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精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネー著作集を読む(3)

 「カイエ」に新作のレビューとしてはじめて書いたのがタシュリン=ルイスの『底抜けオットあぶない』について。ジェリー・ルイスフランスにおける受容、とくにその映画の政治性の意義についてはわれわれのバックナンバー「二つのジェリー・ルイス論」を参考にしてほしい。タシュリンの映画は機械文明の批判であり、自律性を獲得した機械に人間が翻弄される不条理が笑いのめされていると言えるが、その状況を観察するまなざしの精密さゆえに、タシュリンの映画じたいが「歯車の映画」と形容され、そこでは「行ったり来たり」のくりかえしだけが重要なのだとされる(タシュリンがもともとなりわいにしていたアニメーションそのものが「たんなる原因と結果のアート」である……)。そして万事が歯車と化した世界に、その歯車を狂わせる砂粒のように放り込まれるのがジェリーである。ジェリーとは「もっともアナーキーな形態における生」であり、それは人工的に創り出せるようなキャラクターではないし、演出の対象にはとてもならない。舞台装置のなかを暴れ回り、映画を完成させるのはジェリーである。ジェリーは人間の弱さ(それは強さでもある)を保持した唯一の存在であり、その弱さ(強さ)はパントマイムと顰め面とエネルギーの無茶苦茶な浪費というかたちで具現される。1980年代の特殊効果全盛時代におけるダネーの批評をどこか予言しているような文章といえようか。
 「La strada per Fort Alamo」(ジョン・オールド aka マリオ・バーヴァ)は、古代史劇映画(フランスではペプロムという)と西部劇とをミックスさせたキワモの。どうにかしてもっともらしく見せようという努力ばかりが虚しく空回りし、ディティールが一向に全体と結びつかない。バーヴァは自分がやっていることを信じていない。
 「アパッチ大襲撃」(R・G・スプリングスティーン)は、誠実だが退屈。いくつかの風景の美しさだけがせいぜい。
 「ランダース」(バート・ケネディ)は、ペキンパーやデイヴスの映画につらなる後期西部劇だが、ケネディはあたかもかつての西部劇の伝統など存在しなかったかのように撮っている。だれもがパロディノスタルジーを期待するところで、さえない紋切り型を延々見せられるだけ。輝かしい過去も明るい未来もない。この空虚そのものをテーマにしたところが唯一の美点。