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精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネー評論集 La maison cinéma et le monde を読む(7)

 ブレイク・エドワーズの『グレートレース』論(1966年2月号)。「陶酔[酩酊]はエドワーズの映画においておおきなやくわりをはたしている(『ティファニーで朝食を』そしてもちろん『酒とバラの日々』)。陶酔は時を急がず、なにものを急かさない。陶酔はゆるやかにものごとをかたちづくり、破壊する。陶酔に身を委ねる者たち、あるいは陶酔に委ねられる者たちがおのれを見失うことはないが、とつぜんかれらの小心さはユーモアに変わり、かれらの皮肉は洞察に、かれらの身軽さ[気軽さ]は振り付けに変わる。映画作家もまただれをも急かさない。考えられないことが可能になり、不可能なものが卑近なものになるにはいつも特権的な瞬間と場所があることをかれはしっており、ギャグや奇妙な告白や甘美な郷愁というかたちをとったそのような状況にたいして人々がどのように反応するかを窺っている。これこそがよく言われるエドワーズの人のわるさだ」。こうした態度はブレイク・エドワーズの映画をアニメーションにちかづける。『グレートレース』において、ブレイク・エドワーズは『ピンクパンサー』の方法論をつきつめ、登場人物から生命を抜き取ってたんなる「象徴」に還元しようとする(たとえば白ずくめのトニー・カーティスは<善>の象徴である)。しかし、その試みは失敗に帰している。ここでダネーはコピ(Copi)のカートゥーンをめぐる長い脱線に踏み入る(コピは1965年に Nouvel Obs で「座る女」という連載を開始する)。ミニマルな描線の自虐的な女性キャラクターが毎週同じポーズでくりかえし登場するだけの漫画が、その執拗さのゆえに読者の共犯性を獲得し、ついには「『そこに居る』ことへの彼女の強情さだけで笑いを誘うにいたる」。そのときそこに立ち上がるのは、「われわれの世界と同じくらい不透明で、錯乱し、ぱっとしない」れっきとしたひとつの「世界」である。「反復されるうちに、カートゥーン(あるいはユーモア画)がそれまでもちあわせていなかったもの、すなわち『厚み』をその身に帯びるにいたり、カートゥーンが図式化することを使命としているはずのもの、すなわち人生を生きはじめるにいたる」。『グレートレース』のブレイク・エドワーズもまた、「いっさいの厚みを失い、重さも身体ももたないその住人が重力から自由になったひとつの世界を夢想した」が、『グレートレース』のシネラマ画面は皮肉にも登場人物たちが生身のトニー・カーティスであり、ジャック・レモンであり、ナタリー・ウッドであることをいやがうえにも際立たせ、カーティスの老け顔、レモンの大根演技、ウッドの下品さをなまなましく身にまといつかせたままである……。
 この「失敗作」にたいするダネーの両義的な感情はいまの目で読めばこそ含蓄に富む。皮肉なことにこのような人間の身体のなまなましさが消滅の危機にさらされた1970~80年代の映画においては、それをひとつの価値として救済することこそがダネーらの批評のひとつの使命と任じられるようになっていく。