」に目と耳をこらし、そこに読みとれるものをひとつひとつていねいに拾い上げようとしている。

 ディディ=ユベルマンまなざしを引きつけるのは、収容所という限界状況のなかでなお失われることのなかった人間性である。

 たとえば、フラーが人々の集団を撮った映像には、その人たちの職能や位階に関係なく、ひとりひとりの「痛み、運命、責任、羞恥」が映し出されている。かれは人々を「群衆」としてではなく、「コミュニティー」として見つめている。

 また、フィルムの大半を占める圧倒的な埋葬場面に読みとれる尊厳。死体の到着と同時に自発的に起立する一同。その前で脱帽し、手ずから服を着せ、覆いをかけ、土の上に横たえ、その眠る場所を標す人々。映像を見るフラーの長い沈黙。ときおり小さく鼻をすする音だけが聞こえる。

 フラーの映画は、どのように人々が尊厳のための空間と時間を恐怖のさなかに開くことによって収容所を解放しようとしているかを示している。

 そして、こどもへのまなざし。死体の運搬中、玩具の銃で遊んでいる道端のこどもにふと向けられるカメラ。墓穴に並べられた死体に白い覆いをかぶせるこどものショット。収容所が民家に隣接していた事実を告げるパンショット(『最前線物語』の花畑と有刺鉄線を隣接させたショットにこの現実の反映を見てとることができる)。二つの世界を隔てる小高い丘はこどもたちの特権的な遊び場でもあった。「この丘で遊びながら、こどもたちは収容所の内部を見たはずだ。[……]こどもたちは丘を上り下りすることがだいすきだ」。

 こどもの無垢なまなざしに映ったものを、このこどもたちが将来大人になってから、どのように引き受けるのだろうか? そこからどんな教訓を引き出すのだろうか? フラーが恐怖をまえにしてなおもカメラをまわしつづけ、人間がいかに尊厳を欠いたおこないにおよぶことができるかを記録したのは、こうした試練のたすけとするためである。フラーの映像は、ナチス証拠をつきつけるために撮られたのではなく、こどもたちの将来にむけて撮られている。このかぎりでフラーの映画は教育的である。

 子供時代と歴史をひとつの根本的な関係が結びつけている。サミュエル・フラーは映画によってこの結びつきを補完する。

 そしてそもそも「フラーの映画全体が子供時代に取り憑かれている」。『最前線物語』の「主役」もまたこどもたちである。ストーリー上は脇役にすぎない子供たちが、<歴史>の主役になるのだとディディ=ユベルマンは書く。
 
 こどものまなざしの無垢が、すでに『戦火の傷跡』において、ニュルンベルク裁判で元ナチスの少年が収容所の映像を目にして改心する場面でも主題化されていることを指摘しつつ、ディディ=ユベルマンは、オーソン・ウェルズの『ストレンジャー』にこれと似た場面があることを想起させる。

 そこでも収容所の映像を見ることを強いられるのは、若い女性というやはり無垢な存在であり、やはり映像を見る者の顔に映写される映像の反映がオーバーラップしている。

 『ストレンジャー』は、商業映画においてはじめて収容所のアーカイヴ映像を使った作品とされている。この作品では、身分を隠してアメリカのスモールタウンに潜伏する元ナチスの高官をウェルズが演じている。ナチス狩りのためにスモールタウンを訪れた検事(エドワード・G・ロビンソン)は、かれの新妻(ロレッタ・ヤング)から捜査への協力をとりつけようと、自宅で収容所の映像を映写して見せながらかのじょに夫の正体を明かす。
 
 いみじくもユベール・ダミッシュが、「カイエ・デュ・シネマ」(2005年3月号)に寄稿したテクストのなかでこの場面を論じている。ダミッシュは、この場面で映写される映像が『ストレンジャー』の観客に対してはごく断片的に示されるだけで、映像に映っているものがどのようなことであるかは、大部分その映像を見るロレッタ・ヤングのリアクションを通じてのみ伝えられるという演出に注意を促している。

 モンタージュ(映像と妻の切り返し)を通じて、ショアー表象アーカイヴ映像そのものの上から、画面外の不可視の領域に移動させていることをもって、ダミッシュはウェルズがランズマンの[偶像破壊者的な]観点を先駆けていると論じている。「映像の問題とされているものは、映像によってではなく、言語によって解決される」とする「ラカン主義者」ジェラール・ヴァイクマンに依拠しつつ、ダミッシュは、ショアーの映像は「モンタージュ」によって言語化あるいは書字化されることを通じて真実を語るものとなるとし、映像そのものの上に真実を読みとろうとするディディ=ユベルマン偶像崇拝者的な観点を槍玉に上げている。

 この場面は、フロイトが夢について述べている意味における判じ絵に近いものであることによって注目すべきものとなっている(そしてじっさい、若妻が一部始終を目にするのは、いっしゅのわるい夢、おぞましい悪夢としてである)。エイゼンシュテインメタファーにならっていえば(このメタファーフロイトのものでもある)、モンタージュ象形文字エクリチュールと同様に、性質とレベルのきわめて異なる図像的、言述的、ひいては音響的諸要素を結びつけ、大胆にも、映画のなかに、そして上映という純粋に記号的なかたちのもとに、物音と光を結びつけながら、撮影されたものでありながらまったく虚構的ではない資料をインサートしている。スクリーン上には短くもおぞましいいくつかの断片しか映らないドキュメンタリー映像のことである。これらの映像に写真の場合のような「キャプションをつける」方法を含め、これらの映像を提示する様式そのものが、モンタージュという観点から言うと、「フィルムの切れ端」(ジョルジュ・ディディ=ユベルマンアウシュヴィッツガス室の一つから撮られたとされる写真について述べた口ぶりを真似るなら。この写真はじっさいにはずっと以前から知られているものだが、いずれにしても、どんなに想像力を働かせたところで、厳密な意味でのガス室の映像などとはみなすことができないだろう。[……])に映っているもの[donner à voir]よりも重要なのであり、この映像そのもののこわさは、検事の期待するところではあとからじわじわと効果を発揮するものなのだが、われわれにとってはもはや見慣れたものにすぎない。「いまや娘さんは事実を握っています。しかしそれを受け入れたくないのです」とかれは判事[女性の父親]に言う。「とはいえ、われわれには味方がいます。かのじょの下意識です。下意識が何が真実かを知っており、その真実が聞き届けられるべく格闘しているのです」。
(Hubert Damisch : Le montage du désâstre)

 ダミッシュは、ランズマンのようにアーカイヴ映像を端から拒絶するわけではなく、映像は「モンタージュ」という操作を通して言語化(書字化)されることによってはじめて真実を語るものになると主張する。そしてディディ=ユベルマンもそうした考え方そのものには同意している。しかし、ダミッシュが映像に映っているものを二次的とみなすことには反発し、『ストレンジャー』においてアーカイヴ映像がフレーム外においやられているとするダミッシュの断定に疑義を呈する。ダミッシュは映像に対する女性のリアクションをとおして映像に映っているはずのものが観客に伝えられるとしているが、そもそも女性が堪えられずに部屋から駆け出すのは、映像というよりも検事の言葉に対するリアクションかもしれないのだし、さらに致命的なことに、ダミッシュは映像がそれを見る女性の切り返しショットのうちに顔を照らす反映として映り込んでいる事実を無視している。つまり、切り返しショットのフレームのなかで、映像とそれを見る者とが「モンタージュ」されているという事実を。

 『戦火の傷跡』と同じく、このショットはニュルンベルク裁判においてじっさいに被告たちの顔を映像の反映が照らしていた事実を踏まえている。ディディ=ユベルマンによれば、ダミッシュはそのことを知らない。

 ディディ=ユベルマンは、このオーバーラップにおける映像の二重化、見る者と見られる映像、あるいは見る映像と見られる者との対峙が、それじたい新たに構築された映像であり、読解に付されなければならない状況なのだと主張する。

 いみじくも『ストレンジャー』のうちに「モンタージュ」の新たなあり方を見てとり、それをモーリス・ブランショにならって「厄災のモンタージュ」と呼ぶダミッシュは、そのようなモンタージュ概念を、二重化された映像の「構築」という契機と解するか、それとも言語への映像の「還元」(これは検事が精神分析家の役を演じて、真実を女性の口に上らせるプロセスでもあるだろう)と解するかのあいだで揺れている。

 かなりあからさまな悪意をむけてくるダミッシュに対して、ディディ=ユベルマンの議論の仕方はフェアである。ディディ=ユベルマンにとって我慢がならないのは、映像という問題を「解決」されるべき悪、解消されるべき病であるかのように決めつけるファナティックな偶像破壊者ヴァイクマンの見解である。そもそもフロイト自身、ヒステリー患者の身体症状やレオナルドの絵のつきつけてくる謎を言語に解消することで性急に「解決」しようなどとはせず、その謎がみずからの真実をついに明かすにいたるまでその謎に身を委ね、どこまでもつきしたがおうとしていたのではなかったか。

 新たなモンタージュ概念が構築する二重性とは、ディディ=ユベルマンによれば、ベンヤミンの言う意味での「弁証法」になぞらえるべきものであり(それは「綜合」でも「解決」でも「解消」でもない)、また、映像の前でかつてのこどもとしての無垢なまなざしを見開きつつ、それと同時に、すでに子供時代を過ぎたひととして、その映像の「読解可能性」を構築していくことの二重性でもあるのだという。

 読解する[lire]とは、このふたつのことをむすびつけること[lier]だ——ドイツ語の lesen にはまさに、読むこととむすびつけること、集めることと解読することの意味がある。われわれの生身の顔のうえで、われわれの眼が開いたり閉じたりをくりかえすのと同じように。