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精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネー著作集を読む(5)

 「リチャード・クワインは鏡の効果がすきだ」ではじまる『求婚専科』評(1965年12月号)は、コンパクトにして的を得たチャーミングなクワイン論に仕上がっている。「クワインがもっとも実力を発揮するのは鏡の使い方においてだ。登場人物たちはその効果に少々とまどって、ついにはじぶんがだれであるかがよくわからなくなってしまい、悲劇の様相を帯びはじめるも、幕切れでは、かれらじしんとおなじくらいこころやさしくきずつきやすいかれらの創造者によってすくわれるのだ」。そもそもクワインの登場人物じしんが芸術的創造に準じた活動をなりわいにしていることが多い。『逢う時はいつも他人』の建築家カーク・ダグラス)、『スージーウォンの世界』の画家(ウィリアム・ホールデン)、『パリで一緒に』の脚本家ホールデン)、『女房の殺し方教えます』の漫画家ジャック・レモン)……。「だいじなのは、——クワインへのわれわれの親近感もここからくるのだが——かれの登場人物たちがあまりにもナイーヴなことだ。あまりにも明晰で、あまりにもセンシティブなのでまわりの世界に適応していくことができないのだが、とはいえあまりにも辛抱づよさに欠けてもいるので、まわりの世界と完全に縁を切り、その魅惑的な外観の誘惑を断ち切ることもできない。かれらはたえずその両極のあいだを行ったり来たりしており、つねに板挟みになり(entre deux eaux)、二つの声に引き裂かれている。作品を完成させよという声にひとたびしたがうや、おおやけのものとなり、じぶんにとってよそよそしいものとなったその作品はたちまちかれらを裏切って、内密でひそやかなこころの声との確執が生じる……」。このようなどっちつかずなところがよくもわるくもクワイン的なのであって、それゆえにかれの映画は大きなテーマを手がけていながらささやかな出来映えに甘んじている。この相対的な成功の見返りとしてかれの映画にただよう甘美なメランコリー。そのなかで「かつてその瞬間をとらえることなどできないとおもわれていたもの」が不意に視覚化される。すなわち、二人の人間のあいだの親密さ。そして二人を近づけ、二人がそのなかで胸ときめかす空間。結びの一文。「『求婚専科』には奇妙で心を引き裂くようにノスタルジックなシーンがある。ローレン・バコールとフォンダが目に涙を浮かべながらゆるやかに踊るシーンだ」。

 批評が愛の行為であることを思い知らされるような隠れた名文である。メランコリーはのちのダネーの批評のキーワードになる。『不屈の精神』の原題の形容詞形であるpersévérent という単語が使われていることも感慨ふかい。