alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

ロジーヌ&ロベール・ルフォールを読む:『<他者>の誕生』(その4)

*Rosine et Robert LEFORT : Naissance de l'Autre, Seuil, 1980.

 症例ナディア(前回のつづき)。10月16日から11月7日。わたしだけといるとき、ナディアはじぶんのなかにこもっている。耳漏と下痢でどこか死臭のようなにおいを発している……。わたしはかのじょのうしろにすわる。他の子供がかのじょのちかくにあるブロックをとると、わたしのほうに飛び退き、わたしのほうをむいて、片手をさしのべる。片手だけを。わたしにはっきりした要求をむけてくるのはこれがはじめてだ。ただし、この要求は他人の攻撃にたいする驚きがもたらしたものだ。
 10月23日。わたしはかのじょのそばの地面に腰を下ろす。ブロックがそばにある。かのじょはなにもしない。まなざしは死んでいて、顔色はひどくわるい。わたしはかのじょに笑いかけるが、触れることはしない。かのじょはこたえず、無表情にわたしをみつめる。別の子がわたしのほうにくる。するとかのじょはわたしに両手をさしだす。さいしょはおずおずと、そのうち手を伸ばしたままにする。しかし指は内側に曲げている。掌を上にして。わたしはかのじょを膝にのせる。かのじょは長いことわたしをみつめる。微笑みがかすかに萌す。それから一本の指でわたしの口を探りはじめる。また別の子がわたしのほうへきて、わたしにふれる。かのじょはとびのき、その子との接触にたいするあからさまな嫌悪をあらわす。かのじょはからだを固くし、顔がくもる。子供がむこうへいくと、リラックスし、わらいながらわたしの口をまた探る。
 夕食のとき、小さい椅子にすわっている。両手でテーブルの端を支え、はげしくからだをゆすっている。しまいにテーブルの下にすべりおちる。めのまえのチーズには手をつけない。わたしがちかづくと、わたしから目をはなさない。
 10月24日。かのじょはじぶんからわたしのふところにやってきて、わたしの口を探る。いみのわからない言葉をはじめて漏らす。わたしがブロックをわたすと、それをつかむ。それをもったままでいるが、別の子がわたしの膝にしがみつくや、れいのように飛び退いて手からはなす。目をしきりにしばたたかせている。チックのように。この動作はそれっきりみられなかったが、正確ないみをもっている。わたしか別の大人といるとき、別の子が視界に入ってくると、自傷的なみぶりをみせるのだ。
 10月25日からは、健康状態の悪化と集団生活のストレスを理由にお庭にいかない。10月27日、わたしが寝室に入ると、すぐにわたしにきづいてわらいかける。かのじょのまくらもとにすわろうとわたしが椅子をとるのをみると、なにごとかつぶやいてわらう。かのじょはまくらもとにくつろいですわり、なんどかためらったあとで、かがみこみ、指でわたしの口にふれる。膝に抱いてほしがる。しかしとつぜん表情がくもり、からだをかたくする。わたしは無意識のうちにとなりのベッドの手すりに手を置いていた。そのベッドは空だ。ほかの子たちはお庭にでている。わたしが手すりから手をひっこめたとたん、かのじょは笑う。わたしの胸ポケットからのぞいていた鉛筆をとり、床にほうりなげる。わたしにとってこいというように鉛筆を目で追い、わらいころげる。そのとき失禁する。看護師に着替えをさせてもらいながら、わたしを目でさがして泣いている。わたしがそばにいくと泣きやんで、はしゃぎながら鉛筆をもてあそぶ。28日もボディーコンタクトがつづく。わたしがちかくにいくと、小刻みにからだをゆすり、指をわたしの口につっこんでは吸い、またつっこむ。それからその長い十本の指でわたしの両手にそっとふれる。わたしの指を一本つかみ、ゆすったかとおもうととつぜんやめる。鉛筆とおなじぐあいにいかないことにとまどったかのように。つまり、その指を切り離し、ほうりなげてわたしにひろいにいかせることができないことに。かのじょはもうどうしていいかわからない。だいてくれというようなしぐさをみせるが、わたしが手をさしだすと、表情をこわばらせ、両手を後ろ手にして背中をむける。わたしがさそいかけるのをやめると、また指で口をさぐる。そしてながいこと、不安なまなざしをわたしにむける。医師が回診にくる。かのじょはすばやくからだをまるめ、親指をくわえ、もう一方の手を頬に置く。第三者をまえにしてわたしからじぶんを切り離そうとしているかのように。

 こんかいのパートはほぼ全訳。