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精神分析と映画をめぐる読書案内

ロジーヌ&ロベール・ルフォールを読む:『<他者>の誕生』(その3)

*Rosine et Robert LEFORT : Naissance de l'Autre, Seuil, 1980.

 症例ナディア(前回の続き)——10月12日、看護師が他の子供たちに食事をさせていると、ナディアは水兵を叩き、ほうりなげる。そのみぶりには感情がともなっているようにはみえないが、ほかの子供が世話を受けていることにたいするかのじょの反応であることはたしかである。このような状況にあるばあいをのぞいて、ほかの子供たちはかのじょにとって存在していないのだ。反応がささやかなものであるために、だれもこの反応に気づかない。わたしがその場にいあわせ、言葉によってかのじょの身振りを引き受けなければならない。それによってひとつの意味が浮上しはじめる。ナディアのリアクションは嫉妬とはよべない。じぶんのばんになると、ナディアは食事をまず拒否し、あげくいやいやのみこむばかりであるから。おとなの膝にのせられているときも、物体のように動かずにいる。ナディアにとって問題なのは大人が子供を世話するところを「見る」ことだ。ナディアにとっての対象は口唇的なものではなく、視覚的なものである。『四基本概念』のラカンが想起させているように、嫉妬(inidivia)は見る(videre)に由来している。そのもっとも典型的な光景は、弟の授乳にむけられる子供の「毒」のように「苦渋にみちた」まなざしである。そのとき子供が欲している(envie)のは母親の乳房ではなく、失われたじぶんのかたわれである。ナディアにとって、食事は欠けているじぶんの一部を補う<現実的なもの>ではない。現実の食事は、欠けるものなき他者(l'autre)の「イメージ」を、それにむけられたかのじょの「欲」(envie)を、おしつぶしてしまう。このイメージを、この欲を生かしておくために、大人とほかの子供の登場する光景が呼び出され、対象とそのイメージの乖離が維持されねばならないのだ。こうしたものこそラカンの対象(a)であり、ロジーヌはここではじめてナディアの「欲望」に言及している。要求をむけるべき<他者>を欠くナディアは、現実的な対象の「空虚」においてしか欲望を維持することができない。かのじょがものを掴んでは放すとき、かのじょが手にしているのはこの「空虚」にほかならない。ボディーコンタクトの拒絶にしてもおなじである。身体の現実的な享受[ラカン的な「享楽」は快楽というより苦しみである]はかのじょの欲望を殺してしまう。これこそかのじょがわたしとのあいだに引く境界線のいみであり、かのじょの健康状態の急変のいみである。やつれきった彼女はその「眼」だけを異様に輝かせてはいなかったか。欲望を生かしておくために、かのじょはその欲望をおしころしにやってくる<現実的なもの>すなわち身体を犠牲に供そうとしたのである。「視覚を特徴づけることは、そこにおける主体の脱落[chute]がつねにきづかれないままであるということだ。というのもこの失墜は無[零]に帰されているからだ」(ラカン)。