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精神分析と映画をめぐる読書案内

セルジュ・ダネーのアラン・ドワン讃:La maison cinéma et le monde を読む(その8)

 同じ1966年にダネーはレーモン・ベルール編「映画事典」(Editions universitaires) のいくつかの項目を執筆している。アルファベ順でまず「アラン・ドワン」。いみじくも『グレートレース』評で脱線というモンテーニュ的修辞をみずから実践してみせたダネーが、ここではドワンを脱線の映画作家規定している。事典項目とは言い条、読み応えのある立派な作家論に仕上がっている。
 「ひとはふつうドワンを冒険映画の典型的な担い手とみなしている。ところで、かれの映画を価値あるものとしているのは、冒険の礼讃というよりも、冒険が溶解し、失われる瞬間である。その瞬間はまた、映画作家が筋の進行を宙吊りにし、いつおわるともしれぬ脱線に踏み迷う瞬間でもある。ドワンの映画はこのようないくつもの脱線、いくつもの挿入句からなっている。バイオレンス・シーンではじまった映画がその十分後にはファミリー・メロドラマや軽妙なコメディーに変わっていたりするのだ。[……]ドワンの映画にあっては、観る者がこまかなストーリーラインを忘れてしまい(あるいはむしろ、その展開がほとんど隠されることなく、先が読めるようにできている)、そのかわりに冒険をかたちづくる幾筋もの脈絡を発見する。人物たちの内面に寄り添いながら紡がれるこの脈絡こそが本物のストーリーなのである。ドワンの映画が秘められたものであるとすれば、それはドワンの映画の慎ましさそのもの、これみよがしを拒む態度そのものからしてそうなのだ。口を噤もうとする意志、あるいは(バイオレンスのさなかにあってさえ)内なる生に忠実であろうとする意志を主人公たちがはっきり打ち出していない場合でも、ドワンの映画においては恥じらいが掟となり、そこでは誤解が無遠慮さよりも尊ばれ、無理解が感情の吐露よりも好まれる。真のみどころは、それゆえ筋の展開に沿って現れるのではなく、主人公の内面生活が脅かされるたびにおとずれる。主人公たちはそのひとなりの秘密を抱いて生きており、その秘密がかれらだけに固有の人間性をつくりあげており、その秘密からかれらはその重みのある身振りと言葉とを汲み上げている。その秘密を失うことは、じぶんが生きる理由、この世にあることの正当性を失うのと同じことだ。それゆえにかれらはこの秘密をひたむきに守り抜こうとする。『対決の一瞬』のジョン・ペインは、親友を悪女と結婚させないために、この友情そのものを含めてすべてを犠牲にささげる覚悟で最大の危険に身をさらすことを辞さない。『Surrender』においては、同じような状況下で、主人公とかれを追う保安官とのあいだにたえず行き違いが生じている。いかなる瞬間にも保安官は主人公の真の動機を知らず、ラストでかれが主人公を殺すときでさえそうなのである。[……]かくしてつねに行為は間違って解釈され、行為の真の理由はわからないままであるのだが、ドワンにあってもっとも大切なのはこの秘密であり、内面に寄り添うことなのである。たとえば、代表作『対決の一瞬』のラストシーンでは、不可避的な誤解をのりこえて生まれる共犯性、最後まで相手に知られることのなかった秘密がついに分かちもたれる瞬間の最良の描写がおとずれる。ドワンの映画の運動とはそれゆえに以下のごとくである。過度に自閉的で過度に傷つきやすい登場人物たちにすこしずつおのれを開かせていくこと。一本一本の作品はそれゆえ、秘密がたどる冒険とその秘密の消失というおもむきをもつ。その秘密を墓まで持ち込むことになろうと、他人と分かちもつことになろうと」。行為に急ぐ登場人物たちを映画作家がじっくりと時間をかけて観察するというのがドワンがその主人公とのあいだに結ぶユニークな関係のあり方だ。「それゆえ、脱線や無駄な時間やトーンの急変は厳密さを欠く映画作家の気まぐれなどではもはやなく、その存在が秘密の重要性の試金石となるような試練である。二つの地点を繋ぐ最短距離はもはや直線ではない。蛇行こそが必要なのだ。映画は侮辱と名誉回復とのあいだの長い回り道となる。つぎからつぎへとおとずれる邂逅を経めぐるうちに、映画作家はいつしか撮っている映画を忘れ、登場人物はみずからの企図を忘れてしまうかのようだ。かくしてぽっかりと空いた『時間の穴(creux)』においては、あらゆることが起こりうる。偶然は映画作家を利用し、また映画作家に利用される共犯者に仕立て上げられる」。偶然を味方につけるこのような才覚ゆえにドワンは本質的にB級映画の撮り手であり、この才覚を発揮できない超大作においては力をもてあましてしまうのだ。「思いがけないことがいつなんどきでも起こり得、すべてが発見のきっかけであるような柔軟な映画。数ある発見のうちでもっともシンプルな発見は、時間はかけがえのない財産だという発見である。たくさん浪費してこそ、その価値を知ることができるのだ。冒険映画の先達であるドワンがその挑戦にもっとも勇敢でもあったことはおどろくべきことでもなんでもない」。