alacantonade

精神分析と映画をめぐる読書案内

ロジーヌ&ロベール・ルフォールを読む:『<他者>の誕生』(その2)

*Rosine et Robert LEFORT : Naissance de l'Autre, Seuil,1980.

 症例ナディア(前回の続き)。
 
 15日。あらためてナディアはかのじょの要求(demande)をわたしに向ける。わたしがちかづくと微笑み、わたしが別の子供に近づくと小さな叫びをあげ、泣き出す。やがてあきらめてわたしに背中を向け、口に片方の親指をくわえるが、吸うことはしない……。さいしょのうち、わたしはまだようすをうかがうだけだった。これほど幼い子供の治療にふみきる決心がつかないでいたが、つづく何日かのあいだにナディアの健康状態が悪化し、極度に衰弱して、何を差し出されても手を伸ばすことなく、たえず体を揺すっている状態にもどる。「幼い老女のようなかのじょの顔には、もはや悲愴で荒涼たるまなざししかやどっていない。わたしがかのじょのもとをはなれるとき、かのじょはそのまなざしをむけてくるのだ。わたしをかのじょのところにもどっていかせたのはこのまなざしだった。かのじょにとっての、そしてわたしにとっての精神分析の冒険を開始させ、そしてわたしを分析家にしたのはこのまなざしだった」。

 わたしはナディアにとって母親代わりではないし、ナディアがこれまでに知っている施設のどんな人間ともちがう人になる。不必要に身体にはたらきかける(あやつる)ことはしない。食事をあたえて口唇的な欲求を満足させることはしない。もっぱらまなざしと声だけでコミュニケートする。そうしてかのじょが愛の要求(demande d’amour)を持続できるようにする。かのじょが何を拒むのかはかのじょじしんがいう。体をもたせてきたかのじょを抱きしめようとしたときのかのじょの拒絶……。ナディアとわたしの関係の限界をきめるのはかのじょである。「身体という純粋な<現実界>はあらゆる関係を不可能にする」。じっさいかのじょはこれまで身体にはたらきかけられる(あやつられる)ことはあっても、話しかけられることはなかった。ここでいう<現実界>とは、ナディアがわたしにむける「要求」というかたちで接近しつつある<象徴界>との関連でとらえられねばならない。それはわたしへの関係において、むしろわたしの身体への関係において、象徴化されそこなうもの(ce qui manque à être symbolisé)である。「不可能」とはこのようなされそこないという“存り方”であって、否定性や不能性をいみしない。ナディアはいろいろなかたちで<他者>を知っていたが、かのじょにとってはこの<他者>がパロールによってかのじょに主体としてのステータスをあたえそこなってきた。治療においてわたしはこの<他者>のポジションに身を置き、ナディアはこのステータスを手に入れることになるだろう。

 当初、わたしはナディアが課してくる境界線ナイーヴにならざるをえない。わたし自身が神経症にくるしんできたので、身体のレベルでそのくるしみを受け止めてしまう。身体を癒すべきものとしてしか受けとれない。ナディアも世話してもらう身体しかしらない。周囲のあいまいな思いやりは、現実的に(réellement)あやつられる身体のうちに主体を完全に孤立させ、パロールが主体というポジションを保証することをさまたげる。これを経験しているからこそ、わたしは母親代わりには向いていない。世話をすることで、(じぶんの、そして子供の)身体という<現実界>を不用意に危険にさらすという役回りには向いていない。とはいえ、母親代わりいがいのどんな役目を引き受けられるかは皆目わかっていない。ただ、ナディアがむけてくる要求を注視し、いつでもそれを受け止める覚悟ができているだけだ。理論的な知はもちあわせていないが、無意識の知はある。要求と身体の関係づけ(articulation)についての知だ。ナディアはわたしとの関係のなかで、わたしに言い、わたしに差し向けるもの(要求であれ拒否であれ)をとおして、身体(かのじょの身体とわたしの身体)を徐々に生きなおす。分析をとおして、ナディアはわたしの身体の現実的な性質をわたしに教え、それを放棄するようわたしに迫る。わたしがナディアの問いをうけとめ、かのじょが言わなければならないことに耳を傾けるよう迫る。生きていくために口にされなければならない死に耳を傾けることを迫る。かのじょのため(bien)を考えることをやめ、かのじょをたすけようとする意図をすて、かのじょのドラマに波長を合わせ、かのじょがわたしのほうに身を寄せ、かのじょのドラマがおのずから語られ、きき届けられる場(lieu)となることを迫る。世話と欲求(besoin)の満足としてあたえられたものが、かのじょをはじきだし、うつろにし、死なせる役にしかたたないということをかのじょが口にできる場にわたしはなる。かのじょはもはや対象関係を結ばない。大人といるほかの子供に投げるまなざしをつうじてのほかは。