alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネー著作集を読む(6)

 ジェリー・ルイスふたたび(1966年2月号)。『底抜け男性No.7』は、薹がたってきたジェリー・ルイスサバイバルを賭けた一作だ。いわばジェリーという「仮面」からのルイスの脱皮が問題になっているのであり、もはやみずからの神話に恃むことなく未知の世界に素顔で踏みだすこの映画の足取りは重厚そのものだ。すぐれて「変容」の映画である『底抜け男性No.7』のなかには二本の映画があり、二人のジェリーがおり、二通りの観客がいる。いつものようにカリカチュアを期待して見にくる大人の観客は6人のルイスの早変わりに舌鼓を打つが、真の映画はその顰め面とジェスチャーの裏側で、ドナ[莫大な遺産を手に後見人候補の伯父たちを訪ね歩く少女]という真の観客にたいして上映されており、後者の映画のほうがより美しく、より新しく、より感動的である。「ドナとその運転手[ルイス]のすることや言うことが無意味であればあるほど、映画は重々しさを増す。なにも起こらなければ起こらないほど、映画は豊かになる。不意にわれわれの脳裡には、ムードミュージックをバックに、ルイスただ一人でつくる、もはや何一つ写さない傑作、ほとんど何も写さない傑作といったものが広がるのだ。だれの目にも見えない極限的な単純さ、究極の裸形[découverte]がとらえることができるのはひとり子供のまなざしだけである。ドナというキャラクターを考えつくことで、ルイスはこれまでもつねに言い続けてきたことを確証している。子供だけがルイスを判ってくれるということだ。というのも、裏の意味など頓着しない子供にとって、ルイスはだれかを演じているのではなく、ありのままのルイスだからだ。ドナが理想の観客であるのは、ごまかすこと、演じること[jouer ばかにすること]が可能であるなどとかのじょが考えてはいないからだ」。その証拠にドナはただひとり演じていない男をさいごに選ぶ。この映画はいわばショー・ビジネス批判の「寓話」にもなっているということだ。

 カラックスの『ホーリー・モーターズ』を見てわたしがまず想念に浮かべたのは、ちょうど同じ頃に封切られた『コズモポリス』以上に『底抜け男性No.7』であった。この連想が存外的外れでもなかったことがこの文章を読んで確認できた気がする。