alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネー著作集を読む(4)

 「もっとも大仕掛けな陰謀」と題されたシャブロル論(1965年12月号)。「スーパータイガー/黄金作戦」におけるカリカチュアは、たんなるこけおどしでも韜晦でもおもねりでもなく(そうしたものにとどまっているかぎりでカリカチュアはひとつの文体たりえない)、笑止な現実そのものを笑いのめすための武器である。ついには「もっとも純粋な錯乱」に至りつくそのカリカチュアの徹底した恣意性は、厳密な因果的必然性に立脚するヒッチコック的なカリカチュアの対極にあって(もっとも反ヒッチコック的な映画作家としてのシャブロル)、ものごとの見かけのはかなさと空虚さそのものを残酷なまでに映し出している。シャブロルの映画にあってはつねに陰謀が存在し、「最後の一文がそれまで積み上げられてきたすべてを無に帰す」モーパッサン短編小説みたいに外観の虚偽性をあばきだす。シャブロルが撮る絵葉書のように既視感にみちたショットは、映画に描かれる現実がすでに画面外のだれかに眺められた眺めであり、それゆえそのまなざし痕跡を刻印された眺めであることを示している。シャブロルによれば、畢竟映画というものこそ陰謀の最たるものなのだ……。
 こういうスペクタクル批判みたいな主題は、リヴェットの「条理ある疑いの彼方に」論あたりを踏襲しているといってよい。シャブロルヒッチコックよりもラングに近づけている点は正解だろう。よくもわるくもこの文章はその後のダネーの思想を占うものだ。すべては見せかけであるとするシニシズムに居なおるポストモダン的な映像論が席巻した70~80年代にあって、誰のまなざしにもけがされていない眺め、映像の無垢をかれは生涯どこかで信じ続けていたようにおもう(たとえばかれがストローブの映画において見出そうとしたもの)。それは「偽なるものの権能」を言祝いだドゥルーズがその一方で「世界への信頼」を断ち切るまいとした態度とつうじるものかもしれない。